第2話 星と海と砂浜と
夜空は澄んでいた。
僕の目の能力の限界を超えてなおその果ての向こうにある星の数々。
そして目を下に向けると、僕の分解能の限界をはるかに超えて細密な砂の粒が無量大数に存在する。
そして僕は浜辺に立ちつくし、眼前の海という存在の雄大さに思いをはせる。吹き寄せる風そのものは穏やかだが、波が荒い。漁師の船々が引き上げられていたところから、どこか遠くでの暴風雨かなにかの影響なのだろう。
こんな時に海に入るのはとても危険だろう。もっとも今の時期は島の北側といえど観光客もほとんどいないし、わざわざ入る愚かな島民もいないから杞憂といえよう。
「あ、君は先生のところのおぼっちゃん」
幼子を連れた夫人に声をかけられ、僕は軽く会釈した。
「今日からまたお世話になりなます」
「いやいや、お世話なんて。毎年来てくれて私らも楽しみなんだ。ウチの旦那も先生のおかげで酒が美味くなる、なんていってね」
「そうですか」
僕は午前に、この島の別荘に到着した時のことを思い出した。
掃除などのメンテナンスは島のひとを雇ってお願いしてあった。なのですぐに快適に過ごすことができるようになっていた。手伝ってくれた島民のひとびとも却って喜んでいるようで、父さんの役に立てることがなにより嬉しいことだと思っているようだった。
父さんは再会を喜び合い、その場にいた8人の島民たちと握手をしたり抱き合ったりしたあと、夜の宴会の約束を確認し合うと、僕を連れて予定通り外出した。
この日間賀島には人里から離れた場所に人工知能のプログラミングの世界最先端を行く研究所があり、そこの所長である博士に会いに行くのだ。
その博士に会うと、相手が女性であることに軽く驚いた。研究者の世界で最先端となると男性が圧倒的に多いので、無意識的に相手に先入観を持っていたのだろう。
父さんと博士は研究室のような場所ではなく、応接間と思しき部屋で気楽なディスカッションを交わしつつ、時折僕に質問を投げかけながら日が暮れる間際まで続けられた。
こうして僕らが研究所から退出する際、最後に博士が長い黒髪をなで挙げながら僕に尋ねた。
「君、名前は?」
<僕>は名前を答えた。
「なるほど、ね」
博士は表情は相変わらず変えなかったが、少し顔を傾けた。
「あなたはお父様からずいぶんと愛されているのね。ご存じ?」
「はい」
そうして僕らは研究所を出た。
そう。そうなのだ。それでも<僕>は好きじゃない。
父さんも。博士も。島のひとびとも。海も。大地も。空も。
やはり僕には欠陥がある。きっとどこかおかしいに違いない。
「しかし先生はホントにいいのかねぇ」
「と、いわれますと?」
母親から離れようと短い手足をばたつかせている幼児を慣れた様子で抱き上げながら女性は少し恥ずかしそうに切り出した。
「ほら、私らなんてろくに学もないような漁師共じゃあないかい。そんな無学な連中と話していてもつまんないんじゃないかとちょっと不安でね……だって、あの先生はノーベル賞とか取ってるような大先生だしね」
「そのような意見を父さんから聞いたことはありません。父さんはこの島のみなさんをとても尊敬しておられると何度も聞かされました」
「はぁ?! なんで私らを!」
「よく父さんがいうことですが、人間の”頭の良し悪し”は単純にひとつの
「は、はあ。つまり私らといると元気になれるってこと?」
「そういう感じの内容です」
「ははぁ……ノーベル賞の先生に褒められちゃったよ」
そういうと幼児を抱いた女性をぐるりと目を回した。
「まあ、難しいことはわかんないけどさ。一緒で楽しいならこっちもお互いさまさ。ぼっちゃんは楽しんでもらっているかい?」
「……」
「あれ? なにか嫌なことでもあったってのかい? なにか無礼があったかね?」
「それが<僕>にはどうも欠陥があるようなのです」
「欠陥? 病気なのかい?」
<僕>は自分がなにものをも好きになれないという異常について説明した。
「先生は心配は無用といったんだって?」
「はい。でも、これでいいのかと不安で……」
「まあ、あの先生がどうにもできないものを、私なんぞがどうにもできそうにないと思うけど……」
「……そうですか」
「知ってる? ”好きになる”って悪いことだったんだよ?」
「え?」
「仏教ではね、”好き”、つまり”愛”というものは執着心の表れで悟って解脱する邪魔なものだったんだって」
「仏教……ですか。宗教というのは理解できかねますが」
「まあ、私もウチが檀家なもんだから、小さい頃法話とか聞かされた時の受け売りだからいい加減な知識なんだけど」
「でも”好き”が”悪いこと”とは不可思議な発想ですね」
「誰かを”好き”になるということは、みんなを助ける時、その特定のひとを優先してしまい、他のひとを見殺しにしかねないからね。人類全体を平等に救うには”好き”や”愛”は捨てなくてはいけない、とかなんとか」
「仏教は人類全部を救うのですか?」
「たぶんね」
抱きかかえた子をあやしながら女性は答えた。
風が出てきた。
「それは不可能だと思います」
算数の答えの間違いを指摘するような口調で僕は答えた。
「さあ、私が決めたことじゃないし」
「不思議です。そんな不可能なことを信じる人間がいるなんて少しでも理性があれば信じる価値なぞないと即座に理解できて当然でしょう」
「でも2000年以上もかけて伝わってるのよ。昔のひとだって、ちょっと考えればあり得ないってわかりきったことなのにね」
「不思議です」
僕は夜空を見上げた。流星が流れた。大気との摩擦で消えた小さな隕石のかけら。
「それでは僕は別荘に戻る時間ですので」
星座の位置で時刻を知った僕は辞する無礼を詫び、島の北側にある砂浜から、ゆっくりと夜風を浴びながら別荘へと歩いていく。
別荘があるのは島の南の方、つまりほとんど人家のない方だ。日間賀島では観光施設などが集中する北側から扇状に開かれているが、そこから正反対の位置にある父さんの別荘はゆっくり落ち着いて過ごすにはうってつけの位置だといっていた。
先ほどまでの会話を何度も頭の中で反芻する。
不思議とひっかかるのだ。
しかしそれがなにかがわからない。
そうこう考えている内に3kmちょっと道程を終えてしまった。あとは敷地の門をくぐるだけ。
門扉へ手を伸ばそうとした時、風向きが変わったせいか、不意に息苦しそうな幼児の声、おぼれかけている女性の悲鳴交じりの声が耳に飛び込んできた。
僕は本能的に身をひるがえし。走り始めた。
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