第5話 グラス一杯だけのダンディ・ハント

グラス一杯だけのダンディ・ハント(1)


 就職して十カ月ほども経ち、そこそこ職場にも慣れてきた頃のことだった。

 ある日、部内の関係先から、「若手を一人借りたい」という依頼が来た。期間は二週間ほど。その部署にいる人間の一人が業務過多で難儀しており、雑用的な仕事を手伝ってほしいという。


 話を受けた上司(=第3話登場の「お節介おじさん」)は、部屋を見回し、私に「頼める?」と遠慮がちに尋ねてきた。主な仕事は、上層部向けの報告に使う資料の作成とそれに伴う英日翻訳が少々。

 出来ない内容ではなかったので、「やらせていただきます!」と新人らしく格好をつけた。


 しかし、「じゃ、よろしく」という言葉の後に通告された「奉公先」は、感じの悪そうな男所帯の部署だった。勤め始めて間もない頃、お節介おじさん上司に連れられてその部署に挨拶に行ったことがあるのだが、先方は女の私を見るなり一様に不愉快そうな反応をしていた。その詳細は第3話に書いたとおりである。

 すっかり気が重くなったが、今さら嫌だとは言えない。



 翌日、私は戦々恐々として「敵地」に向かった。

 取り敢えず、「こんな使えない奴を寄越しやがって」という苦情をもらって上司に恥をかかせるような不始末だけは、何としても避けなければならない。


 おっかなびっくり部屋の入り口に顔を出すと、中にいた一人が立ち上がった。


「あ、業務支援に来てくれたのって、あなた?」


 耳に心地よいバリトンで話しかけてきたのは、四十代前半の殿方だった。背丈は普通、しかし、なかなか引き締まった体型で、挨拶しながらお顔を見ると、筋の通ったお鼻に涼やかなパッチリお目々をしている。


 うお! こんなカッコイイおじさんいたっけ? 新人の挨拶回りで来たときは、全く気付かなかった。なんたる失態、なんたる不覚!


「いろいろ仕事が重なって、細かいことまで追っつかなくなっちゃって。翻訳とか報告資料の作成とかお願いしたいんだけど、よろしく頼みます」


 信じられないほど麗しいおじさまは、信じられないほど麗しく微笑んだ。


 この麗しの君を、私がお手伝い申し上げるのでございますか。何たる幸運、何たる役得! 

 あまりの感激にヨダレが、もとい、涙が出そうでございます。いやもう、目一杯こき使ってやってくださいませ。残業でも徹夜でも全くOKでございますよっ。

 彼は既婚だが、眺めて愛でる分には、特にバチも当たるまい。



 かくして、私の楽しい業務支援が始まった。翻訳は、基本的には、麗しの君から原文資料を預かり自分の机に戻って作業する、というスタイルだった。しかし、プレゼン資料のほうは、「秘区分の高い内容を含むから」という理由で、すべて奉公先で作成するように求められた。


 麗しの君がお勤めの部屋の隅っこに机と椅子とパソコンを用意してもらい、彼の指示どおりに資料画面を作る。忙しい麗しの君はあまり自席にいないが、それでもなかなかに幸せだった。


 彼が不在の間に言われた仕事を仕上げ、ご帰還時に出来たものを提示すると、「うん、いいねえ、完璧。助かるよお」と、実に麗しい笑顔が返ってくる。いやもう、まさに至福の時。

 もちろん先方は、私が新人と分かっていてお世辞を言っているだけなのだが、ご奉公初日から浮かれまくりの私にとっては昇天もののお言葉だ。


 その日に承った作業を終え本来の所属部署に戻っても、としたまま、まるで自分の仕事は手に付かない。不純度マックスの新人は、心の切り替えが不得意なのだ。



 麗しの君ご本人は、私が熱烈にお慕い申し上げていることなど全く気付いていなかったようだが、彼のボスは何かを察していたらしい。


 ある日、奉公先で作業していると、そのボスがしたり顔で私のところに歩み寄ってきた。


「あいつ、なかなかイイ男だろ?」


 いきなりそんなことを言って私を見、それから、麗しの君の机を見やる。机の主は会議か何かで相変わらず不在だったが、本心をズバリ言い当てられた私のほうは、うっかり「うひゃあ」という表情を浮かべてしまった。

 すると、ボスはニヤリとほくそ笑んだ。


「子供の頃はバイオリンかなんか習ってたらしいぞ。あれでも、お坊ちゃん育ちなんだ」


 バイオリンとはスゴすぎる。もう貴公子レベルじゃないか! 完全にデレデレ顔になっちまいますよ。えっへっへっへ。


 毎日、不気味な笑いを隠しつつ、せっせとご奉公申し上げた結果、予定通りの日程ですべての作業が終了した。

 嗚呼、ついにこの幸せな日々も終わるのか。明日から何を心の糧に生きていけばいいんだ。


 心密かに嘆いていると、麗しの君が思わぬことを言い出した。


「報告する時、オペレーターがいてくれると助かるんだけど、それもお願いできるかなあ?」


 彼が言う「オペレーター」とは、モニターを使ったプレゼンテーション時にパソコンに張り付いて画面表示を操作する要員のことである。

 実務者レベルの会議では、報告者が自らパソコンを操作しながら話すが、組織の上層部を対象とした堅苦しい報告の場では、オペレーターを別に用意するケースがほとんどだった。重鎮たちを前にしたプレゼンターが、パソコン操作に煩わされることなく、報告そのものに集中できるようにするためである。


 やります、やります! オペレーター役、やらせていただきますとも! だって、なんだか影で支える女房役みたいじゃないか。考えただけでヨダレもの……。


 私の直属の上司であるお節介おじさんは、当初オペレーターの話まではしていなかったのだが、そんなもんは事後報告ってことにしてしまえ。浮かれた新人はすでに暴走し始めている。


 麗しの君は、私の即答にまたもや麗しの笑顔を浮かべ、「一応、あなたの管理者にも断っておかないと」と言って、私の本来の所属部署に電話をかけた。


 話は一分もかからずに終わった。実のところ、麗しの君は私の上司より上位の立場にあったので、私の上司のほうは、めったなことではNOと言えないのである。

 すべては私の思うツボだ。へっへっへっへ。



 ところで、プレゼン時のオペレーターは、単にパソコンのキーボードをポチポチ押していればいいというものではない。どの画面をどのタイミングで表示するか、プレゼンターとオペレーターの間で綿密に打ち合わせする必要がある。二人の息がぴったり合わなければ、円滑なプレゼンなどあり得ないのだ。

 特に、質疑応答時には、討議内容に合わせて臨機応変に表示画像を選び、プレゼンターを助ける必要がある。


 それゆえに、リハーサルをしようということになった。


 やっと、麗しの君と一緒にお仕事する機会が巡ってきましたぜ。これまでは「彼がいない間に仕上げておく」という状況ばかりだったが、今回は実に濃厚だ。

 いやあ、ドキドキいたしまする。


 そんな私に、麗しの君は「こういうの、初めて?」などと人懐っこい感じで聞いてくるではないか。


「はいっ。初めてで緊張しますっ」

「今日はただのリハーサルだよ」


 麗しの君は麗しく笑い、プレゼン会場となる大きな会議室に入っていく。私もそれに続き、機材の準備をし、暗幕を閉め、部屋の照明を消す。


 うほっ。暗がりの中、麗しの君と二人っきりになっちまいましたよ。何たる事態! いっひっひっひ。


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