アオすぎる彼
透き通るようなアオい空。
この空を眺める度に、別れを告げられたはずの彼のことを思い出してしまう。
あの時の彼は言った。
――僕は、空が嫌いなんだ、と。
なぜか、その言葉だけが私の心に今も棲みついている。
彼と出会ったのは、今日とは真逆。車軸のような雨が降る夕刻だった。
私は屋根のあるバス停で、いつ来るかわからないバスをベンチに座りながら待っていた。すると、雨粒の隙間を縫うかのように彼は颯爽と姿を現した。
「急に降ってきましたね」
全身びしょ濡れの状態の彼が声をかけてきたので「そうですね」と返事をしたのだが、私のか細い声は雨音にかき消されてしまう。
「天気予報も当てになりませんね」
私は彼の様子をじっと眺めていたが、彼は私のことは見向きもせずにどんよりと曇った空ばかりを見ている。そしてまた、私に声をかけているのか、それとも独り言なのかわからないことを言う。
「雨が降るのは誰のせいかって、昔母から聞いたことがあるんです」
彼が少しばかり声を張り上げているからこそ、私に聞かせようしているのだろう。それでもベンチに腰掛ける私をよそ目に、彼は言葉を続ける。
「そしたら『雨が降るのは、お天道様のせいよ』って答えてくれて。お天道様って誰かって聞いたら『それは空の女神様だよ』って」
「あの!」
そこでようやく私の声が彼に届く。彼が私のほうを振り返り首をかしげたので、私も雨音に負けないように声を振り絞った。
「あのーどうして、女神様、なんですか?」
「それは、女性は時々涙もろくて怒ったりするけど、笑った時の笑顔が太陽のように明るいからだって。僕もそれを聞いて納得したんです」
「それじゃ、今は泣いてるってことなの?」
「いや――今日は――」
大切なところが、聞こえなかった。
少しの間、雨音が奏でる単調なリズムが刻む時間が過ぎる。その時になってようやく私は、彼が先程からずっとびしょ濡れのままでいたことに気づいた。私は慌てて鞄の中にあったハンカチを差し出す。彼は一瞬戸惑いながらも、少し微笑んでハンカチを受け取った。そして自らの頬を伝う雨粒を拭う。
バスはいっこうに来る気配がない。もう予定の到着時間は過ぎていた。この雨のせいで遅れているのだろうか。
こういったシチュエーションは恋愛ドラマや映画などでよく見る。男女がバス停で待ちぼうけ。私と彼も、映画のような展開がこれから待ち受けているのだろうか。そんな淡い期待は、彼のひと言によって現実に戻された。
「彼女が怒っているかもしれない」
その言葉に、私は敏感に反応してしまう。彼が何者なのか、何も知らないくせに妙な嫉妬心が私の中で渦巻いていた。私の想像、いや妄想をこの雨粒が空から地面に落ちる速さよりも早く、そして何度も何度も繰り返し掻き立てていた。
彼の男性らしからぬ烏の濡れ羽色の髪。肌色のコントラストが際立つ白いシャツ。土よりも濃く染まった茶色いスラックス。細い手首から顔を覗かせるレトロ調の腕時計。口周りは少しアオく、その瞳は深淵を映しているかのように深みの増したものだった。
「彼女が怒った時は、大きな声を出したり物を投げたりはしないんです。ただ、僕と口をきいてくれなくなる。僕はそれがとても寂しくて……。目の前にいるのに、孤独になった気分。僕が寂しがり屋ということを、きっと彼女はわかっているんだと思います」
彼の表情は、悲しんでいるようには見えない。むしろ微笑んでいた。まるで怒られることすら、楽しみにしている様子。彼が話す『彼女』という存在は、彼にとって大切な存在ということが、その表情だけでもひしひしと伝わってくる。
「彼女のこと、好きなんですね」
私の言葉に、彼は一瞬だけ目線を合わせてくれた。そしてすぐに逸らし、雨空を仰ぎながら、言葉を反芻するかのように小さく口元を動かす。
そして雨空に向かって――
「だいっ好きですよ!!」
雨音を一瞬だけ消し去るように、彼はそう言った。その声に恥じらいや躊躇いは何ひとつ混ざっていない。私の心に直接響いてくるようだった。
「好き」という言葉を、こうして声に出して言える人。なかなかいない。私はますます彼の魅力に惹かれていた。
「僕は、彼女のことを好きでい続ける。そう、約束したからこそ、僕は泣いてはダメなんです」
彼の言葉の意味が、私の想像を膨らませた。
『好きでい続ける。』『泣いてはダメ。』彼と彼が大好きだと言う彼女との間に、触れてはいけない何かが存在するような気がしてならない。それでも、どうしても気になってしまった私は、彼に聞いた。
「もしかして、彼女は今、お天……女神様になっているんですか?」
「ううん。僕は空が嫌いなんだ」
そう言った彼は笑っていた。屈託のない笑顔。嘘をついているようには思えなかった。
私は何を勘違いしたのだろうか。何を期待したのだろうか。その彼の笑顔を見る度に、自分が恥ずかしくて目を合わせることができなかった。
それならなぜ彼は『泣いてはダメ』だと言うのだろう。大好きな彼女が傍にいるのなら、泣かないことを誓う必要はないはず。好きでい続けることも、わざわざ口にすることはないはずなのに。
すると、ずっと立っていた彼がおもむろに私の隣に座ってきた。私は反射的に少し横にずれた。
彼の呼吸がすぐ傍で聞こえてくる。そんな感覚ばかりが研ぎ澄まされ、その時だけは激しい雨音は耳に届いてこなかった。横を向くことができない。彼の視線が私の頬に突き刺さっているのが、痛いほどに伝わってくる。
単純な興味本位なのか、それとも私に何かを伝えようとしているのか。彼には大好きだと言わせる彼女が存在する。その彼女を差し置いて、私に興味を抱くことはあり得ない。
だからこそ、どうしたらいいのかわからない。
彼は視線をぶつけてくるだけで、何も言わない。
そんな時間が、ほんの少しの間だったはずなのに私にはとても長く感じた。
そして彼はすっと立ち上がり、私から離れた。
「僕は、お姉さんのことも好きですよ。とても可愛らしくて、恥ずかしがり屋なところがね。それになにより、僕と話してくれたから。でも、二人の女性を好きになったらダメだって言われるから、ごめんなさい」
彼はそう言い残して、雨の中へと消えていった。それと同時に、不思議と雨が止んだ。厚い雲から薄日が差し、一時の大雨が嘘のように晴天へと装いを変える。
その間も、私の視界には彼の小さな背中が残像として残っていた。
彼は、とてもアオかった。彼にはずっとアオいままでいて欲しい。そう願わずにはいられなかった。だからこそ、想像する。幼かった彼は、きっと透き通った青年になっているだろうと。
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