六十日目(中):王女は勇者に囚われて……
「まあ、それでもにわか仕込みの王女様が勝てるほど、甘い相手ばかりではないということでございます」
アガレスは軽く笑う。わたしは返す言葉もない。
今、こうして夢を見ているわたしは、現実では頑丈な檻の中に閉じ込められている。洞窟の近くにある村の一角に設置された檻の中に。
アガレスが以前語った存在。アガレスが力を貸し与えている自称魔王に立ち向かえる、数少ない冒険者。今日、そのうちの一人が、わたしの寝ぐらであった洞窟を襲ったのだ。
*
今日、目を覚ましたわたしは、とりあえず目の前を這っていた五匹のメバを平らげて朝食とした。
空腹を癒すと、毎朝毎夕の日課になった作業を始める。
『私はエルスバーグ王女のリネットです。魔王により竜と魂を入れ替えられましたが、あなたがたと敵対する意思はありません』
と、前肢の爪を使って洞窟のあちこちの壁に彫りつけていくのだ。
洞窟全体には魔王による維持魔法がかかっており、朝と夕方になると洞窟のあらゆる損傷が自動的に修復されてしまう。おかげで激しい戦闘が起きても洞窟はまず崩落しないわけだが、そのたびにわたしの爪痕は空しく消し去られる。
それでもわたしは毎日二回、修復された直後の傷一つない壁に文字を刻む。無益で恐ろしい戦闘を避け、自らが救われる可能性にすがって。同時に、自身が単に本能しか持ち合わせない竜ではないことを確認するために。
作業の順番としては洞窟入り口近くから始めるのが基本だが、その日の気分で適当なところから始めることも珍しくない。今朝は起き抜けに、牢屋前の最も広々とした一角――わたしと入れ替わる前からブラックドラゴンが寝起きしていた場所でもある――から書き始めることとした。
と、書き終えた直後、洞窟入り口の方向から奇妙な物音を聞き取る。
ブラックドラゴンの聴覚は、モンスターの中では大したことはないが、それでも普通の人間よりははるかに鋭敏だ。そんな今のわたしの耳は、金属の鎧をガシャガシャと騒々しく鳴らしてこちらへ歩み来る何者かの足音を聞き分けていた。
最初わたしはいよいよ人間がやって来たかと思って緊張した。『リネット』の身柄は魔王が押さえている。それを魔王が広く宣言していれば、ここにリネットはいないとして問答無用に攻撃が始まるだろうが、そうでなければ人質を警戒して慎重な行動を取るはず。わたしにも自分の事情を説明して理解してもらう余地はある。
だが足音を聞くうちに、疑念が生じ始めてきた。
わたしがドラゴンになってから、洞窟内に人間が入って来たことはない。それでも、鎧を着た近衛兵や騎士の足音は昔から聞き慣れている。その記憶に照らし合わせると、足音の主はあまりに無警戒なのだ。
よほど腕前に自信のある練達の武人ならば、敢えて示威行動の一環として聞こえよがしに音を立てるようなこともあるかもしれない。しかしその足運びたるやどうにも不器用、まるで床を出たばかりの病人のようによろめき、時に壁に手をつくのか一際盛大な金属音を響かせている。だが足取り自体は一定に保たれていた。
――魔物?
鎧を着るのは人間ばかりではない。オークやゴブリン、コボルドなどの亜人が、襲った人間から剥ぎ取った大きさの合わない鎧を着飾ることもあれば、妖術によって生み出された骸骨剣士などの不死生物が武具で身を固めることもある。
――骸骨は食べられないけれど、亜人なら。
わたしは涎を垂らし、舌なめずりをした。亜人は弱くて仕留めやすい絶好の食料なのだ。ことに豚と人を混ぜ合わせたような姿のオークは、肉が多くて美味である。
わたしは素早く洞窟の構造を頭に思い描き、待ち伏せにうってつけの地点まで忍び足で移動した。四本肢の巨体を動かすことにもすでに熟達し、角や尻尾を壁にぶつけるような無様な真似ももうしない。
相手の不意を突ける場所に陣取り、息を殺して待つ。
来た。
わたしは飛びかかり、前肢でなぎ払う。高熱の炎を吐けば一番強力な攻撃になるが、その場合は炭化してしまって食べられないので、よほど危険と判断した時以外は使わないようにしている。
壁に叩きつけられた敵は、だが、即座に体勢を立て直すと剣を構えてわたしに斬りかかってきた。
その姿は、鎧の中に腐肉をまとい、時折ぼろぼろと床にこぼしさえする、亡者。
――ゾンビ?
だが普通の――わたしの知識は王宮で魔道師に教わっただけの、通り一遍のものに過ぎないが――ゾンビであれば、こうも機敏な動きはできない。先刻までの、音でのみ聞いていた遅々とした動きと、この姿とはぴたりと一致する。なのに今現在のこの俊敏な動きは明白に異常であった。
とっさに身をかわしたわたしの前肢を、人型のものが持つには長大な剣が払う。一本の爪を斬り落とし、届いた切っ先は鱗を斬り裂いて足首からもどす黒い血を流させた。
痛みはさほど感じない。竜の身体は繊細ではない。
しかしもちろん、わたしはただの低能な竜とは違い、それなりの知性を有している。目の前の敵は剣呑な存在であると判断する。どこか別の遺跡や洞窟から這い出て来た古代の魔物だろうか。それとも魔王が生み出して性能を試すためにわたしにけしかけた新型のモンスターだろうか。いずれにせよ、倒すしかない。
だけど、炎を吐くのは躊躇してしまった。
一つには、わたしは炎を吐くと直後に大きな隙ができるため。生まれながらのドラゴンならこんなこともないのかもしれないが、わたしはそうなってしまう。もしこのゾンビが焼かれても動けるほど強力な呪力で動いているなら、骨だけの姿でも剣を振るえるかもしれない。そうなったら隙の生じたわたしは格好の標的だ。
そしてもう一つは……説明もできない、ただのためらい。
相貌も腐れ果て、今のわたし以上におぞましい汚れたモンスター。なのに、何となく、見覚えがあるような気がしてしまう。もしかしたら、かつてこの洞窟で命を落とした者の成れの果てかもしれない。わたしを救うためにここへやって来て、わたしのこの身体によって命を奪われた兵士かもしれない。
――倒した後に身元の確認をし、わたし自身が元に戻った後で遺族へ報告をする。
実現可能かどうかは定かでないがそれを目標として、わたしは行動することにした。
戦いは熾烈を極めた。
ゾンビの特徴としては、痛覚の欠落が挙げられる。ゆえにこちらの打撃は相手の肉体を完全に破壊するほど強烈なものでなければ意味がなく、他のモンスターであれば簡単に気絶させられるような衝撃を与えても、それだけではしかたがない。わたしは後の先を取られて何度となく全身を斬り刻まれた。
そしてまた、最初からわたしを翻弄した高い反応速度。殴っても応えないわけだが、そもそもなかなか当たらない。
さらにこのゾンビは、なぜかいくつかの魔法も使うのだ。ブラックドラゴンの身体は魔法への耐性もそれなりにあり大きな傷を負うほどではないが、火球や氷の矢を目の前で放たれると目くらましの効果まで発揮するからたちが悪い。
それでも元々の耐久力の違いが大きかったためだろう。わたしはどうにかゾンビ剣士の両腕両脚を解体することに成功した。
立ち上がれず、それでもなおじたばたと動き回る、生ける屍。
その様子を見ているうちに、わたしはここしばらく考えないようにしていたことをつい考えてしまった。
醜いドラゴンの巨体で洞窟を蠢き、モンスターを襲っては喰らう、今のわたし。
美しい靴を履き王宮の磨きこまれた床の上でダンスを踊る代わりに、裸足の四つん這いで岩と泥と苔が混ざり合った上を歩く。
柔らかなフリルで飾られたドレスを身にまとう代わりに、鉱物のような鱗で全身を覆われている。正確には服どころか、それこそが今のわたしの皮膚。
毎朝侍女にくしけずってもらっていた長い蜂蜜色の髪の毛はどこにもなく、二本の鋭くまっすぐな角が長く前に突き出ている頭。
歌を歌い詩を口ずさんだかつての口とはまるで形の違う、獣や爬虫類のごとく前に突き出た口。その上顎と下顎には牙がびっしりと生え揃っていて、モンスターの甲羅だろうが骨だろうがお構いなしに噛み砕く。
その口の中に収まるのは、料理人が丹念に調理した食べ物ではない。仕留めたばかりの、あるいは生きたままの、味つけもされてないモンスターの肉。それだけ。
ただただ必死に、生き延びることだけを意識している今のわたしだが、そんなわたしは果たしてまだ『リネット』を名乗るに値する存在なのだろうか? もうわたしはブラックドラゴンであることに馴染みすぎてしまっているのではなかろうか?
そんなことを考えてしまっていたせいだろう。ゾンビの着ていた鎧の端に彫り込まれていた文字を見て、わたしは完全に凍りついた。
『ロビン』
この腐りきった、腐汁を撒き散らす、眼窩から眼球の垂れ下がった動く死体が、ロビン。わたしがうっすらと好意を抱いていた青年。
わたしは、自分が好きだったはずの相手を気づきもせずにバラバラに引き裂いていた。身を守るためではあるが、途中からはドラゴンの本能に衝き動かされるように。
慙愧の念など即座に湧くはずもなく、ただ瞬時の衝撃と混乱がわたしの動きを止める。
そして、相手にはそれで充分だった。
地面に倒れてもがいていたロビンの亡骸が、突如背中から羽を生やして宙に舞う。
――!
距離を取ろうとしたわたしだが、反応が間に合わない。
そしてロビンの死体は、今度は腹から無数の長い触手を、そして口からは紫色に濁りきったガスを、わたしに向かって吐き出した。
どちらか片方だけならば、それでもまだ対処できたかもしれない。しかし触手はわたしの四肢を封じ、ガスはブラックドラゴンであるわたしの頑健な肉体さえも一時麻痺させるほどの毒性を有していた。
――よし、よくやったぞ、ロビン。
そう言いながら、洞窟入り口の方向から新たな人影が歩み寄って来た。
わたしやロビンと同年代の、一見平凡な、しかし数多の修羅場を潜り抜けた風格を漂わせる青年だった。
――炎を吐かなかったのはロビンがスケルトンとして動き続ける二段構えを警戒したからなのか? ブラックドラゴンにしちゃ知恵が働く戦いぶりだったな。さすがは王女様の番兵を任されるだけのことはある。殺すのは止めだ。
青年はそう言うと、ロープを取り出してわたしを縛り上げる。よほど強力な魔力が込められているのか、わたしはかすかな身動きも声を上げることさえもできなくなった。
どうやら彼が、かつてロビンだったゾンビを操っていたらしい。と言うことは、彼こそは魔王を倒す実力を持った冒険者なのだろうか。そう言えば冒険者には魔物使いを生業とする者もいると聞いたことがあった。
それなら彼に、さっき洞窟奥に刻みつけた文を見てもらえれば。『リネット』の救出も彼の任務のようなのだし、これから奥へ進んでもらえれば。
――ま、ロビンもぼろぼろだし、今日のところは一旦帰るか。明日朝一番で強化した後、改めて奥に挑むとしよう。
冒険者はそう言うと、引きちぎられた手足を元通りに取りつけたロビンと二人がかりでわたしを引きずりながら洞窟の外へ出て行ってしまった。
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