第6話 シャンパンは身を助ける

シャンパンは身を助ける(1)


 社会経験を数年積んだ頃になって、初めて知ったことがある。それは、「世の中には正真正銘の『ヤバイ奴』が存在する」ということだ。

 

 先に断っておくが、ここで言う「ヤバイ」とは、風変りだの奇抜だのという生易しい言葉が表現するところのものではないし、間違っても、オタク気質を意味するものでもない。

 オタクとは、特定の何かに尋常ならぬ愛を注ぐ才能を持ち、その「何か」さえあれば社会の荒波をかぶってもすぐに立ち直る特殊能力を天から賦与された者たちのことである。ちなみに、私はこの祝福された存在の一人であると自負している。


 私が思う「ヤバイ奴」とは、周囲を恐怖に陥れる人畜害な人間のことである。

 風変りでもオタクでも、他者に干渉せず静かに暮らしていれば何の問題もないはずだ。オタクであろうが非オタクであろうが、一線を越えて人畜有害となった人間を「ヤバイ奴」と定義するほうが、よほど公平というものではないだろうか。


 人畜有害な人間、つまり「ヤバイ奴」が、万が一にも、学校や会社もしくはご近所に一人でもいると、退屈な日常は、途端に阿鼻叫喚の非日常へと変わる。


 私は幸い、学校と家の近所でそのテの人種と出会う機会がなかったため、だいたい平穏無事な人生を送ってこられたが、そういう人間と接して暮さざるを得ない方々がいかに不安な日々を過ごしておられるかは想像に難くない。

 なぜなら私は、勤め先で強烈に「ヤバイ奴」と出くわしたことがあるからである。




 働き始めて二年後、私は初めての人事異動を経験した。といっても、敷地内にある建物のひとつから別のひとつへと居場所が変わるだけの異動だった。引っ越しを伴う異動に比べれば、物理的には恐ろしく楽だ。

 ただ、新しい職務内容は以前の業務とは全く異なっていたため、私にとっては、決して楽な出来事ではなかった。また右も左も分からない状態に戻ってしまった。もはや「新人」でない以上、至れり尽くせりの待遇も期待できない。


 当面飲みに行く余裕はなさそうだ、と観念して、しばらくは大人しくすることにした。



 緊張の日々を送り始めて数週間後、同じフロアにある別の課の男性が、何がしかの書類を私の部署に届けに来た。彼は、新入りの私に気付くと、挨拶がてら声をかけてきた。

 背格好はごく平凡だったが、野暮ったい感じの顔つきが、かえって印象的だった。髪の毛は、中途半端な長さのせいか、もさもさとしていて清潔感の欠けらもない。スーツの着こなしも他の殿方に比べると格段に悪い。ズボンのポケットが両方とも妙に膨らんでいるのだ。


 間違いなく、モテるタイプではない。しかし、本人より十歳ほど年下の新入りに対する彼の言葉遣いは、極めて丁寧だった。


「ここに来る前は、どちらにいたんですか?」


 野暮ったい彼がもぞもぞとした口調で尋ねてくるので、前職の部署名を答えた。すると彼は、「あ、僕も前、そこにいたんですよ」と言って、爽やかとは笑みを浮かべた。


 しばらく互いの前職の話をした後、野暮ったい顔から、さらりとお誘いの文句が飛び出した。


「そうだ。よかったら今度、食事にでも行きませんか」

「はあ、仕事に慣れて来ましたら、そのうち……」


 社会人になって三年目にもなれば、突然のオファーを「社交辞令」として受け流す術くらいは身に付いている。先方もそのつもりだったのだろう、「それじゃ」と言って、あっさり帰っていった。


 彼の姿が見えなくなると、私のすぐ隣にいた上司が、「あいつ、ヤバくね?」と耳打ちしてきた。

 新しい上司は、第3話登場のお節介なおじさん上司と同世代だったが、やや気が荒く、口も悪い人だった。


「そう、ですかね?」

「見た感じで分かんだろ。ありゃ絶対、ヤバイって」


 男を見た目で判断するのは女だけだと思っていたが、男性同士でもそういうことがあるのか、と意外に思った。


 別に、本人だって、好きで野暮ったい顔なわけではないし、私だって好きで童顔おチビをやっているわけではない。

 野暮ったいヤボさんが、なんだか気の毒になった。


 ヤボ男さんがどういう人物なのかを知るには、同じ職場の人たちに聞き回って情報を集めるのが一番だ。しかし、新しい部署は非常に年齢構成が高く、気軽に話しかけられそうな人間はあまりいなかった。おまけに、皆、雑談する暇さえないほど忙しそうにしている。

 さらに不運なことに、女性の数も少なかった。フロア全体では百人余りが勤務していたが、そのうち女性はわずか四、五人。同世代となると二人しかいなかった。

 これはかなり活動しにくい環境だ。


 取りあえず、私より一歳年上の女性に、さりげなくヤボ男さんの話題を振ってみた。大人しそうな彼女は、二年ほどこの部署で勤務しているがヤボ男さんのことはよく知らない、と話してくれた。


「仕事上の関わりはないから、あまり話したことないのよね。ずいぶん前に食事に行こうって言われたことあったけど、私は普段はお弁当だし、結局そのままになっちゃって」


 ふうむ、言いなりになりそうな女性に声をかける奴、私が前にいた部署にもいたな。ヤボ男さんも実はそういうタイプだったのか。


 ただ、サンプルが一件しかないのでは、結論は出しにくい。

 ちなみに、もう一人の同世代の女性は見るからに体育会系で、ヤボ男さんが近づけるような雰囲気ではなかった。聞くだけ無駄というものだろう。


 その後、ヤボ男さんはちょくちょく私のところに顔を見せに来たが、食事を云々という話は特に出なかった。仕事も忙しかったので、彼の存在を全く気に留めることもなく、数カ月が経った。



 ある日、彼が以前に勤務していた部署と仕事で関わることになった。

 彼の「古巣」は私が前職で配置されていたところでもある。机を構えていた部屋までは一緒ではなかったが、フロアは同じだったため、ヤボ男さんの元同僚の中には私の顔見知りも何人かいた。


 所定の用事を終わらせると、彼らの一人が突然ヤボ男さんのことを口にした。


「そっちに××って奴いるの、知ってる?」

「××さんとは、時々お話ししてますよ」

「彼、何か騒ぎ起こしてない?」


 どういう意味だ、「騒ぎ」って。私はまだ何の噂も聞いていないが、なにしろ異動してまだ数カ月だから……。

 そう答えると、周囲にいた人間は、互いを見まわし、数秒間、沈黙した。



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