マティーニは掟の天敵(2)
高校時代からの付き合いだった友人は、フリーターとして働いていたのだが、その仕事は継続したまま、毎週金曜と土曜の夜だけ、都内の小さなバーのカウンターに立つようになった。
「未経験OK週二OK」という好条件の募集だったという話を彼女から聞いた時は、その店はバーというよりいかがわしい店なのではないかと心配になり、早速、別の旧友と共に現場を偵察しに行った。
件のバーは、都会のターミナル駅から数駅ほど離れた静かな街の、小さなビルの地下一階にあった。
店員に知り合いでもいなければ入りにくそうな印象のドアを開け、中を覗くと、エキセントリックなライトの中に、猥雑な男たちの会話と露出度の高い服を着た女たちの嬌声が……、ということはなく、小ぢんまりとした静かなバーの中で、白黒モノトーンのバーテンダーの服を着た友人がすまし顔で働いていた。
バーのオーナーは、自分の店が入っているビルそのものも所有しているという金持ちで、酒好きが高じてバー経営を始めたという「趣味人」だった。そのせいなのか、マスターも数人いる他の店員も皆、実にのんきな雰囲気だった。
経験のない友人が「週二」などというお気楽な勤務形態を許されたのも、なんとなく納得がいった。
ただし、業界初心者である友人は、当然ながら初めからカクテルを作らせてもらえるわけではない。
「バーテンダーとしての出番がなかなかない」と彼女がこっそりこぼすので、私と連れは、「彼女の『練習台』になりたい」とマスターに申し出てみた。小柄な彼は、優しそうな笑顔ですんなりOKしてくれた。
あまりアルコールが強くない連れは、何か炭酸で割ったものを注文していたようだった。
私がカクテルメニューとにらめっこしていると、バーテンダーの友人が「マティーニを頼んでくれ」と言い出した。なんでも、そのカクテルを作るのが彼女の夢らしい。
しかし、その当時は、甘いドイツワインから徐々に辛口のフランスワインへと好みが移行しつつあったとはいえ、ジンなんて全く飲みつけない。それに、四十度の酒をストレートの状態で飲んだ経験もなかった。
それでも、付き合いの長い友人は引き下がらない。
「あんたなら大丈夫。というか、あんたぐらいしか、頼める人いないんだよ。マティーニを飲ませて平気そうなのは、他に心当たりないし」
なんだかひどい言われようだが、頼りにされて悪い気はしない。私は彼女の夢を叶えることにした。
しばらくして、バーテンダーの友人が満面の笑顔で出してきたのは、ドラマのワンシーンに出てくるようなお洒落な風情の飲み物だった。華奢なカクテルグラスの中は無色透明の液体で満たされ、それが照明の光を反射して美しく輝いている。底には、銀色のピンに貫かれたオリーブがひとつ。
これが問題の「マティーニ」というやつか。確かに、カッコイイ。
しかし、私としては、まずオリーブが気になる。これは食べていいんだろうか。パフェのさくらんぼみたいに、食べるか否かで論争になっているものなのだろうか。
つまらぬことを考えつつ、一口飲んで、驚いた。
何だこれ、薬みたい。この味が世間一般では「美味しい」のか。それとも、バーテンダー初心者の作ったマティーニだから、ホンモノとは似ても似つかぬ味ということなのか。
実にリアクションに困る事態だ。
四十度のお酒をカパっと空けるわけにもいかず、少しずつ飲んでいたら、徐々に喉が焼け付くような刺激にも慣れ、ほのかな甘みすら感じてきた。これはこれで有りかもしれない。
そんなことを思いながら、いつの間にかグラスを空けてしまった。
うわあ、身体がほんわかする。これが「ほろ酔い」というやつなのか。悪くない感覚だ。
実は、「酔い」をはっきりと自覚したのは、この時が初めてだった。
先も書いたが、私は体内にアルコールが入り過ぎる前にお腹がいっぱいになって飲めなくなってしまうタイプなので、なかなか「酔いが回る」という状態にはならない。おまけに、常に二つの掟に従い、用心深く飲んでいる。身体的にも心理的にも、めったに「一線」を越えられないのだ。
しかし、マティーニは、いとも簡単に、私を「酔いの境地」へと到達させてくれた。
アルコールに「酔う」とは、理由もなく幸せな気持ちになることだったのか。スイーツを食べた時の幸福感とはまた違う、何かしっとりとした感覚だ。グラスに口をつけるだけで、心も体もほんわりと温かくなる。
バーテンダーと連れ、この旧友二人との会話も、ますます私の多幸感を増大させていく……。
彼女らとひとしきり話し終えた頃、マティーニの酔いも静かに去っていった。
私は非常にすっきりした気分で帰路についた。バーテンダーの友人には悪いが、今度は経験豊かなプロが作ったホンモノを飲んでみたいなあ、と思いながら。
すっかりマティーニにハマった私は、時々、友人の勤めるバーに遊びに行っては、この強いカクテルを頼み、「ほろ酔い気分」を楽しんだ。
彼女が転職して日本を離れてからは、国内に残る旧友たちと飲む機会があるたびに、本物のプロが作るマティーニを求めるようになった。
会えなくなってしまったバーテンダーの友人を思い出しながらの一杯。しかしそれは、掟破りにつながる危険行為のひとつでもあった。
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