1章 2話

 しばしぼんやりとしていたが、ふと何もないはずの周囲に人の気配を感じ辺りを見回す。

「…気のせいか」

 苦笑しながら首を振った瞬間、石ころだらけだったはずの場所に突如無数の人の姿が立ち現れた。

 こんなに思考がはっきりしていても、幻覚って見られるものなのだろうか?

 思わず瞬きを繰り返すが、人々は俺の存在など気にすることなく通り過ぎていく。

 呆けたままその場で首を巡らせたところでこちらに関心を向けるわけでなく、皆どこか神々しくも神秘的な表情で一点を目指し足を運んでいる。

 彼らが進む先に目を向けて、俺は度肝を抜かれた。

 何もないひたすらだだっ広いだけだったはずの場所に、立ちはだかる巨大な門がいつの間にかそびえていたのだ。

 あまりにも異様な光景なのに、誰もそれを疑問に思う様子もなく一心に門の方へ進み続ける。

 一体門の先には何があるのだろうと目を凝らせば、彼方に鈍く光る川面のようなものがちらりと見えた。ここが賽の河原ならあれは、俗に言う三途の川かもしれない。

 ひたすらに続く人の流れ。

 そのうねりに促され、気がつけば年の初めの初詣の混雑にも似た状態の中、門の方へと、流されるように歩いていた。

 ただ、ひとつだけ正月と違っていたことは、老いた者も幼いものも、不思議なほど慈悲深く達観した顔つきで、誰も口を開くことなく足を進めていることかもしれない。

 静かに厳かに粛々と続く流れ。

 年齢も、性別も、その雰囲気さえまばらな老若男女に挟まれてまごつきながらも、周囲に迷惑をかけるのは悪いと歩調を合わせ、俺は神妙な気持ちで人々に続いた。

「お前、何故ここにいる」

「へ?」

 この世界にそういう概念があるのかはわからないが、時間にすれば歩き始めて十分ほどだったろうか。

 早くも遅くもない、周囲の微妙なペースに合わせようと苦心している時に、不意に頭上から声をかけられ、列の外、高々とした場所に弾き出されていた。

 あの瞬間感じた驚きは言葉にしがたい。

 目の前にはものすごく大きな女の顔…ではなく、要はすべてが大きい巨人の女がいた。

 つまり俺はその女につまみ上げられて宙に浮いていたのだ。

「な…な…」

 見下ろせば地面ははるか下方で、遠のきかける気を必死に繋ぎとめる。

「ここで何をしていると聞いているのだ。お前は何者だ」

 そう矢継ぎ早に問われても、俺だって何がどうなっているのかすらわからない。

「あの、あの」

 答えようとするものの、襟首を掴まれた状態で動くたびにぶらぶらと揺れる不安定な現状なんて、恐怖感ばかりが先立って考えがまとまらないのも当然だ。

「へえ、驚きの感情があるのかい」

 俺は眼下に広がる河原の砂粒ほどになった砂利から目が離せないまま、ヒューヒューと喉から声にならない音を漏らした。

「とりあえず下ろしてください…」

 ようやく絞り出すと、女はすまんすまんと笑いながら、すぐ近くにある、家一軒は建ちそうなスペースの巨大な木の枝の上に俺を下ろした。

 安堵のあまり思わずその場にへたり込むのを愉快そうに眺めると、巨女は目の前に現れた岩に足を組んだ姿勢で悠然と腰かける。

「どうだ、少しは落ち着いたか」

 頃合いを見計らったように問いかけてくる声。

「…ええと、何を話せばいいんでしょうか」

 喉は乾いていなかったがとりあえず一息つくために水が欲しかった。けれどそんなことを言おうものなら、プールのような桶でも出てきそうだったので、頼むのは諦めた。

 自分が思っているように、もしもここがあの世だとすれば、三途の川は彼岸と今生を分かつ場所だ。

 かつて生きていた者たちの罪や悲哀を船に乗せ、岸に運ぶような場所で出される水なんて、腹を下す以前にどんな味がするかわかったもんじゃない。

「正直ここがどこなのかとか、俺は何をしていたのかも全然わからないんですが」

 改めて見上げれば、とにかく大きい女だった。

 年頃は三十代半ばといったところか。最初は気付かなかったが、かなりの美人だ。

 端正かつどこか濃い顔の造りとそのあまりの薄着さを除けば…。

 だってあの世かもしれないところで、CGや格闘ゲームの映像ぐらいでしか見かけない、細い布だけで胸を支え下腹部に対してV字に切り込みが入っているような、ものすごいハイレグ着用の女性に出会うなんてあり得ないだろ!?

 しかも、どんなグラビアでもお見かけしない抜群のグラマー、さらにそれが半端ではないサイズの、文字通りものすごいボリュームで目の前にあるんだから、あらゆる意味で目のやり場に困るってもんじゃないか。

「ではこちらから聞こう。お前は何者なんだ」

 こちらの様子に頓着する気配もなく、乗り出すように近づいてくる巨人の女から慌てて目を逸らして答える。

「有馬大樹です」

 名前を告げた途端、とうに忘れていた出来事や昨日までの思い…様々な記憶が唐突に自分の中に溢れ出した。

「え、なんだこれ…止まらない」

 死の間際に思い出が駆け巡るというのを聞いたことはあるが、死んでからもこんな風になるものなのだろうか。壊れた蛇口のように、ひたすら溢れ続けてくる感情に俺は戸惑いながらも、俺はしばらくの間泣いたり笑ったりを繰り返した。

 ようやくそれが収まったころ、巨女は柔らかな声で再び尋ねてきた。

「もう一度、名前を聞いてもいいかい」

「有馬大樹、です」

「やっぱりあんたは違うんだね」

 そう言って一人、合点がいった様子で頷いている。

「違うって、何か変なんですか」

 俺は去らない感情の余波にぐずぐずと洟をすすりながら問いかけた。

「ここでは普通、こちらから名を呼ばない限りは自分のことを思い出さないし、そんな風に泣いたり笑ったり怒ったりするような情動を伴わないものなんだよ」

「でも、俺はこんなですけど」

「だからね、それが問題なのさ。ところで、あんたはなんでこっちを見ないんだい?」

「え?それはえっとちょっとその…格好が…」

 きょとんとした表情で目をしばたたかせた巨人の女は一瞬後あっけらかんとした声を上げ、横を向いていた俺の体を自分の方に向き直らせた。

「ああ、そんなのあたしは気にしないからいいよ」

 気にするのはこっちの方なんですと言いかけたけれど、無駄だと思い言葉を飲み込んだ。きっと何を言ったところでこの人には通じそうもない。

 ようやくおさまってきた涙を袖口で拭いながら、俺は改めて尋ねる。

「一体ここはどこなんでしょうか?」

「多分あんたが想像している通り、ここはさいの河原。門の向こうに見えるのが三途の川だ」

「そう、ですか」

 先ほどまでの一人相撲が効いたのか、不思議なほど哀しみや後悔のようなものは生まれてこなかった。

 グラウンド三つ分くらい離れた視線の先には、はるか向こうまで続く人波が行儀よく立ち並んでいるのが見える。

 つまり俺は死んで、そういうところに来てしまったのだ。

「じゃあ、あなたは一体」

「あたし?あたしは、あんたたちの世界では脱衣婆だつえばばあとか呼ばれてるねえ」

「…だ、だつえばばあ!?」

 画集などで見た地獄絵図の姿とのあまりの乖離に、俺は茫然と目の前の巨女を見つめる。

「随分とまあ、現代的なんですね…」

 脱衣婆って言うのは、垂乳根たらちねを隠そうともせず、腰布一つで川を渡る者たちの身ぐるみを剝ぐという、つまりあれのことだよな。

 胸が垂れているどころか、これじゃ現代も近代も通り越したSFや異世界の住人じゃないか。

 腰を抜かさんばかりに驚く俺の反応を、先ほどと同様面白そうに眺めている。

 正直なところ、ここが三途の川だという事実を述べられたことよりも、俺にとっては彼女が脱衣婆という方がよほどショックだった。

 だって巨人なのはともかくとしても、どう見たって常軌を逸したスタイルの美女だ。

「そう驚くこともないよ。あんたらの目に映っている姿はさておき、人の時間単位で言えば何千万、何十万年と生きてることになるんだから、生者からすればあたしも立派な婆さ」

 お姉さんと呼ばせたがる女性や、若いと言われて喜ぶ人は大概見てきたが…目の前の彼女の反応があまりにサバサバしすぎていて、頷いていいものなのかがわからなかった。

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