シャンパンは身を助ける(3)
私は、恥も外聞も捨ててシャンパンの盆を追いかけた。
目標のウェイターさんは、人であふれかえる会場内をすいすいと移動する。私も、おチビな身体を活かして、人の合間を縫い、彼を追う。
行く手を阻むように、前に一緒に仕事をしたことのある知り合いが声をかけてきた。悪い、今忙しいんだ。後にしてくれ。
年齢は結構上のはずの先輩を無礼にも邪険にあしらい、シャンパンを追う。
会場をほぼ一周して、ようやく残りわずかなシャンパンにありついた。この分では、三杯目は難しいだろう。
苦労して獲得した飲み物を大事に味わっていると、すっかりその存在を忘れていた上司が、背後から私を呼び止めた。
「俺、やることあるから、そろそろ職場に戻るわ。後テキトーに楽しんで」
「どうもお疲れ様です」
しかし彼は、私の挨拶には答えず、目を細めてある一点を凝視した。そして、背をかがめて顔を寄せてきた。
「あいつ、ずっとアンタをつけ回してる感じだな」
「あいつ?」
「あのヤバイ奴だよ」
ヤバ男もレセプションに来てたのか。シャンパンに気を取られて、全く気付かなかった。
「つ、つけ回すって?」
「アンタ、酒の盆追っかけ回してただろ」
バレておりましたか。お恥ずかしい。
「アンタの後を、あいつ、ずっとついて回ってたように見えた」
「ホ、ホントに……?」
「後ろ、そおっと見てみ」
上司に言われて、会場全体を見まわすフリをして、後ろのほうを見た。
人込みの後ろにヤバ男の姿があった。こちらを見ているようにも、別の人間に目を向けているようにも見える。
「た、たまたま、じゃないですかね?」
私の希望的観測を上司は鼻で笑った。
「じゃあ、ここから部屋の反対側までグルっと歩いてみ。たぶんついてくるから。俺もう行くけど、気を付けてな」
最後の言葉にやや意味深なものを感じながら、職場に戻る上司と別れ、会場の中をゆっくりと歩いてみた。
少し離れた場所に、年の近い酒飲みの知り合いがいた。彼女のところまで行き、雑談を始めたフリをしながら、そっと後ろを向いた。
ヤバ男は、私から数メートルほど離れたところに立って、こちらを見ていた。
私は知り合いとの話を早々に切り上げ、直ちにその場から去った。
このレセプション会場からも逃げなければ。人込みをかき分け、出口へと向かった。
しかし、この判断は完全に間違っていた。付きまとう側から見れば、ターゲットが一人のほうが接触しやすいのだ。
会場出口で、私はヤバ男につかまってしまった。
「今から帰り? 良かったらこの後、少しだけどこか寄ってかない?」
うわああ! 私は小動物じゃないんだ! 痛めつけられて電子レン……、いや、これ以上詳しく言及することは許されない。とにかく、それだけは勘弁してくれ。
しかし、さすがは上司。彼の推理は当たっていた。願わくば、私を置いていかないで欲しかったなあ。
心の中で上司を呪っていると、彼が別れ際に言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『俺、やることあるからそろそろ職場に戻るわ』
そうだ! この言い訳で逃れられる!
「まだ職場に戻ってやらなきゃならないことあるんですよ。すいません」
まさに怯える小動物のような顔で言うと、ヤバ男は「そっか」といって意外とあっさり引き下がった。
ああ、良かった。私はその場に立ち尽くすヤバ男に背を向け、早足で職場に戻った。
事務所に着くと、パソコンとにらめっこしていた上司が、「あれ、どうした?」と、のん気な顔で聞いてきた。
「どうしたもこうしたも、例のあの人が『どこか行かない?』って言ってきたんですよ! 怖いから『まだ仕事がある』って言って、逃げてきたんです!」
「やっぱな。俺の勘、冴えてるだろ?」
上司は、予想通りの展開にさも満足という表情を浮かべた。全く、何が嬉しいんだ。こっちは真面目に身の危険を感じたんだぞ!
私はぼうぼうに文句を言いたいのを我慢して、自席に座った。
あの後、ヤバ男は家に帰ったのか。レセプションに戻ったのか。それとも、一人でどこかに飲みに行ったのか。奴と街中で鉢合わせたら大変だ。三十分も待てば、その危険を回避できるだろうか……。
急ぎでない事務処理を残したままだったので、それをやって少し時間をつぶすことにした。
しばらくして、仕事が一段落したらしい上司が、突然変なことを言い出した。
「あいつ、ココに戻ってるってことはないよな?」
「それは、ないと思います。『帰りにどこか寄ろう』って言い方でしたから、戻って仕事する予定はないのではないかと……」
「そうじゃねえよ。アンタ、『職場に戻る』って奴に言ってから来たんだろ? そしたら、奴もアンタの後を追っかけてココに舞い戻ってきてるって可能性、あるんじゃないか?」
またまた嫌な事を言ってくれる。
「あいつの部屋、見てくれば? ホントにいるかもよ」
上司はニヤリと笑った。全く、今はそういう冗談を笑う気分にはなれないんだけどな。
しかし、彼の推測は、過去二回当たっている。なんとなく気になって、彼の言うとおりにした。
人気のない廊下を歩き、ヤバ男が所属する部署の部屋へそっと近づく。
煌々と灯りのともるその部屋には、数人の職員と、そして、ヤバ男がいた。彼は、両手を膝の上に置いたまま、パソコン画面をじっと眺めていた。
私は、その場を一目散に走り去りたい衝動をなんとか抑え、足音を立てないように上司の元へ戻った。
「い、いいい、い……」
「いたのか? あいつ? ホントに!?」
口が「い」のまま動かなくなってしまった私がこくこくと頷くと、上司は血相を変えて立ち上がった。
「今すぐ帰るんだ! エレベーターは使うな。乗り場が奴の部屋から丸見えだ。階段から降りろ。俺、ここでしばらく見張ってるから!」
さすがは上司、実にてきぱきと指示をしてくれる。私は、彼に礼を言うのもそこそこに鞄をひっつかむと、部屋を出てすぐの所にある階段を駆け下りた。そして、五階下の建物出口までたどり着くと、そこから敷地の外まで全力疾走し、まさに藪の中に飛び込む小動物のごとく、雑踏の中に逃げ込んだのだった。
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