グラス一杯だけのダンディ・ハント(3)
麗しの君を含め、全員がにわかに上着を脱いだ。そして、ボスが寿司を一つ取ったのを皮切りに、我先にと食べ始めた。
ちょ、ちょっと、ビールはもういいんすか?
「今日はね、九十分食べ放題なの。どんどん食べて」
「でも、あの、ビールは……」
「ビール? そんなんで腹いっぱいにしたらもったいない。飲み物は別料金なんだ。先に寿司を食うぞ!」
テーブルを囲む皆さんは、談笑する暇もなく、ものすごい勢いで食べまくる。寿司が三分の一ほどに減ったところで、幹事がテーブルの隅に置いてあった紙を手に取った。
どうやら、先ほど寿司を持ってきた店員が、再注文用のオーダー用紙を幹事に渡していたらしい。ネタ一覧が書いてあって、食べたいネタの欄にチェックを入れ、数量を書いて店員に渡すことになっているようだ。
「何頼みます?」
「トロ!」
「うに!」
「いくら!」
幹事の問いに、他のおじさん達は、高そうなネタばかりを口にする。何しろ九十分寿司食べ放題だから、高いネタを食べたほうがお得。それは分かるが、露骨だなあ……。
あっけにとられる私に、麗しの君が優しく声をかけてくれた。
「あなたもどんどん頼んで。何が好きなの?」
「あ、あの、サーモン……」
「今はまず、トロを食っとけ!」
ボスに一喝され、注文はトロに変更される。そんな調子で数回もオーダーを入れると、やがて、店員が「トロ」「うに」「いくら」の欄に斜線が引かれた用紙を持ってきた。
幹事が早速、むっとした顔をする。
「ちょっと何? もうトロないの?」
「すいません。あいにく売り切れてしまいまして」
「何それ、おかしくない?」
「まだ七時半にもなんないのに、もう売り切れってどういうこと?」
おじさん達が一斉に騒ぎ出す。店員のお兄さんは、「すんません」と血相を変えて逃げてしまった。
「何かずるいよねえ?」
「しゃあねえなあ、あるもん食うか」
「じゃ、俺、サーモン!」
「イカ!」
「アナゴある~?」
「卵!」
食欲旺盛なおじさん達は、気持ちの切り替えが早いらしい。注文可能なネタをどんどん頼む。それを受けて、幹事はどんどんオーダーを入れる。
ようやく好物のサーモンにありついた私は、いよいよ麗しの君とお話する機会を虎視眈々と狙うことにした。
他のおじさん達が全力で食べる中、麗しの君は、転勤先のことを経験豊富なボスにいろいろと聞いていた。私の目の前を二人の会話が素通りするが、お仕事の話にはお邪魔できない。
一通り話が終わるまで待たなければ。今のうちに、何を話すか考えよう。やっぱり、シブイ思い出話をお聞きしたい。若かりし頃のこととかもいいなあ。バイオリンを弾いていた子供時代なんかも……。その当時は、きっとカワイイ男の子だったんだろうなあ。ぐふっふっふっふ。
再び奇妙な妄想が頭の中を支配し始めた時、やや離れた席にいた一人のおじさんが、にわかに大きな声を出した。
「なあ、さっき頼んだやつ、まだ来てないよな?」
「そういえば、そうですね。遅いなあ……」
テーブルの上を見れば、寿司はもう残りわずかだ。幹事が時計を見る。
「店が混んできたのかな」
「だからって、待たされるわけにいかねーだろ。こっちは時間制限あるんだから」
「残り時間は?」
「あと二十分くらいですね」
「まさか、わざとゆっくり出そうって企みか」
「時間稼ぎ? そんなん許さねえぞ」
おじさん達は再び騒ぎ出した。ついには、幹事含め数人が、「ちょっと厨房に催促にいってきますか」と言いながら、立ち上がった。
こらこら、いくら何でもそれは恥ずかしいだろう。食べ盛りは十代の特権だと思っていたが、四十代の殿方もよく食べるのだと初めて知った。おまけに、「食べる」ということに対して、恐ろしいほどの執着心を見せている。まさに、中高生男子と同じノリだ。
おじさんたるもの、「強い酒を静かに楽しみながら、時折つまみを口にいれる」というシブいスタイルを気取っていると信じ込んでいたが、現実は想定外に凄まじい。
部屋から出て行った面々が実際に厨房に押し入ったか否かは不明だが、その後しばらくして、寿司のてんこ盛りが運ばれてきた。ラストスパートか何か知らないがこんなにたくさんどうするんだ、と思う量だったが、おじさん達はそれも軽く完食してタイプアップ。送別会はお開きとなった。
寿司屋を出ると、ボスは麗しの君に再び激励の言葉を送り、「じゃ、後はよしなに」と片手を挙げて去っていった。
ボスに続き、何人かが麗しの君と握手を交わし、離脱していった。
いよいよ彼にお別れを言う時が来てしまった。ホントに悲しゅうございます。願わくば、もうちょっと落ち着いた環境でお話したかったなあ。
未練がましくその場に佇んでいると、当の麗しの君が、少し屈んで私に話しかけてきた。
「ちゃんと食べられた?」
「は、はひっ。お腹いっぱいですっ」
「それは良かった。あなたにはお世話になったから、何かお礼できないかなあと思ってたんだけど、こんなんで良かったかなあ」
今回私に声がかかったのは、麗しの君のそういうお気持ちがあったからなのか。なんてありがたいことだ。もう涙が出るほど嬉しいです。でもやっぱり、もうちょっとゆっくりお話したかったなあ。
その時、麗しの君の背後にいたおじさん達が、ぼそぼそと呟き出した。
「やっぱ飲み足りないなあ」
「ビール一杯だけだったし」
「どっか寄りますか」
「そーだな」
二次会に行きたそうな面々が、麗しの君のほうを見た。彼は麗しい笑顔で賛同の意を示した。
これは微妙な展開だ。私はどうすべきだろう。本来なら、よそ者のゲストは一次会で消えるべきだが、やっぱり、もうちょっと麗しの君とご一緒したい。
いやいや、やはり厚かましいかな。私が行けば、おじさん達が新人の飲み代を負担してしまうだろう。さっきの食べ放題の時も、私は会費免除だし。
でもでも、麗しの君を眺められるのは今宵が最後。少しでも長く見つめていたい。二次会なら、もっと静かな雰囲気でお話できるかもしれないし……。
私が常識と欲望の間をぐるぐる迷っていると、おじさん達がまた呟いた。
「俺、腹減った」
「自分もです」
「俺も」
へ? さっきお寿司を散々食べたばかりじゃないか。
「何か食えるとこがいいな」
「じゃ、牛丼屋?」
「俺はビール飲みたい」
「だよな~」
どうも飲むグループと食事グループに別れそうだ。麗しの君はどちらをお選びになるのだろう。ここは是非とも前者のほうを選んでくれ。そう思う時点で、私はすでに二次会に参加する気でいる。
ああ、バーに行こうなんて話にならないかなあ。そしたら、ジャズかなんかが静かに流れる薄暗い店内で、麗しの君はウィスキーかなんかを飲んで、私は甘いカクテルのグラスを手に……。もう、最高のシチュエーションではありませんか。うっきゃっきゃ。
「じゃあ、あそこ行きますか」
私の妄想を中断した幹事が指し示した先は、ラーメン屋だった。店の周辺から漂ってくるケモノの臭いからすると、濃厚とんこつ味の九州ラーメンらしい。
「おお~。いいね」
「いいねえ」
おじさん達は唸るような声を上げると、一斉に歩き出した。ちょ、ちょっと待って。どうしてここでラーメンなんだ!
「ビール飲みながらラーメン食えば、一石二鳥だよな」
「あの店確か、チャーシューをつまみで出してたぞ」
ラーメン屋でもつまみメニューを提供するとは知らなかった。で、でも、なんでまたそんな騒々しい場所に……。
狼狽する私を、麗しの君は妙に嬉しそうな顔で見た。
「ラーメン食ってく? あそこ旨いよ」
「いえ、あの、さっきお寿司たくさんいただいて、お腹いっぱいで……」
「そうだよねえ」
麗しの君が苦笑いしているうちに、先発の数人はすでに暖簾をくぐろうとしている。
「これからも頑張ってね。僕は三、四年でこっちに戻ると思うけど、その時はまたよろしく」
嗚呼、お別れの言葉より、静かなバーにお誘いする口説き言葉を申し上げたい。あ、あの、あの、もう少しだけ一緒に――。
「おーい、全員座れるぞお」
「先発隊」の一人がラーメン屋からひょこりと顔を出し、まだ外にいる面々を呼んだ。彼らは嬉々としてラーメン屋に消える。
それをちらっと見やった麗しの君は、「今日はありがとう。じゃっ」と爽やかなお声を残して、暖簾の向こうへと去っていった。
お別れの言葉を言いそびれた私は、濃厚とんこつの香り漂う夜の街に、ただ一人取り残されたのだった。
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