第9話 欲求

自分の車で教習所へ通えてしまうと

無意識のうちに

あの人に早く逢いたくなってしまって、

予約時間よりも随分前に着いてしまうんだ。


全然遅刻なんかしていないのに、

教習所へ向かう途中で

信号待ちなんかしてしまうと、

あの人が青になった歩行者信号を

さっさと渡って

どこかに居なくなってしまう気がした。




初心者マークの貼りついたこの車は

教習所では目立ってしまうから、

あの人も私が車を買ったことにすぐ気づいてくれた。


あんなに内緒で何度も練習したくせに

相変わらず駐車に手こずっている私は、

到着した時も

帰る時も

回りに指導員が集まって来てくれて、

大きな声で誘導なんかしてくれた。



せめてあの人の前では

スイスイと乗りこなしたかったのに、

いつものようにモタモタしている私は

すぐに指導員に見つかってしまう。


あの人がドアガラス越しに見えると

ただでさえ言うことを聞いてくれないハンドルが、

私の心みたいに

より一層狂ってしまうんだ。



あの人は指導員に誘導されながら

車をバックさせている私が、

どの辺までバックすればいいのか分からないでいると、

「思いきって後ろ下がって大丈夫ですよ」


指導員っぽく言ったかと思うと、

「もう後に居る指導員、轢いちゃってもいいですよ」


今度はお茶目な冗談を口にして

ふわっとはにかんで笑ってくれた。


去り際に照れた笑顔で軽く会釈すると、

あの人もドアガラス越しに真似をしてくれたんだ。


それだけで心が浮き立っちゃて、

暗い帰り道に並ぶ車のバックライトは

夏夜の星空みたいにキラキラしてた。




最後の時間の教習が終わって、

駐車場に停めてある車を

なかなか発進させることが出来ないのは、

車を独りで出せないからじゃなくって、

指導員が集まって来るのが恥ずかしいからじゃなくって、

ギリギリまであの人を見ていたかったから。


バックミラーに映るあの人が見えなくなるまで、

もったいなくってエンジンなんか入れられないよ。




教習所なんかで出逢ってしまったから、

この時間も

このトキメキも

限りあるものだなんて

最初から分かっていた。


だからこそ、

心のどこかで

この恋の終わりを求めていたはずなのに、

この過ぎ去る夏のように

あの人にもう逢えなくなってしまうのが

なんだか急にたまらなく寂しくなってしまったんだ。



もうすぐそこまで秋の気配が訪れていた。

大好きな夏をより一層大好きにしてくれた人。

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