第4話 マティーニは掟の天敵
マティーニは掟の天敵(1)
お酒もお酒の席も大好きな人間であるが、好きであるがゆえに、私は以下のとおり、己に二つの「掟」を課している。
一、 飲んだ次の日は、這ってでも任務を果たすべし
一、 家にたどり着くまでは、決して粗相するなかれ
別に大きな紙にデカデカと筆で書いて大仰な額に入れて自宅の部屋に飾っているわけではないが、この二文は、楽しくアルコールをいただくための基本姿勢として、常日頃から意識している。
最初の掟は、実家の家訓でもある。いくら飲んでも顔色が変わらない父親は、長年この掟を守ってきた。そして、私が家の外でお酒をいただく年齢になった時に、その掟のことを話してくれた。
二日酔いで学業や仕事を休むことがあってはならない。
アルコールは自制しながら楽しまなくてはならない。
常々、酒に関してだけは父のようにありたいと思っていた私は、迷うことなくこの掟に従うことにした。
しかし、恥ずかしながら、過去に二回だけ掟を守れなかったことがある。
職場の面々と共に、とあるダイニングバーに行き、そこで初めてテキーラベースのカクテルを飲んだのだが、なぜか翌日ひどい頭痛に襲われた。飲む量は普段と同程度であったし、終電よりはるかに早い時間に帰宅した。仕事を休むほど具合が悪くなった理由が分からず、後に再びテキーラ系を飲んで全く同じ失敗をした。
自分はテキーラと合わない体質らしい、と思い至ってからは、テキーラとは無縁の人生を送っている。酒飲みに三度目の掟破りは許されないのだ。
二番目の掟は、職場での雑談から生まれたものである。
私の所属していた部署に十歳ほど年上の先輩がいたのだが、とある日の昼休み、いつもは物静かな彼が、弁当を食べながら「昨日、ちょっと嫌なことがあって」と仏頂面で話し出した。前日飲んだ帰り道に電車の中でヒドイ酔っぱらいを目撃した、と言うのである。
たまたま自席で昼食を取っていた五、六人の面々が彼の聞き役になった。
「別に被害があったわけじゃないんだけど、もう、ホント頭きて……」
「暴れてたんすか?」
別の人間に問われ、彼はぶんぶんと頭を振った。
「女の人だったんだけど、ヨロヨロして乗ってきたなあと思ったら、発車したとたんにドアのトコでゲロ吐いたんだよ。わざわざ電車に乗ってから吐かなくてもいいと思わねえ? 臭いし汚ないし、もう信じられんわ!」
あのう、食事中にそういう話をするあなたが信じられないんですが。
「んで、同じドアの所に男の人が立ってたんだけど、逃げるのかなと思ったらそうでもなくて、ただ、読んでた新聞を一枚、こう、はらりと落とすわけ」
周囲に構わず不快な話を続ける先輩は、広げた新聞を両手で持つジェスチャーをし、さらに右手だけを動かしてその時の光景を再現した。
「そしたら、その新聞が上手くゲロの上に乗っかるんだよ。男の方は無言でまた新聞を読み始めてさ……。それがなんだか格好良くって」
ふむ。確かに、小説の一場面のように洗練された対応ですな。
「いやあ、僕もあの男の人のように気配りのできる人間になりたいと思ってねえ」
なんだ、汚いけどちょっといい話じゃないか。
しかしその直後、先輩は険しい顔で喚き散らした。
「それなのにさ! ゲロ女が! 電車降りるときにその新聞踏んづけてズッコケたんだよ! 自分のゲロで滑ってんだよ! せっかくの彼の配慮は何だったんだ!」
ちゃぶ台ならぬ執務机をひっくり返さんばかりの勢いで憤る先輩は見ていて面白かったが、彼の話自体は、私にとっては相当な衝撃だった。この世の中、そんな無様なことが本当に起こりうるとは。
自分のゲロを踏んづけて転ぶ人間を直に見たら、私はショックのあまり、その時の様子を四コマ漫画にして「終電の光景」というタイトルでもつけてどこかに投稿してしまうだろう。
いやいや、自分が投稿する側ならいいが、ネタを提供する立場には決してなりたくない。
家に帰るまで絶対に「粗相」があってはならない、と決意した。そして、おぞましい失態を確実に回避するにはどうしたら良いか、と真面目に考えた。
しばしの熟考の後に得た結論は、飲み始めてからお開きまでに飲むアルコールの総量を意識していれば大丈夫だろう、ということだった。
ビールのように弱い酒ばかりが出てくる席なら、見かけの量は増えても、さほど問題ではない。逆に、ワインでスタートするような会合では、出だしからペース配分に留意しながら飲む必要がある。二次会に出る予定なら、その分も考慮に入れて一次会に臨まなければならない。
幸い、私の身体は、小振りな外見の割には、酒に対するキャパは大きい。体内のアルコール濃度が限界値に達する前に胃袋のほうが一杯になってしまうので、めったなことで「飲み過ぎ」にはならないのだ。
自ら作ったこの掟を守るのは、極めて容易なはずだ。
……と思っていた。しかし、掟破りを誘発しかねない危険な酒が現れた。それがマティーニである。
マティーニは、無色透明な蒸留酒ジンをベースに、ベルモットというフレーバードワインの一種(白ワインを薬草類で風味付けしたもの)を加えて混ぜ合わせ、最後にスタッフドオリーブをグラスの底に沈めるだけ、というシンプルなカクテルである。
レシピがシンプルであるがゆえに、実はバリエーションが非常に豊富で、「カクテルの王様」と評されるほどに奥深い世界があるらしい。
しかし、そんなうんちくなど聞かずとも、ボウルが逆三角の形をした典型的なカクテルグラスで供されるこの飲み物は、見た目も極めて洗練されたイメージで、バー初心者の私などは、その姿を見ただけで雰囲気に酔ってしまう。
実際、マティーニは辛口な上にとにかく強い。アルコール度数が四十度ほどもあるのだ。小さなカクテルグラス一杯でも、その威力は強烈だ。
そんな恐ろしいカクテルを飲むきっかけを私にもたらしたのは、社会人になって数年してから突然バーテンダーを志した友人だった。
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