グラス一杯だけのダンディ・ハント(2)

 私の邪念など露ほども知らない麗しの君は、口述原稿を見つつプレゼンの練習を始めた。

 大きなスクリーンを背に語る姿は何とも凛々しい。通るバリトンも素晴らしい。うっかり見とれていると、自分の仕事を忘れそうだ。


 ひと通りの予行練習を終えると、麗しの君は、スクリーンに投影された画像を一つずつチェックした。その後は二人で、質疑応答を想定しながら予備資料の内容を確認していく。


 やがて、満足したらしい麗しの君は、「じゃ、明後日、よろしくお願いします」と、私にぺこっと頭を下げた。


 いやあ、いいなあ。凛々しくてカワイイ、最高のおじさまです。でっへっへっへ。



 そして、いよいよ本番当日。居並ぶ重鎮たちを前に、麗しの君は堂々と責務を果たした。質疑応答もソツなくクリアしていた。トップからお褒めの言葉もいただいた。

 すべてが無事に終わった。終わってしまった……。


 複雑な気持ちで「お疲れ様でした」と声をかけると、麗しの君は、ほっとしたような顔でニコっと笑い、「すっかりお世話になりました」と、またぺこっと頭を下げた。


 ああ、やっぱり麗しくてカワイイなあ。この幸せなお仕事も今日が最後。お名残惜しゅうございます。

 新人の下っ端がこれほどまでに麗しの君に接近する機会など、もう二度とないでしょう。せめて、今後も敷地の中で私めをお見かけになりましたら、一秒でいいですから、麗しの微笑みを見せてやってくださいまし。




 幸せなご奉公から「現実」に戻って一か月ほどが経った頃、この世の終わりにも匹敵するショッキングな事実を発見した。

 回覧されてきた人事発令の文書の中に、麗しの君の名が記載されていたのだ。


 人事発令とは、すなわち人事異動のお知らせである。麗しの君は、年度末をもって栄転し、遠い所へ行くことになったという。

 嗚呼、麗しの君よ、もう遠くからお姿を拝することすら叶わないのか。


 すっかり悲嘆に暮れていると、お節介なおじさん上司のところに一本の電話がかかってきた。

 発信元は、麗しの君のボスだった。「転勤する麗しの君の送別会をすることになったのだが、男所帯の飲み会はちとサミシイので、この間手伝いに来てくれた女の人に来てもらえるとありがたい」というようなことを言ってきたらしい。


 お節介おじさん上司は電話口で適当に言葉を繋ぎながら、露骨に当惑の表情を浮かべた。聞きようによっては、ややセクハラ的な「依頼」だ。しかし、相手は彼より上位にある麗しの君の、さらにその上にいる人物だ。

 いきなりのっぴきならない状況に置かれた私の上司は、送話口を手でふさぎ、私にコトのいきさつをこそこそと話した。


「別に無理して行かなくていいからね。適当な理由作って断れるから」


 断る? 冗談じゃございません! お声をかけていただけるなんて恐悦至極、身に余る光栄でございます。また麗しの君に会える機会に恵まれようとは。こんな幸運、決して逃してなるものか。


 セクハラ問題の中には、関係者の人間関係で白黒決まるものもある。同じセリフ、同じ対応でも、その時々で、ノープロブレムだったり、大問題になったり、場合によっては逆に歓迎されてしまったりするのだ。


 麗しの君のボスは、私が麗しの君をうっとり眺めていたことを承知していたからこそ、確信犯的に飲み会の話を持ってきたのだろう。さすが、上に立つ者はなんでもお見通しである。



 送別会当日、指定された待ち合わせ場所に行くと、すでに十人ほどのスーツの一団がいた。

 果たして、その中に麗しの君もいる。落ち着いた色合いのグレーのスーツで佇む姿は、都会の街によく似合っていた。


 馴染みの面々に囲まれている麗しの君には、なかなか近づけない。しかし、彼の同僚の何人かが、気を遣って私を構ってくれた。ご奉公中ほとんど接点がなかった彼らも、部屋をうろうろする童顔おチビのことを覚えていてくれたらしい。

 新人の挨拶回りで来たときは「怖そうな人たちばかりだなあ」という印象だったが、話して見れば、皆さん人の良さそうな方々ばかりだ。もっと早く分かっていれば……。嬉しくも少し残念な気持ちである。


 おじさん勢と雑談しているうちに、やや遅れてボスと残りの数人が登場し、皆で夜の街へと歩き出した。


 麗しの君の後を、私は少しうつむき加減でついて行く。間違っても、「でっへっへっへ」なんて下品な笑いを漏らしたりはしない。外見はあくまで「恥ずかしがりの新人」を装うのだ。



 送別会の会場は寿司屋だった。個室に通され、大きな丸テーブルを囲むように座る。ゲスト扱いの私は、ボスと麗しの君の間というポジションになった。私のような若輩者がこのような華やかな席に座らせていただけるなんて、恐悦至極、身に余る光栄でございます。

 ふと、横に座る麗しの君を見ると、まあ、思ったより肩幅が広くていらっしゃる。


 ひとしきりビールを飲んだら、それぞれ好きなアルコールを飲み始めるに違いない。これからが大事だ。頭の中でシミュレーションを試みる。


 まず、麗しの君がビールを飲み干したら、すかさず自分もコップを空にする。次に、ドリンクメニューを彼に見せる。


 『次、何をお飲みになります?』

 『そーだねー』


 アルコールのメニューを見ていた彼は、私のコップの中身もなくなっていることに気付き、そのメニューを少し私のほうに押し戻す。


 『あなたも何か頼んだら?』

 『え、何にしましょう……』


 ひとつのメニューを覗く二人は、いつの間にか顔を寄せ合い……。うっひゃっひゃっひゃ。



 シミュレーションというより「妄想の爆発」とでも言うべきようなものにすっかり酔いしれていると、瓶ビール何本かと小振りのガラスのコップ十数個が運ばれてきた。


 ん? 人数に比して異様に本数が少ない。揃いも揃って飲みそうな面々だが……。


 若干不思議に思いつつ瓶を手にすると、ボスが、「彼に注いでやって~」と、満面の笑みで麗しの君のほうを指した。


 それでは、ということで、本日の主役である麗しの君のコップをビールで満たす。彼はボスより先に注がれたことに恐縮しながら、「ボスのほうにもお願いします」と私に目で訴えてくる。

 もちろん、ボス様にもお注ぎいたしますよ。ボス様のおかげで私は今、この特等席にいるんですから。


 ボスにビールを注ぎ終わると、麗しの君は私の手から瓶を取った。そして、テーブルに置いてあったコップを私に握らせ、そこにビールを注いでくれた。


 やったあ! 麗しの君にお酌されちゃったあ! でえっへっへっへ。もう我慢できん。顔がへろへろでございます。


 乾杯の準備が整うと、幹事に促されたボスが、栄転する部下への激励の言葉を述べた。そして、乾杯の唱和が個室中に響く。

 あっという間に、さして大きくないコップはすべて空になった。次を注ぎ合おうにも、もう中身の入っている瓶はない。どうするのだろうと思っていると、寿司が運ばれて来た。店員さんが、寿司満載の大皿をいくつか、どかっとテーブルに置いていく。ビールが追加される気配はない。


 今日の私はあくまで「ゲスト」だが、やはり下っ端たるもの、追加注文の任を仰せつかるべきか。

 迷っていると、突然ボスが、「さあっ、食うぞお!」と、雄叫びにも似た声を上げた。


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