素直になあれ
久遠ひろ
プロローグ
二○○九年、七月。
ノストラダムスの予言から10年遅れで「恐怖の大王」が降臨した。
地上に舞い降りた、後に「天使」と「悪夢」と呼ばれるようになる恐怖の大王両名は、その存在によって全世界を混沌の渦へと陥れた。
――それから時は流れ、2016年、夏。
七年前、驚天動地の大混乱に見舞われた世界は……しかし、さほど変わりばえしていなかった。
通勤ラッシュに揉まれて苦しむサラリーマンも、
商店街で献立を考えながら買い物をする専業主婦も、
ブランコで勢いをつけてジャンプの飛距離を競う小学生も、
日が暮れるまでファミレスでおしゃべりする学生も、
すべてが以前と変わらないありきたりな風景だった。
ただひとつ。
風景に溶け込んでいる異邦人の数が、ほんのちょっとだけ増えたことを除けば。
※ ※ ※
「うわ、もうこんな時間か」
夕闇迫る黄昏時の繁華街を、リュックサックを背負った少年が足早に通り過ぎて行く。
「まいったな。今日は九時から見たいアニメがあるのに」
都内にある某電気街から帰宅途中の彼は、地上波初放送となるアニメ映画を見逃すまいと早歩きで夜道を進んでいた。
自他共に認めるアニメオタクの彼は、アニメの放送時間が近づくと、たとえ録画予約がしてあっても「ちゃんとテレビの前にいなければ!」という使命感に襲われてしまうのだ。
「急げ急げ」
少年は近道をするべく、人通りの多い賑やかな繁華街から、人通りの少ない路地裏へと入り込む。
明るい大通りから逸れたせいか、いきなり辺りが薄暗くなって、それまで気にもしていなかった星空が少年の目に飛び込んできた。
雲ひとつない星空に、銀色の満月が輝いている。
真円の月を横切るように、赤い光点がゆっくりと移動しているのが見て取れた。
「そっか。今日は金曜日か」
いつもはその日見るアニメ番組で今日が何曜日か判断する彼が、珍しく町の風景から曜日を意識する。
それほどまでに、月を横切る赤い光は、人々にとって馴染み深い風景となっているのだ。
「あれ?」
夜空を見上げていた少年が、前方に人影を発見して思わず足を止める。
暗い路地で彼と同様に空を見上げていたのは、夜目にも美しい女性だった。
例えるなら、それは純白。
月のように白い肌。白のブラウスに、白のロングスカート。首に巻いたチョーカーと背中まで届く長髪は夜と同じ黒色だが、それすらも彼女の白さを引き立てる要素になっている。
スレンダーと形容すべき細身の体と、小柄な頭。長い髪を自然な手つきで掻き上げれば、少年の目に映ったのは神が配置したような均整の取れた目鼻だち。百人いれば百人が「美人だ」と答えるであろう可憐な女性が、暗い夜道で一人ぽつんと夜空を見上げていた。
「?」
気配に気づいたのか、自然な所作で美女が少年を振り返る。
暗い夜の細道で、まったく面識のない男と女の目が合った。
あ、ども。
美人に見つめられて、少年は曖昧な半笑いで会釈をしてしまう。
そんな彼の挨拶に、なぜか顔を強張らせる彼女。と思うや否や、すぐさま背を向けて、すたすたと歩き始めてしまった。
(そうだ。美人に見とれている場合じゃない。僕も早く帰らないと)
己の使命(今日のアニメ映画をSNSでリアルタイム実況)を思い出した少年は、彼女の後に続いて歩き出す。
「ひっ」
前方からしゃくりあげるような、悲鳴のなり損ないのような声が聞こえてきた。
その声は、どうやら前を歩く美女が発したものらしい。見れば、彼女は歩きながらチラチラと何度も背後を振り返っていた。
時折見える横顔はやけに切羽詰まっているように見えるが、いったい彼女は何に怯えているのか。少年には皆目見当もつかない。
とはいえ、今は名も知らぬ女性を気に懸けている場合ではない。
動揺する彼女をさして気にも留めず、少年は己の目的を果たすべく夜道をずんずんと突き進む。それを見た彼女がまたしても「ひっ」と声をあげ、
「きゃっ!」
足がもつれて、前を歩いていた美女は豪快にすっ転んだ。
「びたん」という音が聞こえそうな勢いで倒れる様を目撃して、少年は心配のあまり駆け寄ってしまう。
「あの、大丈夫ですか? ケガは……」
「いやーっ! こないでくださいっ!」
ぶんぶんぶん。地面に尻餅をついたまま、美女がハンドバックを振り回して威嚇する。
「近づかないでくださいっ、この変態! ストーカー!」
「ストーカー?」
どうやら彼女は、タチの悪い変態ストーカーにつきまとわれているらしい。そう理解した少年は、ストーカーの姿を確認するべく背後を振り返った。
……背後には誰もいなかった。
「いやーっ! 誰か助けて! 変態! 痴漢!」
「え? 待って。ここには僕以外、誰もいないんだけど」
念のため確認する少年だが、聞く耳も持っていない彼女はひたすらハンドバックを振り回すばかり。
少年は悩む。えーと、えーと……これってどういうこと?
「おい! そこで何してる!」
いきなり野太い声が聞こえてきて、少年は「はあ?」と間の抜けた声をあげてしまった。
と同時に何者かに左手首を捕まれ、ものすごい力でねじりあげられてしまう。
「いてててて! な、なに?」
「往来の真ん中で痴漢とはいい度胸だ! このまま警察に突きだしてやる!」
「は? 痴漢?」
事ここに至って、ようやく少年は理解した。完全に手遅れなような気がしなくもないが、とにかく彼は理解してしまった。
自分がストーカーと間違われていることに。
「ま、待って。僕は痴漢じゃない。僕はただ今日のテレビに期待してニヤニヤしたり小声でブツブツ独り言を言ったりしながら、前を行く彼女の後を追いかけるように人通りのない暗い夜道を早歩きで歩いてただけだよ!」
「そんな取ってつけたような嘘で騙されると思うか!」
かなり正確に状況を説明しているにも関わらず、通りすがりの正義漢は少年の言い分をまったく信じようとしなかった。
(まずいよ! 今警察に捕まったりしたら、確実にアニメの放送開始時間に間に合わない!)
警察に捕まることよりも、今日のアニメの心配をする少年。オタクの鑑である。
(それに、捕まったらリュックの中身とか調べられるよね? いや、別にやましいことは何もないんだけど、やっぱり美少女アニメのDVDとかちょっとHな同人誌とかが出てきたら余計に疑われること間違いなしだよね!)
よりにもよって某電気街で大量の戦利品を入手した帰りの少年である。
自分の趣味が世間的に理解されにくい類のものだと自覚している彼は、このまま逮捕されてなるものかと見苦しくあがき始めた。
そうして暴れているうちに、少年は自分の腕をねじりあげている善意の男性の全身像を目撃する。
会社帰りなのだろう。男は白いワイシャツに大きな結び目の黒いネクタイを巻き付け、折り目正しい紺のスーツ上下をきっちりと着こなしていた。
そんな見るからにサラリーマン風な彼の肌の色は、緑。
額に角らしき突起物をつけた体長二メートルはあろう単眼の巨漢は、地球人の数倍もの筋力が自慢という「サイクロプス」と呼ばれる宇宙人だった。
少年は抵抗するのをやめた。
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