六十日目(前):王女は新たな生活を始め……

「リネット王女、ご機嫌麗しゅう」

 闇の中にアガレスが現れた。

 反射的に身構えて、ここが夢の中であることを思い起こす。自分が本来は人間であったことも。

 わたしの姿はたちまちブラックドラゴンから人間に戻った。今のわたしからは奪われて久しい姿へ。周囲から褒めそやされ、自分でも内心誇らしく思っていた、それなりに美しい少女の姿へ。

「機敏な反応でございましたね。さすがに五十日モンスターと戦い続けると、野生の勘のようなものが鋭くなってくる」

「…………」

 言いたいことが多すぎて、さらに久しく話というものをしてなかったせいで言葉をうまく発せられなくて、また、アガレスがまず口にしたこの言葉に我知らず打ちのめされて、わたしはしばらく黙りこくってしまった。



 すでに日数を数えるのは止めていたが、確かにわたしはこの数十日間洞窟の中でモンスターと戦い続けていた。それらを喰らうために。

 外に出るのは、食料確保に関してと、わたしをモンスターと判断して問答無用で襲撃するであろう兵士や冒険者に対してと、二つの不安によって断念した。

 その点この洞窟には弱いモンスターがふんだんに生息し、しかも今のわたし――ブラックドラゴンの戦闘能力を活用するには絶好の環境であり、さしたる困難もなく生き延びることができるのだった。



 アガレスと会った翌日、最初に喰らったモンスターは今でも忘れられない。甲羅で身を守り無数の触手を蠢かせて這い回る、メバと呼ばれるモンスター。グロテスクな外観な上、甲羅を剥いでも中の肉さえ人間には有毒で、しかも樽ほど大きく人間にとっては凶暴な魔物ということもあり、人がこれを食した記録などどこにもない。

 ただわたしは、人間の王女として囚われの身であった頃、今現在のこの身体であるブラックドラゴンが、床や壁をのそのそ這い回るこのメバを見つけると嬉々として捕食するのを何度となく目にしていたのだった。

 もちろんいきなりそんなものを口にする勇気があったわけではない。しかしその時わたしの近くにいた、食べるのにまだ抵抗の少ない他のモンスターは、素早く動き回る種類のものばかり。ドラゴンになって丸一日も経っていなくて身体を使いこなせず、飢えで衰弱もしているわたしには捕えられそうになかったのだ。

 同じ生き物が、単に魂が変わっただけで、それまで食べていたものを突然毒に感じるわけもない。そう自分に言い聞かせながら、わたしは前肢でメバの甲羅を押さえつけた。

 メバは危険を感じたか、柔らかく粘つく触手を何十本とうねらせ、一部はわたしの前肢に届く。うねうねと這い回るその不快さに耐えられず、わたしは肢を離してしまった。

 それでも、いつまでも何も食べないままではいられない。肢の先から力が抜け、ただ歩くことすら苦痛になり、蝙蝠や鼠が変じた素早いモンスターが不穏にもわたしの周囲をちょろちょろと徘徊し始める。生まれて初めて、わたしは餓死の危険を肌身に感じた。

 思いついて、メバに炎を吐いてみる。だが火力の加減をまだできなかった当時のわたしは、メバを完全な灰にしてしまった。

 食べなければ。けれど、気持ち悪い。おぞましい。


 ――これくらいは妥協と開き直りで乗り越えられるでしょう。


 昨夜の夢の中で、アガレスが言い放った言葉が脳裏に浮かんだ。

 わたしは覚悟を決めた。

 手近なメバを掴み取って口の中に放り込み、一心不乱に噛み砕く。ドラゴンの鋭い牙は甲羅をも簡単に咀嚼できた。触手はしつこく口の中で蠢き続けたが、舌と唾液で牙に絡みつくそれらをこそげ落とし、無理矢理喉の奥に送り込んだ。

 人間の味覚では表現できないその味は、しかしドラゴンとなっているわたしにはさして不快でもなかった。

 わたしは、自分が人間でなくなったことを改めて痛感した。



 一度開き直ってしまうとその後の心理的な抵抗は一気に減る。

 メバを数十匹食べて飢えを凌いだわたしは、洞窟の中の様々なモンスターを食べ漁るようになった。

 中には、こちらの硬い鱗をも切り裂く刃のような角を備えた鷹や、稚拙ながら魔法を使って眠らせようとする蛙など、ドラゴンでも一筋縄ではいかないモンスターが多い。

 それらを狩るうち、戦闘などとはまるで無縁に王女として暮らしてきたわたしは、いつしかブラックドラゴンとしての能力をそれなりに発揮できるようになっていたのだった。

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