シャンパンは身を助ける(2)
やがて、一人が意を決したように話し始めた。
「あいつ、三年前までうちにいたんだけどさ、その頃は超おかしかったんだよ」
彼の言う「おかしい」が、「面白い」の意味でないことは、その顔色を見れば分かる。
これは意外なところから信憑性の高い情報が取れそうだ。しかも、かなりヤバそうな。
「仕事はそこそこやってたんだけどね。あいつ、突然立ち上がって『飛び降りてやる!』とか叫んだりしてさ」
ええっ、自殺願望?
「それに、動物虐待が趣味だったんだよ。何でも、ハトを捕まえて……」
ヤボ男の元同僚が話した内容をこれ以上書くと、「残酷描写有り」のレーティングをしなければならなくなるので、詳細は割愛する。とにかく、聞きたくない類の話であったことは確かである。
「そ、それ、本人が、わざわざ職場で、話したんですか?」
私がややどもり気味に聞くと、別の元同僚が会話に割って入ってきた。
「話すも何も、写真を持ってきて、ここで見せびらかしてんだよ。俺も見ちゃったんだから! ハトが……」
その先はもう言わなくていい。あのヤボ男、野暮ったいどころか、思いっきりヤバイじゃないか。ヤボ
私が完全に震えあがっていると、三番目の元同僚が三つめのネタを披露した。
「奥さんにも手錠かけたことある、って言ってたな」
何だそれ? 変態と解釈すべき? それともDV? 手錠も気になるが、その前に、ヤバ男に奥さんがいたんだ!
「あれ、知らなかった? 某課にいる△△さん、彼の奥さんだよ」
挙げられた名は、確かにヤバ男の苗字と同じだった。私が以前この部に配置されていた時の勤務場所は、その奥さんがいる部屋のすぐ隣だった。もちろん、当の奥さんの顔も知っているし、ほんのわずかだが言葉を交わしたこともある。
その人が、ヤバ男と一緒に暮らしていたとは。彼女は、ヤバ男が動物を虐待するところを見たことがあるのだろうか。自分のダンナに手錠をかけられたりして、それでも毎日平然と過ごし、仕事に来ていたのだろうか。
いやもう、完全に理解不能なんですが。
「今は別居中らしいんだけど、奥さんは離婚したがってるのに、あいつがハンコ押さないらしいんだよね」
ますます訳が分からない。奥さんを手放したくないというヤバ男が、なぜ、私なんかを食事に誘ったりするのだろう。そんな状況なら、たとえ社交辞令でも別の女に声をかける気分にはなれない、というのが普通なんじゃないのか。
混乱した頭を抱えて、私は現在の勤務場所に戻った。仕事の報告を待っていた上司に、「大変です! あの人、ホントにホントにヤバイですっ!」と、開口一番、ヤバ男の話を伝えた。
慌てふためく部下がひとしきり話し終えると、上司はしたり顔で頷いた。
「俺の言ったとおりだろ。最初っからそういうオーラがバンバン出てたんだよ」
「な、なぜ、あの一瞬で分かったんですか?」
「年の功ってやつかな。それにしても、あいつが結婚していたとは驚きだよ。
口の悪い上司はさんざんヤバ男をこき下ろした後、はたと思いついたように私を見て、「アンタ、気を付けた方がいいぞ」と、言い出した。
「な、なんで私が……」
「だって、あいつ、小動物を虐待するのが趣味なんだろ? アンタちっこいしさ、小動物と思われたら襲われるぞ」
上司は、恐ろしいことをさらりと言って、ゲラゲラ笑い出した。
彼は大柄で、ヤバ男より腕っぷしもずっと強そうなご立派な体格をしている。どうせ、日々を心細く生きる小さき者の気持ちなど分からないのだ。
以来、私は残業時間に気を付けるようになった。フロアに残る人間が少なくなる前に職場を出るように心掛けた。
正直なところ、これは厳しかった。日中はパシリで使われることの多い下っ端は、五時過ぎにならないと落ち着いて自分の仕事に集中できない。しかし、残業時間が限られれば、中途半端になった仕事を翌朝に持ち越さざるを得なくなってしまう。
結局、毎朝バタバタすることになり、周囲には「管理も手際も悪い」と白い目で見られてしまうのだ。
しかし、身の安全には代えられない。ヤバ
着任当初よりもますます緊張しながら日々を過ごしていたある日、私の所属する部にレセプションの招待が来た。部外の関係先で、何かを記念して立食パーティをするというのである。
早い話が、タダ酒タダ飯にありつける絶好の機会である。アルコールが嫌いでない私と私の上司は、速攻で参加を決めた。
レセプション会場は、職場から歩いて五分もかからないイベントホールだった。入り口で名札をもらい、中に入ると、開始時刻より少し前に来たゲストたちのために、ウェルカムドリンクが用意されていた。
同行の上司などそっちのけでカウンターに行くと、シャンパンが置いてあるのを発見した。
昔、結婚式のウェルカムドリンクではシャンパンを飲め、と人に言われたことがある。安物のスパークリングワインは味ですぐに分かる。ゆえに、披露宴という見栄を張る場所では、シャンパンだけは間違いなくそれなりのものが出されている、というのだ。
その話を思い出した私は、迷わずシャンパンを頼んだ。
カウンターに、淡い金色の液体で満たされた細長いグラスが置かれる。何という魅惑的な色。中で小さな泡が上品に光っている。
ひと口飲むと、期待どおりの味がした。ああ、なんて美味しいんだ。今日は久々に飲むぞ、と気合が入った。
おエラ方の祝辞の後、「ご自由にご歓談」の時間となった。
上司たちがせっせと名刺交換をしている間に、下っ端の私は、シャンパングラスを片手にせっせと食べた。同世代の顔見知りも何人か見かけたが、彼らも考えることは同じらしく、挨拶もそこそこに、テーブルの上の料理をどんどん皿に取っては食べている。若い者は、人脈作りより己の胃袋を満たすほうが重要なのだ。
グラスを空けた私は、早速お代わりをしようと、ウェルカムドリンクを出してくれたカウンターに行った。
ところが、シャンパンはもう出していないという。やはり、高い酒は数に限りがあるのか。出遅れてしまった。
心の中で地団太を踏んでいると、カウンターのお兄さんが、後でシャンパンを盆に載せたウェイターが会場内を回る予定だ、と教えてくれた。
仕事の話で忙しい幹部たちは、場を中座して飲み物を取りに行くのが難しい。そこで、ウェイターさんが飲み物を持って会場内を巡回するのである。
よし、まだチャンスはある。
一通り飲み食いしてようやく落ち着いた同世代の人間たちとおしゃべりをしていると、果たして、飲み物をたくさん載せた盆を持ったウェイターさんたち数人が、会場内を回り始めた。
シャンパンの盆、シャンパンの載った盆はどこだ。
私は、金色の美しいグラスを満載した盆を持ったウェイターを探した。
いた!
発見できたものの、見ると、周囲からどんどん手が伸びている。待ってくれ! 私にも一杯……。
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