アガレスは慈悲深く、なれど尊厳を破壊する

入河梨茶

一日目(前):悪魔アガレスは王女の破滅を気さくに語る

「リネット王女、ご機嫌麗しゅう。我が名はアガレス。変化の公爵」

 目の前にいる美しい女は、そう名乗ってわたしに笑いかけた。

 異形の存在だった。

 鰐の背に乗り、肩には鷹を止まらせている。緑の衣を身に纏い、片足を淫らにも剥き出しにしている。悪魔は、わたしが王宮で魔道師に教わった通りの姿をしていた。

 顔立ちには非の打ちどころなく、真っ当な装束で着飾れば、王室の舞踏会に現れても不思議でない気品を備えている。年の頃は兄上と同じくらい。二人を並べれば、似合いの美男美女と取り沙汰されてもおかしくなさそうである。

 なのにそこには何か、人を怖気立たせる瘴気のようなものが漂っていた。

 魔族の大立者アガレスともなれば、それも無理はない。戦いにおいては地震を起こすほどの強力な魔力を誇り、言葉を巧みに操っては人々の尊厳を破壊するという。

 なぜか慈悲深いという言い伝えもあるそうだが、悪魔の慈悲などまやかしに過ぎまい。

 恐怖に萎えそうになっている心を強いて奮い立たせ、常と変わらぬ態度を取ろうと努めた。王女たるもの、気品を失うことなどあってはならない。

「これは夢、ですね」

 わたしとアガレスを取り巻くのは無明の闇。踏みしめる大地も仰ぐべき天もない。今わたしが着ているのは、今日の式典用に誂えていたドレスだが、その後の騒動で埃や泥にまみれたはずのそれは、最初に袖を通した時と変わらない美しさを保っている。

「いかにも。いちいちそちらへ足を運ぶのは、ぶっちゃけ七面倒臭いので」

 終わりの方は俗な言葉過ぎて何を言っているのか定かでないが、言いたいことはおおむね理解した。

 悪魔はそれぞれが各々の領域からあまり遠くへ出ようとしない。それはもちろん人を警戒してのことではなく、悪魔同士の縄張り意識がひどく強いためであるという。ゆえに労を惜しんで夢の中で人に働きかけるのはよくあることだと、これも魔道師に教わったことがある。

 夢であれば、悪魔の魔力であってもさしたる効果を発揮しないとも聞いた。もとより王家の一員として無様に怯えるつもりはないが、なおのこと恐れる必要はない。

 そこで、わたしは魔族に問いかけた。

「今日の出来事は、あなたの仕業ですか」

「半分正解でございます。貴女様を連れ去りしは、当人がこっ恥ずかしい名乗りを上げた通りに、魔王ダークエンペラーことマールドラ町の三十四歳独身無職のトム・ブラウンでありまして、わたくしは彼奴に少々力を与えた上でいささかそそのかしたまでのこと」

 アガレスの語った内容は驚くべきことだった。

 わたしが暮らすエルスバーグの城に今日突如襲来し、わたしをさらってこの洞窟に監禁したあの魔王とやらは、実は単なる我が国の辺境の町の住民であり、この悪魔の手引きを受けたというのか。

「なぜそのようなことを?」

 悪魔は人の天敵であり、人を殺し傷つけ苦しめるのが生業のようなものである。しかし悪魔は人間以上に知性の高い種族でもあり、その行動には合理性があるはず。

 それが、わざわざ人間に魔力を与えて暴れさせるとはどういう了見なのか。破壊行為を働きたいのであれば直接動けば済むものを。

「さて、長くなりますが、ご静聴いただくといたしましょう」



「ものには順序がございます。まず手始めにはエルスバーグより遠く離れし大国ポートスパンの伯爵家ご令嬢オクタヴィア・アルビステギの話から」

「その名前は覚えています」

「左様。彼女はこのエルスバーグを昨年訪れたことがございます。とは言えポートスパン王家ご息女来訪の折の随身ですから、むしろその名をご記憶なさっているリネット様の記憶力が優れていると申すべきでしょう」

「つまらぬ世辞などいりません。少し愉快でない出来事があったから覚えていただけのことです」

 エルスバーグを見下した、無礼な振る舞いの数々。それだけならば耐えもしたが、世話を任せた女官たちに傷まで負わせるに及んで我慢も限界に達し、衆人環視の元であの思い上がった娘を面罵した。外交問題に発展してもやむなしと思っていたのだが、幸いポートスパンの姫君が冷静で賢明な方であったおかげで、ことは速やかに収まった。結果、オクタヴィア一人が満天下に恥を晒す格好になったわけだ。

「これは失敬。いかにも、あれは不愉快極まりない事件でしたね。わたくしはオクタヴィアの口から事情を聞きましたが、それでも非は明らかにあのお脳の足りない小娘にあるとわかりました」

「あなたはオクタヴィアに会ったということですか?」

「はい。それがこの糞ったれな事態すべての発端でして」

 アガレスは唇を歪めた。あまりわたしが見たことのない種類の笑み。

「ポートスパン帰国の後、憤懣やるかたないオクタヴィアは先祖伝来の宝物庫の中にとある品物が入っていることを思い出しました。正確に使用すれば、ある代償と引き換えに悪魔を呼び出して使役できる杖です」

 息を詰めて話に聞き入るわたしに対し、アガレスは大袈裟なまでにため息をついて肩をすくめてみせた。

「要するにこれ、わたくしが大昔にこしらえた罠なんですがね。使い方には一々面倒な手順があり、呪文詠唱の一言、準備した魔力触媒の品質、召喚の際の手振り一つ、果ては儀式の日時や場所まで、どれか一つでも指定の作法にのっとっていなけりゃ、たちまち愚かな召喚術士気取りをとっ捕まえておいしくいただく寸法。それらすべてを間違えないくらい賢い者なら、代償に差し出すものを惜しむに決まってるから、こんな杖を使うわけがない。どっちにしろ、わたくしが実際に人間に仕えて労働に励む可能性なんてこれっぽっちもないはずだったんですけど、ねえ」

「……オクタヴィアは成功してしまったわけですか」

「話が早くて助かります。猿が紙にペンででたらめに書きつけたら抒情詩ができたってくらい低い確率のはずだったんですが」

「それで、彼女の望みは?」

 聞くまでもないことだが、確認せずにはいられない。

「貴女様の破滅。肉体的苦痛と精神的恥辱にまみれた生涯。当然、オクタヴィア本人はこんな簡潔な物言いはしてないわけですが、長ったらしくてうんざりする恨み節を要約するとそんなとこです」

 アガレスの答えはあまりに予想通りだった。

「ま、こちらとしても代償をあちらから確実にいただける契約ですんで。仕事はきっちりやらせていただきます」

「……代償、とは?」

「あまり慰めにもならないでしょうが――」

 アガレスはこれも予想通りの答えを返した。

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