1章 4話

「は…?…え?」

 なんだ、この妙なじーさん…。

 老人はマンホールほどのサイズの、ものすごく大きな金属様の輪…船の舵に似たものを両腕に引っかけた姿で、体に不釣合なほど大きい台帳をぱらぱらとめくっている。

 どこか近くにでも降ろしておけばいいのに、あんなものをぶら下げているなんて邪魔ではないのだろうか。

「遅い」

「ごめんなさい」

 何が何だかわからぬまま謝るとじーさんはうむ、と頷いた。

 辺りを伺えば巨大な泰山王の姿はどこにもなく、気づけば殺風景な河原に戻っていた。

 時系列という言葉をまったく無視したあの世に、俺は感心しながらも少し呆れていた。

 王様に引き渡すために移動すること自体は必要だったのかもしれないけれど、これじゃあ脱衣姐が川を渡ってきたことさえ無意味だったような気がする。

「有馬大樹」

「は、はいっ!」

 答えながら思わずまじまじと相手の顔を見てしまった。

 俺を呼んだ声は驚くほど甲高く、厳かさにはほど遠かった。

 まるで結婚披露宴などで初めてスピーチをする大役に選ばれた、田舎の親戚のようなうわずった音で、愛嬌すら感じられたのだ。

 思わず笑いそうになるのを抑えることに必死な俺を、理由はまではわかっていないだろうが、嫌な空気を察したように老人は睨みつける。

「すみません」

 気まずくなり下を向いた俺に、信じられない言葉が待ち受けていた。

「ヒロキ違いじゃな」

「違うって、俺…いや、僕は間違いなく有馬大樹です」

 困惑する俺に向かい、おもむろに親戚のじーさん…いや、この人もあの世にいるんだから、もしかしたら何かの王様なのかもしれないけれど…は続ける。

「うむ、だからそれが違うのじゃ」

「ええと、それってどういう」

 はらりとめくられたページに目を向けた俺は首を傾げる。

「有馬弘樹?誰ですか、それ」

「だから間違いじゃと言うておる」

 はあ、ヒロキ違いねえ…。

 納得しかけた俺は次の瞬間目を剥いた。

「じゃあ、間違いで俺、こんなところに来ちゃったの!?」

「そうなるのう」

 茫然とたたずむ俺にじーさんは悪びれもせずに頷いた。

「そう慌てるものでない、時々はこういうこともあるんじゃ。既に過ちは正されている。とはいえ、冥途めいどは基本的に片道通行。今持つおぬしの罪を清算してしか返せぬのだがな」

 ものすごい脱力感に襲われた後、泣きたい気持ちになった。

 過ちは正されていても境遇は変わらないって…それじゃあまるで、役人や政治家が自分が打ち出した政策ミスについて、言い訳でもしているみたいじゃないか。

「そりゃあ、他人事だからそんなことが言えますよね」

 思わずぼやいていた。

 だって仮にしても、勘違いで人生終わりかけたって…ちょっとあんまりだろ。

けれど。

 何も罪を持っていないわけはあるまい?言外にのしかかるじーさんからのプレッシャーに俺は口をつぐんだ。

 生きている間の罪とか罰を問われてもこれといった心当たりなんてないけど、無論、清廉潔白に生きてきたと言い切れる自信はない。

 がっくりと肩を落とす俺に、王様かもしれないしそうじゃないかもしれないあの世の…もうじーさんでいいや、は当然のことのように頷いた。

「そういうことで、これからおぬしには試練を受ける旅に出てもらうことになる。それは決して容易いものではない。そこのところを心してかかるんじゃ」

 そういうことでって…なんという軽い言い草だ。

 絶望すら感じる気力を失った俺は、不条理すぎる出来事に何も言えずにただ頷いた。

 当然ながらじーさんにとって他人事なのはわかってはいるが…現実社会以上にあの世とやらはろくなことがない。

「まずはパーチーを編成する。おぬしにはその者たちと一緒に旅をしながら、試練を乗り越えてもらう」

「パーチー?」

 その言葉の示す意味が〝パーティ〟、誰かと組んで何かをやるのだということに気づいた俺は、無理やり横文字を使ったように思える目の前の老人に、こんな状況だというのに、呆れを収め少しだけ微笑ましい気持ちが沸いた。

 同時に、先行きの暗さに内心ひどく落ち込んではいたのだが…。

 試練をこなすって、一体どんなことをさせられるのだろう。生前の体力が影響するのかはわからないけれど、自慢ではないが腕力なんて皆無だ。

「まずはカエ」

 じーさんの呼ぶ声に、初めに現れたのは二十代中ごろの女性だった。

 細い体、かわいいよりも綺麗の部類に入るだろう、どこか近寄りがたい凛とした雰囲気のある顔が向けられた後、カエはふわりと笑った。

「よろしく」

 こんな状況でなければときめいていたかもしれないなあ、などと不謹慎なことを考えながら笑顔を返す。

「マサト」

 次の瞬間、現れた姿に俺は愕然とする。

 そこにいるのは、どう見たってまだ小学校高学年くらいの子どもだった。

「ども」

 意思の強そうな目がまっすぐに俺を捉え、俺の中の何かを測るかのようにすがめられた視線から、ものすごく頭のいい奴だと感じ取れた。 一瞬のち、がっかりしたようななんとも言えない色が口元に浮かんだのを見て、落胆させたことも容易に想像できたが。

「…悪かったな」

 聞こえないように呟いたつもりだったけれど、マサトはくすりと笑う。その表情がなんとも大人びていて、こいつとうまくやっていけるだろうかという不安がよぎる。

「さらにアイリ」

 いやいや、まだ何も始まっていないうちから諦めてどうする、と己を叱咤していたものの、間髪いれずに現れた姿を目にして俺は今度こそ絶句した。

 なんてことだ。

 小学生で驚いている場合じゃない。アイリは赤ん坊でこそないが明らかに未就学児童。正真正銘の子どもだった。

 緊張しているのだろう、おずおずと進み出て俺の顔を見上げる。

「こんにちは」

 ふくよかとはおよそかけ離れた、棒のように細い手足をきっちりと伸ばした姿勢で、ぎくしゃくと頭を下げる。ほんの少しはにかんだ様子で笑う頬に浮かんだえくぼに、子どもらしさが垣間見えたのは可愛かったけれど。

「そして最後にヒロキ。これがお前たちのリイダアだ」

 リイダアという発音の可笑しさよりも、その内容に俺は心底驚いた。慌ててじーさんを振りかぶった態度で、きっと皆には伝わっていただろう。

 情けないことに生まれてこの方、リーダーと呼ばれるような立場になった試しがない。人生を左右するこんな時に、初めての大役を仰せつかるとは…結婚式の親戚スピーチみたいだなんて、他人を笑うどころではない。

 文句など受け付けないだろうというのは、有無を言わせぬじーさんの様子でわかるけれど、カエはともかくとして、子どもを二人も抱えた俺たちのパーティが、試練を無事に乗り越えられる可能性はどれほどのものなのだろう…。

「全員揃ったところで、冠位かんいと力を授ける」

カンイってなんだ?

 疑問などお構いなしに、あらゆることが問答無用に進行してゆく。

 さも当然のごとく三人が頷き、懐から巻き紙を取り出したじーさんの前に背筋を伸ばして整列するのに、俺も慌てて追従した。

「カエは切り開きし者、アイリは照らせし者、マサトは導きし者」

 最近は時間がなくてゲームや本もすっかりご無沙汰になったけれど、冠位とはRPGやファンタジー小説で描かれるところの戦士、白魔法士、魔導師みたいなもののようだった。一体どんなことをさせられるのか、はなはだ疑問は深まるばかりだが…。

 俺は自分の役割を聞き逃すまいと、耳を澄ませた。

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