マティーニは掟の天敵(3)
しつこいようだが、マティーニのアルコール度数は四十度ほどもある。初めて飲んだ時は、幸いにもバーにいる間に酔いが覚めてくれたが、毎回必ずそうであろうと確信することはできなかった。
いつか、自分の掟を破る事態に陥るのではないだろうか。「ほろ酔い」経験が多くなるにつれ、そういうことが気になりだした。
心配ならマティーニを飲まなければよいのだが、そうはいかないところが酒飲みの悲しい性である。
私は、二つ目の「家にたどり着くまでは、決して粗相するなかれ」という掟を掲げた時に考えついたことを思い出した。
その日に飲むアルコールの総量を意識すればいいのだった。今日はマティーニを飲もう、と決めた日は、食事の時から飲酒そのものを控えめにしていればいいのだ。一緒にいる友人たちがワインだの日本酒だので乾杯している時も、一人寂しく薄いサワーで我慢して、後のマティーニに備えればいいのだ。
この作戦は実にうまくいった。幸い、ジンは私の体質には合っていたようで、飲んだ翌朝に頭痛がすることもなかったし、マティーニ一杯分だけのアルコールなら、帰り道に自分自身が制御不能になることもなかった。
やはり、心構えと緊張感さえ持っていれば、どんな酒でも楽しくたしなむことができる。
人生最大の難問をひとつクリアした気分になった私は、すっかり自信をつけた。
ところが、ある時「想定外」の事態が起こった。
久しぶりに会った旧友と食事に出かけたその日は、ボージョレ・ヌーボーの解禁日直後の土曜日だった。当然、飲み物はワインである。
ボトルで注文して余ったら持ち帰りOK、という店だったので、ボトル一本頼んだのだが、これがなかなか飲みやすく、女二人で全部飲んでしまった。
その年出来たてのワインを堪能した私と友人は、夜の街を少し歩いて酔い覚ましをし、尽きぬ話の続きをしようと、近くのバーに入った。
二十階ほどのビルの最上階にあるそのバーは、大きな窓から美しい夜景が良く見えるホテルバーだった。照明はかなり落とされていて、各テーブルの上に置かれたキャンドルが暗闇にふわりと浮いているかのように見える。
目が慣れてくると、背広姿の客が多いことに気がついた。ゆったりとした音楽がほのかに流れる中、皆、静かに飲んでいる。
なんともシックな雰囲気だ。こういう空間には、マティーニこそが相応しい……。
いやいや、今日はボージョレ・ヌーボーをボトル半分は飲んでしまっている。マティーニは無理だ。次にしよう。
と思うものの、やはり、この素敵なバーで、マティーニの凛とした立ち姿を拝みたい。バーには頻繁に来られるわけではないし、「次回」はいつになるか分からないし。
いやいやいや、そういう「今日だけ」というのがダメなんだ。油断は失態の母、というじゃないか。しかし、飲みたいなあ。
私がカクテルメニューを片手にぐるぐる考えていると、女性の店員さんがオーダーを取りに来た。
友人は、「カシスソーダを、アルコール薄めで」と言った。
そうか! そのテがあったんだ。薄くしてもらえばいいんじゃないか。私は小躍りせんばかりに嬉しくなった。
「マティーニを薄めでお願いします」
「かしこまりました」
女性店員は笑顔で立ち去った。そして、二十秒ほどして戻ってきた。
「あのう、マティーニはお酒同士のカクテルなので、『薄める』というのは、できないのですが……」
そ、そうだっけ? マティーニって、ジンとベルモットと……、そういえばそれだけだった。
ベースとなるジンのアルコール度数は、種類にもよるが、だいたい四十度超、ベルモットのほうは十八度である。ジンとベルモットの比率は、標準レシピでは五対一。後者のほうを減らしていくと「ドライ・マティーニ」という別のカクテルになるのだが、その反対というのはあまり聞いたことがない。
そもそも、水割りやソーダ割りのような感覚で濃度を調節するカクテルではないのだ。
固まったまま見つめ合う私と女性店員の脇で、ボージョレ・ヌーボーが抜けきらない友人はぎいぎいと怒り出した。
「なんて恥ずかしい奴なんだ! 私より酒飲みなら、今しっかり飲んで覚えとけっ!」
彼女は、私が何か言う前に勝手にマティーニを注文すると、お通し代わりにテーブルに置かれた小粒のキスチョコをバリバリと食べ始めた。
しっかり飲めと言われてもなあ。しっかり飲んだら、家まで無事に帰れないような気がする。
不安感を覚えた途端、ワインで摂取したアルコール分は一気に体外に飛んでしまった。
薄暗い店内で私が青ざめていると、先ほどの女性店員が「薄めのカシスソーダ」と「普通のマティーニ」を持ってきた。さらに、お冷を二つテーブルの上に置いた。
あれ、水は頼んでないけど……。なんとなく、店の入り口に近い所にあるカウンターのほうを見やった。
二人のバーテンダーが揃って私に背を向けてシェイカーを振っていた。
規則正しいその音が、「あ、の、きゃ、く、ア、ホ、や~」と、言っているように聞こえた。
おっしゃるとおり、間違いなくアホだ。「マティーニを薄めで」と頼む珍客は、この店始まって以来、いや、マティーニ史上、たぶん初めてだ。
酔っぱらいは早く帰れ。お冷はそういう意味に違いない。
私は、可能な限り急いで強烈なカクテルをいただくと、薄いカシスソーダをちびちび飲む友人を急き立て、早々に店を出た。
幸い、帰り道に二番目の掟を破る事態には至らなかったが、電車の中で派手に寝過ごし、その日の飲み代とほぼ同額のタクシー代を支払う羽目になった。
「薄いマティーニ」事案の後、美しい夜景が見えるその店には、恥ずかしくて顔を出せないでいる。
同席していた旧友とは未だに「ボージョレ・ヌーボーの仲」であるが、彼女は事あるごとに「今日はマティーニを飲むのか」とニヤニヤしながら聞いてくるので、飲みづらいことこの上ない。
一人静かに、しかも安全に、あのカクテルを楽しむ方法はないものか。
長年悩んだ末に、ついにひとつの解答にたどり着いた。味は落ちるが、自宅で自分で作ってしまえばいいのである。
自分の家で飲んでいれば、危うい状態になっても、そのままお布団にダイブしてしまえばいい。
そんなわけで、現在「カクテル作り」に挑戦中である。まだ初めたばかりなので、市販のカクテル本を見ながらぼちぼち研究中、という状態だが、バーで見かけたことのある酒瓶が自分の家の中にひとつ、またひとつ、と増えていくのを眺めるのは、なかなか幸せなものである。
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