第5話 無責任な至福
心なんていとも単純で、
あの人への恋を認めてしまった私は、
誰に遠慮することもなく
呆れるくらい素直になれたんだ。
ふと足元を見つめると、
永く繰り返される日常と愛情の渦に
彼氏への真誠と
僅かな責任を持つ私は、
ほんの短いこのひとときに、
求めるものも
願うことも
欲しいものも
何にも持ち合わせていなかった。
この刹那の恋には
何の責任も負う必要なんてなかったから、
無責任なほどに幸せだった。
ここは教習所という
おとぎ話の夢の国みたいな空間だったから、
遠くから見つめる度に
近くで目が合う度に
幸せが増えていく不思議な世界だった。
あの人を意識し出せばするほど
当たらないもどかしさと、
久しぶりに当たった偶然は、
路上での教習も半ばにさしかかった頃だった。
教習番号を呼ばれ、
ふと顔を見上げると
少し離れてあの人が立っていた。
思わずこぼれ落ちる満面の笑みを隠しながら
あの人の教習車に乗った。
初めてあの人と行く路上だったから、
この時だけは夢の国が少しだけ広くなった。
いつもの通り会話は少なめだったけど、
道路の真ん中を走れない私に
あの人はアドバイスをくれた。
「左と右の道路の白線を交互に見ながら走るとよいですよ」
せっかくアドバイスしてくれたのに、
道路前方とすぐ横に座るあの人を
交互にチラチラ見てしまう私だったから、
真っ直ぐなんて走れる訳はなかった。
夢の国は時間が過ぎるのが早いから
あっという間に教習所に戻って来てしまった。
「今日は安定して運転出来てたと思いますよ」
こんな私の運転を見守っていてくれたんだ。
あの人の教習車を降りる直前になって、
なんだかもう最後かもしれない胸騒ぎがして、
それを予感してか、
あの人の下の名前を
知っておかないといけない気がして、
それとなく制服の胸に下げられた名札を覗いた。
これがあの人との最後の教習時間で
この日初めてあの人のフルネームを知った。
この頃には、
朝型の私はすっかり夕型になっていた。
最後の時間の教習ばかり予約するのは
日焼けが気になるからじゃなくって、
暑さを回避しているからじゃなくって、
いつも乗る最終の送迎バスを
あの人が運転してくれるから。
この頃には、
メガネをコンタクトに変えていた。
この頃には、
もうすっかり夏が訪れていた。
恋の始まりはこんなにも甘くて
大好きな夏の下で
より一層甘くとろけてた。
そんな私に夏の日差しをいっぱい浴びさせてくれた人。
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