一日目(後):悪魔の生態などに関するアガレスの講釈
「それにしても落ち着き払っておられる。たとえ安全な夢の中とは言え、悪魔を前にしてこうも平然と話ができる人間はあまりいませんよ。しかもたった今ご自分の破滅を宣言されたというのに」
「怯え震えて乞い願えば破滅から逃れられるというのなら、いくらでも浅ましい振る舞いをしてみせますが」
「あいにくそういうわけにもいきません」
悪魔について学ぶ際、アガレスの名は極めて早い段階で教わることとなる。それほどの存在が、獲物の嘆願や小芝居ごときで己の行動を変えるとは思えなかった。
「それに、心は今日の午後よりすでに、千々に乱れております。城壁や王宮が破壊され、多くの人が傷つきました」
ロビン。
魔王を名乗る者に果敢にも斬りかかって、強烈な魔力で壁まで吹き飛ばされたロビンは、どうなったことだろう。
近衛兵に取り立てられて日が浅い彼は、剣の腕前なら近衛の中でもすでに一、二を争うのだが、城内での作法についてはまだ勉強不足なところがあり、家柄のおかげで素早く出世したような者どもにたびたび嘲られていた。
なのに生真面目に穏やかに勤め上げるばかりの彼がいじましくて、今朝、わたしは思わず彼らの只中で言ってしまったものだった。
――六代前のジェイコブ王は庶民の出ながら剣術に秀でて王女の危難を救い、近衛の職位から王になったとか。皆の者も何よりまず職務に励まれるように。
普段ロビンをいじめている者たちの唖然とする顔を見たくて口にした言葉だったが……あの言葉がロビンに余計な傷を負わせる原因になったのではないかと、わたしは不安におののいていた。
最悪の想像が口から飛び出してしまう。
「中には命を落とした方もおられることでしょう」
アガレスはわたしの問いに対して沈黙で回答した。
「繰り返しになりますが、なぜ力強き悪魔アガレスともあろう者が、あのような粗暴で愚かな人間を手先としているのですか? 願いが単にわたしの破滅一つであるならば、わたしだけを狙えばよかったものを!」
アガレスは、眉根を寄せる。まるで困った人間と同じように。
「そうしたいのは山々ながら、問題がいくつかございます。まず、このエルスバーグは口うるさいアモンのテリトリーでして、そこへわたくしがのこのこ現れて一暴れした暁にはしきたりがどうの礼儀がどうのといった揉め事になるのは必定なわけです。他にもこの近くにはベリアルとかグラシャラボラスとかどうにも面倒な輩が多いし」
何やら、わが一家の親戚づきあいにも似ている話。そういう問題では人も魔族も変わらないということなのだろうか。
「さらに、わたくしが直接貴女様に危害を加えるてなことになると、エルスバーグおよび周辺国が傾きます」
「……それはどういう意味ですか?」
「この近郷がなかなか微妙な力関係でバランスを取っていることはご存知でやんしょ?」
なぜか道化芝居の三下のような口調になる。妖艶な美女の姿にはふさわしくない。
「そのど真ん中に位置するエルスバーグが突然悪魔アガレスの襲来を受けて王女をさらわれたなんてことを知ったら、周りの国が疑心暗鬼にも囚われるし色々企み出すものでしてね。エルスバーグの国内も動揺しまくればあっという間に西部大陸大戦争の始まり始まりってなもんでげす」
「……それは、魔族の望むところではないのですか? 死と破壊こそが悪魔の本懐というものでは?」
わたしが口を挟むと、アガレスは悲しげに首を振った。
「人間の皆さんはどうにも誤解なさっておられる。もっとも、昔の我々の行為に原因があるのですからこれも自業自得というものですが」
台詞だけ抜き出すとなかなか悲痛だが、言い方が安っぽい役者めいていて、説得力は微塵も感じられなかった。
「魔族は、生物の精神活動を喰らいます。人間が他の動物や植物を喰らうように」
「精神活動、ですか。喜怒哀楽などの?」
「はいその通り。生物ですから植物や他の動物からも摂取できないことはないのですが、心穏やかな植物や知性に乏しい動物の精神という奴は、あまりコクや深みといったものがないわけですよ」
口調はふざけているが、わたしには初耳の話だった。
「喜怒哀楽を食べられた人間は死ぬのですか?」
「いえいえ、そんなことはござんせんよ。人が焚き火にあたって暖を取っても火が消えるわけじゃないのと似たようなもので、わたくしどもは横から皆様のおこぼれにあずかっているに過ぎません」
「ですが……」
それならどうして、魔族と死や破壊がこうも密接に結びついているのだろう?
「ただですね、とりわけ美味なのが死ぬ直前の感情の爆発でして」
「!」
「苦痛とか悲哀とか後悔とか激情とか絶望とか、そういうものは思い出すだけでもよだれが垂れるくらいおいしくてですね、なのでわたくしどもは昔はそりゃあ乱獲しまくったわけでございます」
「…………」
「ただ、人間たちが植物や動物を採取狩猟するよりも栽培や育成で安定した収穫を目指すほうが得だと気づいたように、我々も次第に変わっているところでして。今時の悪魔という奴は、人の世の大規模な混乱など、頭の悪い下等な連中を除けばもはや誰も望んでおりません。一瞬の快楽に身を委ねても、また人が増え始めるまでの長い期間は餓えに喘ぐことになるわけですからねえ」
「…………」
アガレスの言い分は、それなりに筋が通っているようにも思われた。
「ですが――」
どの道、わたしがこうして囚われの身となった以上、戦乱は避けられないのではないだろうか?
そう続けようとしたわたしをアガレスの言葉が遮った。
「この件は、ほとんどの人間が納得の行く形で収拾をつける運びになっております。筋書きはすでに書き上げてありまして、後はその通りに役者が動いてくれればいいだけの話」
貴女はその「ほとんど」には入っていないのですけれどね、とアガレスは付け加えるように呟いた。その声音は妙にしんみりとしたものだった。
「様々な人の生き死にも、あなたたちにとっては芝居……あるいは駒遊びの一種というわけですか」
「否定はいたしません」
アガレスはわたしの批判を軽く受け流す。
もっとも、わたし自身王家の人間として、いずれはそうした駒遊びにじかに関わったかもしれないのだが。
「トム・ブラウン改めダークエンペラーは、駒としてはまさにうってつけなんですね、これが」
はしゃぐように悪魔は話題を転じた。
「死んだ父親の遺産で悠々自適を気取っていたのが怪しい事業に手を出したのが災いして今では食うや食わずの貧乏暮らし。そのくせ気位が高いせいで人に頭を下げて働くことに踏み出せない。しかも最近では母親に、近衛兵に取り立てられた年下の従兄弟と比べられて、鬱屈を抱えながら自堕落な生活を送っていたという典型的な穀潰しです。リネット王女のような若くて魅力的な女性と出会えないものかと考えながら、しかし外に出るでもなく妄想の中で日々遊んでいただけの屑です」
「でも、あなたがそそのかさなければ、こんな大それたことはしなかった」
「王女はお優しいですね。自分をさらった相手だというのに」
その声は、さっきと同じくどこかしみじみとした響きを伴っていた。
「王族たるもの、国民を気遣えなくなったらおしまいです。それが悪魔にたぶらかされた愚か者というのなら、なおさら」
もちろん建前に過ぎない。怒りや憎しみや恐怖の念を、あの自称魔王に対しては抱き続けている。しかしすべてを仕組んだ張本人の前でそんな感情を顕わにしても空しいだけだということは理解していた。
わたしが睨むように見つめると、アガレスは視線を逸らした。
「話を戻しますが、彼は多少の知識はあれど大した魔力を持ってはいなかった」
アガレスが語る言葉に思い出すのは、堅牢な城壁を難なく突き破り、ロビンをあっさりとなぎ払った、魔王を名乗る男の絶大な魔力。
「そこであなたは彼に、魔力を与えたというわけですか。あなたにとってはわずかな、けれど人の身には膨大なくらいの魔力を」
「いや、今も大した魔力じゃございません。彼が破裂しない限界一杯まで魔力を注ぎはしましたが、あれを倒せる人間は世界に二十人ぐらいはいるでしょうね」
「に、二十人?」
人の身であれに対抗できる者が二十人もいることが、むしろ信じられない。
「ええ。その辺もうってつけと評した理由です。悪魔アガレスに挑んで姫を救わんとするのは至難の業ですが、あのダークエンペラーに立ち向かうのはさほど困難な話でない」
「つまり彼は、征伐されるために力を与えられたわけですか」
「そういうことです。だからと言って貴女が憐れむ必要はないと、台本を書いた者としては助言しておきましょう」
「……あなたはさらに彼を操るわけですね」
「ええ。貴女を破滅に導くために。まあ、一つだけご安心を。貴女は彼に肉体的に汚されることはありません。彼奴にはわたくしがきつく言い聞かせておきますので」
「それも、戦乱を避けるための布石ですか?」
「よくおわかりで」
仮面のような笑みを浮かべると、アガレスは優雅に一礼して消え失せた。
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