シャンパンは身を助ける(4)
翌日、私の上司はヤバ
先方が回答したところによれば、やはりヤバ男は、酒の席を切り上げて事務所に戻らなければならないような急ぎの仕事は特に抱えていなかった。
前日のレセプション会場でヤバ男が具体的に何を考えていたかは分からない。しかし、私に対して何らかの思惑があったことは、もはや疑いようがない。
あのレセプションで、もし私の上司がヤバ男の怪しい行動に気付いていなかったら、自分が危険人物の興味対象になっていることを事前に察知するのは難しかった。
もし、シャンパンが時間中ずっとカウンターで提供されていたら、私が会場をぐるぐる回ることもなく、ヤバ男が上司の目に留まる行動に出ることもなかった。
何も知らずにレセプションに最後までいて、帰り際になって突然ヤバ男に声をかけられていたら、私はどうしていただろう。
「飲みに行こう」と誘われれば迷いなく断るだろうが、「帰り道を途中まで一緒に」と自然に言われたら、それぐらいいいだろうと油断したかもしれない。
危険人物が相手では、人目のある街中や駅構内でさえ犯行現場となるかもしれないというのに。
口の悪い上司と、シャンパングラスを載せた盆を持って会場内を歩き回っていたウェイターさんには、感謝してもしきれないくらいである。
レセプションの事案から数カ月も経たないうちに、ヤバ男は転属となった。私の上司が裏で手を回した可能性はなきにしもあらずだが、数年おきの転勤が珍しくない職場だったので、単に異動の時期を迎えただけだろうとも思われる。
ヤバ男の次の任地は関東圏内ではあったが、転居を必要とする異動だった。彼の異動先の方々には本当に本当に申し訳ないが、これで私は安全だ。ようやく気兼ねなく残業できる。
相変わらず飲みに行く余裕はなさそうだったが、毎日を安心して暮らせるだけで、十分に幸せだ。
ところが、安息の日々を一年ほど過ごした後、妙な噂を聞きつけた。
ヤバ男が異動先で行方不明になったというのである。秋の休日に山登りに出かけ、そのまま消息を絶ったらしい。
何日か捜索も行われたが、手がかりが得られぬまま打ち切りになったという話だった。
瞬間的に「何か変だ」と思った。
あのヤバ男が、「山登り」などという極めて爽やかな趣味を持っていたのだろうか。動物を虐待していた人間が、東京から自然豊かな田舎へ行って心機一転、爽やかな人間に豹変したとでもいうのか。
私は、詳細情報を求めて、ヤバ男の昔の職場を訪ねた。その部署もやや人が入れ替わっていたが、彼の元同僚も幾人かは残っていた。
しかし、そこでも目新しい話は聞けなかった。
元同僚たちは、
「クマに喰われたかな」
「姿をくらましたってのが、本当のところじゃない?」
などと、憶測を語り合っていた。
「姿をくらます……って、『行方不明』じゃないってことですか?」
「うん。わざといなくなったんじゃないかな。雲隠れだよ」
「何のためにそんなことするんですか?」
「さあ、何か良からぬことでも企んでんじゃないの? 奴なら有り得る」
元同僚たちは乾いた笑い声を立てた。
皆、なんでそんなにのん気なんだ。動物を虐待し奥さんに手錠をかける怪しい奴がどこにいるか分からなくなったというのに、怖くないのか。
私が悶々としていると、彼らの一人が、「あいつ、自分の実家に帰って潜伏中かもよ」と言い出した。
聞けば、ヤバ男の実家の所在地は、私が当時住んでいた場所から数駅ほどしか離れていなかった。
何かが一致するような、しないような、気味の悪さ。
取りあえず、自宅の戸締りを確実にし、仕事帰りの夜道には細心の注意を払い、休日はさほど遠くない自分の実家に戻るか友人と会うかして、極力一人でいないようにした。
再び、油断ならない日々の始まりである。
しかし、最も気の毒なのは、ヤバ男の奥さんだった。元々、離婚を前提として別居中だったので、ヤバ男がいなくなったこと自体は大した問題ではないだろうが、彼が離婚届に印鑑を押さないまま行方不明になったため、離婚調停も不可能となり、奥さんは身動き出来なくなってしまったのである。
民法では、「配偶者が三年以上にわたって生死不明の場合は離婚できる」と規定されている。つまり、ヤバ男の奥さんは、三年もの間、離婚も再婚もできずに、忽然と消えたダンナに拘束されることになってしまったのだ。
ちなみに、行方不明者が死亡扱いとなるのは、行方が分からなくなってから七年後である。行方不明者名義の財産や生命保険金を家族が受け取るためには、七年間待たなければならないのだ。
ヤバ男の奥さんが所定の年月を経て旧姓に戻ったという噂を聞いたのは、奴が行方不明になってから七年ほど経ってからだった。
奥さんがヤバ男の「生死不明」を理由に離婚したのか、「配偶者死亡による婚姻関係の解消」という形を取ったのかは分からないが、噂が流れてくるまでの時間を考えると、おそらく前者のほうだと思われる。
ヤバ男は、奥さんをあと四年待たせるに足る財産を持っていなかったに違いない。
現在、ヤバ男はこの世に存在しない。しかし、誰も彼の遺体を確認したわけではない。彼の「死亡」はあくまで法的な位置付けにすぎないのだ。
もしかすると、彼は今も人知れずどこかの街に潜んでいて、平凡なビルの中にあるネットカフェの一室で、この文章を読みながら何やらつぶやいているかもしれない……。
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