空と君

クラム

1話

 カチャカチャ…


「う〜ん、こうかぁ?」


 カチャカチャ……


 佐野さの 敦あつしは苦戦していた。


 授業が終わった放課後、他の生徒の様に下校の為に階段を降りるわけでも教室で友人と喋るわけでも部活に行くわけでもなく、屋上への階段を上がった。


 昨日、久しぶりに実家に帰ってきたここの卒業生である兄から『屋上への入り方』を教わっていた。

 女子が使うヘアピンを鍵穴に入れて言われた通り指を動かしながら悪戦苦闘していること数分、小気味好い音が響いた。


 カチンッ!!


「……っしゃあ!!」


 小さくガッツポーズをしながら引き戸を開ける。

 敦の眼前には澄みきったスカイブルーが広がる。今日は快晴だ。ゆっくりと歩を進めて少し低い柵に身を預ける。

 季節は夏。普通なら暑いだけの屋上だが、この場所にはよく風が吹くのだと兄は言っていた。 海が近いからか風には潮の薫りが混ざっていた。風は敦を包み込む様に一定に吹いていた。

 敦は先程購買で買った缶コーヒーを飲みながら、空を眺めていた。

 どこを見ても広がるのはスカイブルー。敦は空を見ているだけで心が満たされていた。


 ふと、下の方から声がした。視線を下にずらすとプールがある。

 スカイブルーとはまた違う、多分プールの底と混ざっているのであろうエメラルドカラー。


――これはこれで綺麗だな。


 と思いながら眺めていると水泳部の姿が見えた。敦も高校二年生、嫌でも女子の方へ目がいってしまう。

 その中でも同じクラスの芹沢せりざわ 愛理えりに自然と目がいってしまう。

 敦は愛理に淡い恋心を抱いていた。彼女を見ていると今まで感じた事のない感情が沸き上がってくるのだ。

 愛理は水泳部のメンバーと話をした後で流れるようにエメラルドのプールの中に入っていった。 まるでエメラルドと同化したかのような愛理の泳ぎは素人の敦にも解るくらい美しかった。敦は手に持っていた缶コーヒーのことなど忘れて見入っていた。



 次の日、授業中も愛理を見ていた。大きな瞳、スッとのびる鼻、少しふっくらした唇、肩にまでかかった黒髪、薄く焼けた肌。見とれていた敦は自分が当てられたことも気付かなかった。


 屋上からまたプールを覗く。


――ある意味犯罪だよなぁ。


 心に少々罪悪感を感じつつ、しかし欲望には勝てない敦はまた愛理を見ていた。

 不思議なことにただ泳ぎを見ているだけなのに全く飽きない。むしろ自分もあのエメラルドと同化している様に思えてくるのだ。

 いつしかプールを見るのは空を見るのと同様に敦の日課になっていた。



 その日もいつもの様に空を眺めながら愛理を待っていた。少しするといつもの様に水泳部が来た。そしていつもの様に泳ぐ。 その時、愛理が上を――つまり敦の方を見たのだ。敦は慌てて隠れた。敦は視力が良いから見えるが、プールからここまでかなり離れている。


――多分バレてはいない筈。


 そう思いながら今日はもういられないなと思い、屋上を後にした。



 翌日、愛理は別に敦に何かを聞くわけでもなく普段と同じだった。敦もそれに安心した。


 放課後、いつもの様に屋上へ来た。空を眺めながら待つのももう慣れてしまった。 水泳部が来た時、違和感を感じた。愛理がいないのだ。


――体調が悪そうじゃなかったから休みかな?


 少し溜息を吐いて足を目一杯伸ばし、柵にもたれかかった。そのまま空を眺める。

 今日は雲が浮かんでいる。スカイブルーだけも好きだが、雲が混ざっているのも好き。つまりは空が好きなのだ。


 しばらくボーッと眺めていると屋上の扉が開く音がした。

――先生かっ!?


 慌てた敦だったが広い屋上に隠れるスペースなどはない。観念して目を瞑る。

 足音が敦の目の前で止まった。敦が恐る恐る目を開くと、細い足が見えた。視線をずらしていく。 少し短めのスカート、ブラウス、その上にはいつも遠くから見ていた愛理の顔。

 敦と目があった愛理は満面の笑みを浮かべた。


「……芹沢……さん?」


「何してるの?こんなとこで。」


「いや、その……」


「昨日、目があったよね?」


「……見えてたの?」


「私の視力2.0だもん。」


「………成程。」


 愛理は敦の隣に座った。肩が触れるかどうかの距離に。


「さて、佐野君。覗きはいかんぞ〜。」


 愛理はこの学校の日本史の先生の物真似をしながら核心をついた。


「……ごめんなさい。」


「別に怒ってるわけじゃないのよ?何で見てたの?」


「いや、最初は空を見てたんだ。」


「空?」


「昔っから空が好きでさ、見てて落ち着くんだ。それで、空を見てたら芹沢さん達の声が聞こえて……つい。」


「つい……ねぇ。あの様子じゃ見慣れてる感じだったけど?」


「やっ、その……芹沢さんの泳ぎが……綺麗だったから。」


「私!?私なんて全然綺麗じゃないよ!!」


 愛理は少し頬を赤らめて否定した。


「いや、めちゃくちゃ綺麗だったよ。だから見てたんだ。」


 愛理は更に頬を赤らめて反論した。


「でっ、でも私より速い人なんて一杯いるし……」


「速さじゃないんだ。」


「えっ?」


「なんていうか、その、……やっぱり綺麗って単語しか出ないや。」


 とうとう愛理は顔を真っ赤にして黙ってしまった。

 そんな姿を見て、敦は自然と愛理を抱き締めていた。


「えっ?ちょ、佐野君!?」


「――ごめん!!」


 我にかえった敦は抱き締めていた腕を慌てて離した。 そしてそのまま走って屋上を飛び出してしまった。


 敦は家に帰って後悔した。


――あの時告白しときゃ良かった……明日、気まずいなぁ。


 しかし時間は待ってはくれない。朝になって敦は早くに登校した。しかし教室に鞄を置いて屋上へ向かった。授業はサボる気だった。


「はぁ、マズいよなぁ。どんな顔して会えばいいんだろ。」


 授業チャイムが鳴り響く中、敦は独り言を空に向けて発していた。


「俺の恋は終わり……か。」


「誰の恋だって?」


 先程まで青い空が視界を支配していたのに、いきなり切り替わった。今、一番逢いたくて逢いたくない人に。


「芹沢さんっ!?授業はどうしたの?」


「佐野君こそ授業は?」


「「サボり。」」


 二人は同時に笑った。


「どうしてここに?」


「だって佐野君、鞄があるのに教室にいないし……佐野君がいるならここかなぁって。」


「俺を……探してたの?」「そうだよ。」


「だって俺昨日………」


「ホントよ!!女の子一人残して帰っちゃうんだもん。お陰で……」


「お陰で……?」


「昨日一睡もしてないんだから!!」


 よく見ると目の下にうっすらと隈が出来ていた。


「いきなり綺麗って言ったりとか、抱き締めてきたりとか………し…う…じゃない。」


「……えっ?」


 敦には最後の部分が聞こえなかった。ただ、愛理の顔は既に真っ赤だった。


「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言ってくれない?」


「もう言わない!!」


 愛理は顔を背けた。敦はそんな愛理を愛しく思い、後ろからそって抱き締めた。


「佐野……君?」


「好きです。」


「………え?」


「俺は……芹沢愛理さんが好きですって言ったの。」


「…………」


「返事は?」


「…………」


「駄目……か。」


 敦は腕を離して柵の方に歩いていった。寄りかかりながら空を見る。

 雲一つない空は、今の敦には辛かった。


 いきなり背中に衝撃が走った。後ろから腕を回された。先程まで敦がしていた事を愛理がしている。


「芹沢……さん?」


「………で…す。」


「え?」


「……私も……佐野君が……好き…です。」


 愛理の涙は敦のYシャツに染み込んでいた。


「……ホント?」


 愛理は黙って頷く。敦は愛理を一度離して、顔を正面に向ける。

 大きな瞳からは涙が溢れていた。敦は指で涙を払う。


「めちゃくちゃ嬉しいんだけど。」


「……私も。」


 二人で笑う。風がそんな二人を包み、空はより一層澄んでいた。




 今日も屋上で空を眺める。相も変わらず空は綺麗なスカイブルー。


「敦ー!!」


 下からの声に目線を下げる。愛理が笑ってこっちに手を振っていた。敦も微笑みながら手を振りかえす。そのまま愛理はエメラルドの中に溶けてゆく。

 そんな姿を見て、敦はまた空を眺めた。



 愛理が水泳で全国大会へ出場したのはまだまだ先の事。

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