14

 その日の授業は身が入らず、まさに心ここにあらずといった具合だった。

 大きな間違いや怒られるようなミスこそしていないが、先生の話は流れるようで頭の中までは入ってこない。気付けば黒板に書かれていたものが消されていることもあり、おかげでノートも穴ぬけ状態だ。

 まるで胸の内に靄が溜まっているようで、その靄の正体を探ろうとすれば鼻の奥がツンと痛む。他のことを考えようにも志摩君と猫カフェで過ごした時の事ばかり思い出され、それがまた靄を呼ぶ。

 チラチラと向けられる視線は居心地悪いが、さすがに陰口や呼び出しなんてことはない……と思っていた。




 早く帰ればよかった。

 そう私が心の中で呟いたのは、そんな心ここにあらずな一日が終わろうとする放課後。

 直ぐに帰るつもりだったが本の返却を思い出し図書室に寄り、つい新しく入った本を試し読みしてしまい時間を忘れて今に至る。

 友人達に先に帰ってもらっていて良かった……と、足早に廊下を歩きながらそんな事を考えていたが、今は無理を言ってでも待っていて貰うべきだったと後悔すらしていた。


 なにせ、泉谷さんが教室に居るのだ。

 それも私の前の席に座り、まるで誰かを待っているかのように携帯電話を弄っている。


 ……誰を待っているのか? きっと私だ。


 私の猫カフェのことを、志摩君のことを聞くために待っているのだ。


「鞄持っていけばよかった……」


 そう呟きつつ、それでも手ぶらで帰るわけにはいかずそっと扉を開けた。

 その音に教室に残っていたクラスメイト達がこちらに視線を向ける。もちろん、泉谷さんもだ。

 数人の女の子達が顔を寄せて小声で何かを話しだすのは、私と泉谷さんが揃ったことで不穏な空気を感じ取ったのだろうか。窺うような、それでいてどことなく案じるような視線を向けてくるが、今の私にはその視線すらも緊張を増させるものでしかない。

 だがそんな私に対して、泉谷さんは表情を柔らかくさせ、

「七瀬さん、どこ行ってたの?」

 と尋ねてきた。

 その声色は親し気で、たとえば恋敵を威嚇するような棘は感じられない。むしろ友達に話しかけるような気さくさではないか。

 それに僅かに安堵しつつ、それでもいまだ緊張を抱きながらも図書室に居たのだと答えた。


「図書室かぁ。あたしあんまり行ったことないなぁ。それでさ、七瀬さんに聞きたいことがあるんだけど」


 早々に本題に入られ、思わずドキリとしてしまう。

 といっても泉谷さんとは仲が良いわけでもなく、そもそも話をしたことすら今までなかったのだ。ここで盛り上がる話題なんてあるわけがなく、直ぐに話を切り替えてしまうのも当然だ。

 だがそれが分かっても心の準備が出来ておらず、「聞きたいことって?」と尋ね返す声が上擦ってしまう。


 何を聞かれるのだろうか?

 どうやって志摩君と仲良くなったかとか、志摩君とどんなことを話したかとか……。

 もしも泉谷さんが志磨君のことを好きで、近付かないでって言われたらどうしよう……。


 今まで恋愛事での衝突など一度も経験したことのない私には泉谷さんが尋ねようとしていることが分からず、それが余計に不安を駆り立てる。

 だがここで逃げるわけにもいかずジッと泉谷さんを見つめれば、彼女もまたこちらを見つめてくる。そうして薄くグロスの塗られた唇をゆっくりと開き……、


「猫カフェってやっぱ一人で行くと変なのかな?」


 と尋ねてきた。

 その言葉に、身構えていた私は虚を突かれて「え?」と間の抜けた声を上げてしまう。

 今、泉谷さんは何と言ったのか……。

 志摩君の事ではなく、猫カフェ?


「……え、えっと」

「いつも行ってる美容院の近くにも猫カフェがあるの。で、いつも通ると窓辺に猫が居てすっごい可愛いんだけど、お店の中見ると二人連れとかばっかだし、一人で入って変な目で見られても嫌じゃん?志摩も一人で入れないって言ってたし、やっぱそういうものなの?」


 捲し立てるように話す泉谷さんの勢いに圧倒してしまう。

 だが彼女はそれでも止まらずに話しつづけるので、私はただ「え」だの「うん」だのと中途半端な相槌を打つだけだ。それも次第に泉谷さんの勢いに負け、ただコクコクと頷くだけになってしまう。

 これが所謂マシンガントークというものか。その勢い、まさにマシンガンの如くである。

 だがそんな勢いに圧倒されつつも泉谷さんの話を聞き、そうして彼女の話を遮るように――遮らないときっと終わらないから――名前を呼んだ。


「泉谷さん、猫カフェに行きたいの?」

「うん。あたし猫好きだし」

「……志摩君と?」

「志摩ぁ?」


 私の問いに返す泉谷さんの口調は本当に不思議そうで、それどころか何故今ここでその名前が出てくるのかと怪訝そうにさえ見える。

 その声色に、その表情に、私の中で「あれ?」と疑問が浮かんだ。

 もしかして、これは……。


「志摩君と一緒に猫カフェに行きたいから、私に声かけたじゃないの?」

「なんで?」

「あの……それは……泉谷さんが、志摩君のことが……好きだから?」

「あたしが志磨のことを!?」


 驚いたと言いたげな泉谷さんの声に、慌てて声量を落とすように告げる。対して彼女は驚愕の表情から一転してケラケラと楽し気に笑い出し、「無い、それは無いから」と片手を振った。


「志摩のことはどうも思ってないよ。それに、あたし彼氏いるし」

「そ、そうなんだ……彼氏がいるの!?」


 泉谷さんの発言に思わず食いついてしまう。

 だがそれも仕方あるまい。女子高生といえば何よりお喋りと恋話を好む生き物。自分が矢面に立たされるのは居心地悪いが、その反面他人の恋愛事には興味を持ってしまうものなのだ。

 とりわけ、自分が恋愛事で悩んでいるからなおのこと。恋人がいるという泉谷さんが大人びて見えてしまう。

 そんな私に対して、泉谷さんはあっさりと「いるよ」と頷いた。


「誰か聞いていい? あ、もしかしてサッカー部の子?」

「サッカー部だけど、他校だよ。それでよくうちのサッカー部と試合するんだ」

「そっか、それで仲が良いんだね。志摩君も下の名前で呼んでたし……」


 勘違いしちゃた、と自分の早とちりを恥じれば、泉谷さんが「下の名前?」と首を傾げた。

 だが次いで合点がいったと言いたげに笑い出す。それどころか軽く手を叩きながらの大爆笑である。


「違う違う、志摩が呼んだのは『ゆな』じゃないよ」

「え、でも泉谷さんの下の名前って『ゆな』だよね? だから志摩君がそう呼んだんじゃないの?」

「よくうちの学校と試合するって言っても、あたしは彼氏の方を応援するわけじゃん?」

「うん」

「それで」

「それで?」


 泉谷さんの恋人が所属するサッカー部を応援して、いったいどうして呼び方に影響があるというのか。さっぱり分からずそれを視線で訴えれば、泉谷さんが笑いながら改めて「それで」と話しだし、


「あたしが敵校の応援するからって、サッカー部のやつらがいつの間にか『ユダ裏切り者』って呼び始めたの」

ユダ裏切り者

「そう、ユダ。ゆなじゃなくてユダ。あいつら酷くない?」


 失礼過ぎるよね、と文句を言う泉谷さんに、私は言われたことを頭の中で反芻し……ふっと思わず吹き出してしまった。


「ユ、ユダって……酷い……!」

「だよね! 酷いよね! あいつらマジでムカツクから、いつも試合で負けろって言ってやってんの。彼氏の方が勝つとすげぇ自慢してやるし!」

「駄目だよ泉谷さん、それじゃ本当に裏切り者になっちゃうよ……!」


 泉谷さんの話が面白く、そして緊迫した空気が一瞬にして解け、その温度差がまた笑いを誘う。

 なんて勘違いをしていたのだろうか。あの緊張と不安はすべて無駄だったのだ。

 数分前の自分のことすらも笑えてきて、サッカー部の無礼さを怒る泉谷さんに、対して私は笑い声をあげるというなんとも不思議なやりとりがしばらく続く。

 教室内に残っていたクラスメイトがきょとんと目を丸くさせてこちらを見てくるのは、きっと多少なりの衝突を予感して緊張し、そして一転したこの光景に着いていけていないからなのだろう。

 それもまた面白く、笑いすぎて涙ぐんだ瞳を拭っていると、泉谷さんが「そういえば」と話しだした。

 

「志摩、猫カフェは七瀬さんと行くって言ってたよ」

「……え?」

「あたしはそんな気は無かったんだけど、志摩に猫カフェに連れてってくれって言ってる子は居たんだ。そしたらあいつ、猫カフェは七瀬さんと行くからってはっきり断ってたよ」

「そ、そうなんだ……」


 突然の泉谷さんの話に、先程まで笑いすぎて上がっていた体温が別のものへと変わっていく。

 胸の内に火が点ったような、それが体中に巡っていくような、なんとも言えないもどかしさ。

 その時の志摩君の姿を想像するだけで熱が頬にまで伝わり、きっと赤くなっているだろうと慌てて手で押さえて熱を逃がす。

 そんな私の行動に、泉谷さんがニヤリと楽しそうに笑った。



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