10

 

 志摩君が顔を背けたまま口元を押さえ、小さく肩を震わせている。どうしたのかと問う必要もない、明らかに笑っているのだ。


「……志摩君」

「いや、笑ってない。大丈夫だ……ただ、ほら……」


 笑っていない、というわりに志摩君の声は震えている。

 それが自分でも分かっているのだろうクツクツと笑みを噛み殺し、しばらくすると落ち着いたのか深く息を吐いてようやくこちらを向いた。

 そんな彼を見る私の視線は、きっと責めるような色合いを含んでさぞや冷ややかだろう。志摩君が苦笑を浮かべて「悪かったって」と謝罪してくる。

 そうして彼が一口飲むのはコーヒー。今日もまた砂糖もミルクも入れておらず、カップから覗く黒一色は見ているだけで苦さが伝わってくる。

 いくら甘いミニシュークリームがあるとはいえ、よく飲めるものだ……と、そう考えてコーヒーを見れば、私の考えを察したのか志摩君が苦笑を浮かべて見せつけるように豪快にカップを煽って飲み干した。


「七瀬にはブラックコーヒーはまだ早いな」

「べ、別に、コーヒーが飲めなくても問題ないし」


 分の悪さを感じつつも言い返せば、志摩君がより笑みを強める。私の反論にも、なぜかやたらと穏やかな声色で「そうだな、問題ないよな」と同意してくるのだ。

 その愛でるような優しげな瞳は普段であれば胸を高鳴らせそうなものだが、今回だけは不服でしかない。

 なんて居心地が悪い……。

 なんとか話題を変えることは出来ないかと周囲を見回せば、近くに置かれたクッションに埋もれていたコモモがヒョイと顔を上げた。

 そうしてゆっくりと起き上がり身体を伸ばすと、短い足でポテポテと歩き出す。これはチャンスだ、そう考えて志摩君の名を呼んだ。


「志摩君、ほらコモモが起きて歩いてる。こっちに来るよ」

「お、本当だ。七瀬のピンチに気付いて助けに来たんじゃないか?」

「……もう」


 未だ冷やかしてくる志摩君をジットリと睨みつけ、こちらに近付いてくるコモモに手を差し伸べる。ピンク色の小さな鼻がスンスンと私の指先を嗅ぎ、頭を撫でてやると気持ちよさそうに瞳を細めた。


「コモモだって苦いのは嫌いだよね」


 分かってくれるよね、とコモモに話しかければ、志磨君が苦笑を浮かべる。

 次いで近くを通りかかったアルドに手を伸ばし「お前はブラックで飲めそうだな」とその毛を撫でる。

 しなやかな身体つきに黒一色というまさに黒猫といった風貌のアルドは、確かにブラックコーヒーを好みそうだ。もちろん飲むわけがなく飲ませる気もないのだが、それでもイメージはブラックコーヒーである。

 そんなアルドの黒い耳がピンと揺れたのは、志摩君が通りがかりの店員さんに声を掛けたからだろう。

 きっと『猫用おやつ』を期待したに違いない。だが志摩君が注文したものが別の物だと分かると、再び撫でられるために彼の手に鼻先を摺り寄せた。

 志摩君が頼んだのは二杯目のコーヒー……ではなく、カフェラテ。


「志摩君、コーヒーじゃないの?」


 そう私が尋ねれば、志摩君が笑いながら、


「俺、カフェラテ飲めるから」


 と答えた。

 ちょっと悪戯気な笑みはどことなく幼くそして可愛く見え、不意の笑顔にドキリとしてしまう。小学校の時の彼が脳裏によぎるのは、面影を少し残しているからだ。それがまた胸を高鳴らせる。

 頬が熱を持ちそうで、慌てて話題を変えようと周囲を見回し、パディのバースデーボードに視線をやり「そういえば」と無理に話を変える。

 そんな私の必死さを、きっと『カフェラテを飲めない照れ隠し』と受け取ったのだろう、志摩君が楽し気に笑って「ん?」と続きを促してくる。


「志摩君、よくパディのバースデーボードから私のメッセージ見つけられたね」

「あぁ、だって猫の絵を描いてただろ」


 だから、と話す志摩君に、対して私は首を傾げて彼に視線を戻した。


 確かに、私はパディのバースデーボードに絵を描いた。パディに似せた猫を、いつものお出迎え姿を模してちょこんと座らせたのだ。

 だがパディのイラストを描いたのは私だけではない。

 猫カフェのバースデーボードだけあり猫のイラストは多く、中にはプロではないかと思えてしまうほど上手いイラストを描く人もいるのだ。とりわけパディのお出迎えはこのお店の名物の一つであり、その姿を描く人は多かった。

 そんな中で、志摩君は私の書き込みを直ぐに見つけたのだ。


「私、名前書いてたっけ?」


 そう記憶を辿るも、どうやら名前で見つけたのではないらしく志摩君が首を横に振る。次いで柔らかく笑いながら「七瀬さ」と話しだした。


「小学校の時、同じクラスだったの覚えてるか?」

「うん、覚えてるよ。志摩君が途中で転校しちゃったんだよね」

「その時に、クラス全員で寄せ書き書いてくれたじゃん」


 昔を懐かしむような志摩君の口調に、つられて私も当時の事を思い出す。

 あれは小学校五年生の時だ。志摩君が転校することになり、クラス全員で寄せ書きを贈ることになった。だが小学生という幼さでは色紙のスペースを調整するのは難しく、先生がわざわざ線を引いて一人一人のスペースを確保してくれた。

 なんて懐かしい。私は何を書いたっけ……。


「あ、猫の絵……?」


 もしかして、と志摩君を見れば、どうやら正解だったようではにかみながら彼が頷いて答えた。

 曰く、寄せ書きに設けられた私のスペースでは猫がサッカーをしていたらしい。それも、ちゃんと志摩君の背番号のユニフォームを着て。

 その話に、おぼろげだった当時の記憶が鮮明になっていく。

 そうだ、何を書くか散々迷って、何度も書き直して、そしてメッセージに添えて猫を描いたのだ。わざわざ志摩君の友達に彼の背番号を聞き、サッカーボールの白と黒の組み合わせに悪戦苦闘したことも今では思い出せる。


「七瀬、何回も書き直してくれたんだよな。消しゴムで消した後が残ってたし、下書きの線もあった」

「そ、そうだっけ……」

「俺さ、確かに転校は辛かったけど、正直言うとそんなに寂しいってわけじゃなかったんだ。引越し先もそう遠くなかったし、仲良い奴はサッカークラブで会えるし、転校先の小学校にもクラブの奴が多かったから」


 そう話しながら、志摩君がミニシュークリームを一つ手に取る。倣うように私も一つ手を伸ばし、こちらを見つめる猫を一度視線で愛でてパクンと口に入れた。

 甘い。次いで口を付けた紅茶も甘い。


「だから、別に寂しいとかそういうの無かったんだ。でも最後に七瀬の寄せ書き見てたら、なんか泣けてきてさ」

「私の?」

「何回も書き直して、俺の背番号で書いてくれて……。俺達全然話したことなかっただろ。なのにこんなに一生懸命書いてくれたんだなって。仲良い奴とは直ぐに会えるし遊べるけど、七瀬とはもう会わなくなるんだなって……そんな風に考えたら急に悲しくなってさ」


 突然大泣きして家族を驚かせた、そう苦笑を浮かべて話す志摩君に、私はどうして良いのか分からずただ俯いて小さく頷いた。

 小さい頃の寄せ書きを、それも話したこともあまりない私の寄せ書きを、そんな風に覚えていてくれたなんて……。

 懐かしさと同時に胸を絞めつけられるような感覚を覚え、誤魔化すように傍らに眠るコモモを撫でる。私の手がお腹に触れた瞬間、クルルルと高い音を上げてコモモが顔を上げた。鼻先を撫で、包むように手を開いて頭を撫でれば、心地よさそうに瞳を閉じて再び夢の中へと戻っていく。

 その様子はなんとも愛らしい。……だが今の私の胸は落ち着かず、コモモの愛らしさを前にしても今一つ見惚れられない。


「高校二年のクラス替え用紙見てて、七瀬が居るって知って驚いたよ」

「私は直ぐに気付いたよ。志摩君、一年生の時からサッカーが上手いって評判だったから」

「そっか、なんか恥ずかしいな」


 照れ臭そうに志摩君が笑う。そうして近くを通ったログを撫でるのは、きっと照れ隠しなのだろう。

 だが食いしん坊のログはおやつを持っていないお客さんには興味はないと言いたげで、立ち止まることも無くスタスタと歩いて行ってしまった。

「薄情なやつ」と志摩君がログの背に向けて告げる。その言葉に、私は思わず苦笑を浮かべ「猫らしいね」と返した。


 そうして、私達の間にほんの少しの沈黙が漂う。

 といっても場所は猫カフェだ。シンと静まり返るわけでもなく、ゆるやかな音楽とお客さんの会話は絶え間なく続いている。

 そんな中、志摩君がポツリと「話せて良かった」と呟いた。

穏やかで昔を懐かしむように、柔らかく微笑みながら。そんな彼の言葉に、コモモを撫でることで落ち着きを取り戻しかけていた私の心臓が再び跳ねあがった。

 

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