第7話 アルコールで異文化交流(PART Ⅰ)
アルコールで異文化交流(Ⅰー米国編)
仕事で、たまに在京大使館と関わることがあった。下っ端の私がやることと言えば、主に電話連絡や書類送付などの雑用程度だったが、大使館絡みの業務は嫌いではなかった。なぜなら、時々、大使館主催のレセプション行事に顔を出す機会が巡ってくるからである。
平たく言うと、前の話と同様、タダ酒タダ飯にありつけるのだ。
本来、この類の行事に招待されるのは政財界のお
私も何度か駆り出されたことがあるのだが、お偉方の奥様に張り付いていると、外国人の出席者から、「〇〇夫人、今日はご息女もご一緒なんですね?」とたびたび声をかけられ、奥様と二人で苦笑いした記憶がある。
童顔の人間にパーティ通訳の任務は全くもって不適切だと自分でも思っていたが、タダ酒を飲む機会を失うのは嫌だったので、上司には何も話さないでおいた。
仕事でレセプションに参加している時は、さすがに自由に飲み食いというわけにはいかないが、お偉方は皆お忙しいので、彼らが立食形式のレセプションに最初から最後までいるということはあまりない。一時間もすればお帰りになることが多いので、お偉方をお見送りした後は、まさに下っ端のフリータイムである。
キャビアだのフォアグラだのといった目玉商品は大抵お偉方に食べられているが、タダ酒タダ飯をいただく身としては不満を言うなどもってのほか。お開きの時間ギリギリまで、余り物を有難く頂戴し残り酒をひたすら堪能する。
同様に飲み食いしている同業者や大使館側の下っ端とも交流できるので、いろんな意味でオイシイ時間だ。
ごくごくたまには、実務者レベルに加え、私のような下っ端まで「客」として呼んでくれる太っ腹なレセプション行事もあった。
そういう時は、遠慮なく食事を楽しみ、友人となった下っ端連中と飲んで喋って盛り上がる。彼らをツテに、彼らのボスたちに顔を売る機会も得られるので、まさに一石三鳥のオイシサである。
しかし、外国人と接していると、妙なところで言葉の壁や文化の壁を感じてしまうことがある。それをひとつひとつ乗り越え互いに理解し合うところから世界平和は始まるのだが、壁に出会ったその瞬間は、なかなか冷や汗ものである。
今回は、そんな異文化冷や汗体験の中から二つをピックアップしてご披露申し上げることにする。
まずは、とあるアメリカ人との出来事。
在京米国大使館に、一人のアメリカ人が着任した。彼は、私のいた職場と仕事上関わりがあるセクションのボス的な地位に就く人物だった。
先方の秘書が早速、その新ボスの略歴を送ってきてくれたのだが、私はそれを読んですぐに青ざめた。
ボスのラストネームの欄に「AHO」と記載されていたのだ。
私は略歴が書かれた紙を上司に渡しながら、聞いた。
「今度着任される方、お名前なんて読むと思われます?」
「……『アホ』じゃね?」
口の悪い上司はゲラゲラ笑っていたが、私が「我々はどうやって呼びかけたらいいんでしょうね?」と言うと、にわかに真顔になった。
「うーん、ミスター・アホ、かな? いや、アホさん?」
ほら、笑ってる場合じゃなかろうが。
「ファーストネームで呼ばせてもらうってわけには……」
唸る上司に、私は否定的に応じた。AHO氏は私の上司よりも社会的に上位の立場にあった。先方からそういう申し出でもない限り、こちらから慣れ慣れしくファーストネームで呼びかけるわけにはいかない。
「日本語の『アホ』とは発音が違うかもしれませんよ。アのほうにアクセント置いて『アーホウ』かもしれないし、ホのほうを強く発音して『アホーウ』かも」
上司はしばらく私の分析を吟味していたが、やがて、はたと思いついたように手を叩いた。
「アンタ、大使館に電話して聞いてくれよ。次のボスの名前、なんて発音するのか」
「嫌ですよ。こっちの意図がもろバレじゃないですか」
「いいだろ別に。俺が聞いたら外交問題になるかもしれんけど、アンタだったら、子供みてえなバカな若い奴がくだらんこと聞いてすいませんって謝って終われるじゃないか」
先にも書いたが、この上司は実に口が悪い。本当のことを言われてムッときた私は、絶対に電話はかけないと言い張った。
「最初に確認しとかないと、後々困るだろ。AHO氏とコンタクト取る用事が出来た時、どうすんだよ」
「私はもっぱら秘書さんとのやり取りなので、関係ありません」
「……アンタ、ヤな奴だな。俺の部下なら、俺を助けてやろうとは思わないのかっ」
上司はぎいぎいと怒り出した。ヤな奴はどっちだ。人にものを頼む時はもう少し頭を低くするものだろうが。
私は筋の通らないことには頑なに反抗するタイプなのだ。
AHO氏と対面する機会は予想外に早くやってきた。彼の着任早々、別の大使館で建国記念だかのレセプションが行われることになり、米大使館で要職に就く彼も、私の部署の面々も、共にその行事に招待されたのである。
AHO氏にとっては、このレセプションは格好の挨拶回りの場となる。我々も、出席すれば、会場で彼と接触することになるだろう。
現地での騒動を回避するため、私と上司は、日本側の出席者たちにAHO氏のことを伝えた。やはり、一同は当惑した表情を浮かべた。
「ほら、アンタがさっさと向こうの秘書に彼の呼び方を聞いとけば良かったんだ」
私の上司は口を尖らせて睨みつけてきた。すいません。あなたのおっしゃるとおりです。
私がしょげていると、場にいた一人が助け船を出してくれた。
「先方が名乗った時の発音を真似るのが、一番無難じゃないか?」
そうだな、と、一同が頷いた。
「もし、そのまんまの『アホ』だったらどうする?」
「取り合えず、笑わなければいいんじゃないの?」
おじさん連中は、眉を八の字にしてひそひそと相談している。見ると、口の悪い私の上司も不安そうな顔になっていた。
「俺、喜怒哀楽が出やすい顔なんだよなあ。絶対、笑っちゃう」
今回のレセプションは、タダ酒タダ飯を楽しむ場合ではなさそうだった。
当日、広いレセプション会場に着いた我々日本勢は、顔見知りとの挨拶もそこそこに、部屋の隅に固まっていた。
大勢が歓談する中に、米国勢らしい一団がいた。あの中に、きっとAHO氏もいる。どうか見つかりませんように。
しかし、目ざとい米大使館の秘書は、不自然に大人しい日本勢を見つけると、一団の中の一人に手招きをした。そして、我々のほうに向かってつかつかと歩み寄ってきた。
彼女の後を、背広を着た大柄な白人がついてくる。あれが噂の……。
日本勢は、覚悟を決めて意味もなく姿勢を正した。喜怒哀楽の出やすい私の上司は己の頬をぺチっと叩いた。
「AHO」というラストネームが書かれた招待客用の名札を胸に付けたAHO氏は、いかつい体格の割には、優しそうな顔をしていた。彼は、にこにこしながら、たどたどしい日本語で自己紹介をした。
「初メマシテ。私ハ
日本勢は完全に凍りついてしまった。
駐在期間中とても熱心に働いていたアホさんを思い出すたびに、考えることがある。それは、全世界に存在するありとあらゆる氏名を収集し、その中から「日本での生活を困難にする可能性のある苗字や名前」を抽出して、懇切丁寧な解説まで入れた「辞典」のようなものを編纂できないか、ということである。
各国政府や世界的大企業に売り込めば、それなりに需要はあるのではないだろうか。
「氏名」という、個人にとっては最も重要なアイデンティティが海外駐在先で奇異なものとして受け止められるのは、実に不幸なことだ。
アホさんの日本勤務を決定した米国政府の人事担当者も、「AHO」という語感が日本でどのように認識されているか事前に知っていれば、もう少し違う対応をしていたのではないかと思われる。
もっとも、名前で目立つのもひとつの作戦である。もし、米国政府がすべてを承知の上でアホさんを日本に送り込んできたのだとしたら、その高い情報活動能力に、ただただ畏怖の念を覚えるばかりである。
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