第二十二話 ゴレア

オリディオール島から東にある島々の一つで、ある事が起こった。


しかし、それは多くの人にとっては、特に問題のあることではなく、この時代においては、非常に些細な出来事だった。


だが、ごく少数の当事者達にとっては、大変な出来事となった。


そして、この出来事から、新たなる時代の覇者の一人となる可能性を持つ者が目覚めるとは、この時誰も知ることはなかった。


それは、その本人でさえも同じだった………。


オリディオール島から海を越え、東へ行った所に、ある商会が発見した島々があった。


島は小規模な塊で存在したため、その商会から名を取り、『ゴレア群島』と呼ばれた。


この辺りの気候は、年中温暖な場所だった。


植物もオリディオール島には無いものばかりで、海の色も少し違った。


そしてこの群島から南の海域は、一年中、非常に激しい暴風雨のようなものが起こっており、船が近づけるような場所ではなかった。


また、この群島から北へ進めばレムリア大陸があり、東の海域は、どこまでも続く海が広がっていた。



島は大小合わせて、4つあった。


真ん中の島が一番大きな島で、それ以外の3つの島は、小さな島だった。


そして人間たちは、真ん中の大きな島に、周囲の海域を探索するための拠点を築いた。


外壁に覆われ、中には水や食料を備蓄するための建物があった。


また、それだけではなく、この町に寄った冒険者や水夫達のために様々なものを提供する施設も存在した。


施設は酒や食事、宿泊、軽い賭博を行うことや、女も買える場所もあった。


その施設のある建物の一角で、事件は起こった。


部屋は、富裕層が利用する部屋で、しっかりとした造りで出来ており、豪華な調度品や家具が配置されている所だった。


また、使用人が複数人常駐しており、部屋に置いてある小さなベルを鳴らすと、すぐにやってくる場所で、主に金を持っている商人たちが利用する事が多かった。


そして、この部屋はその中でも特別な人物しか利用できない場所だった。


部屋から、ベルの音と共に、女の叫びが聞こえる。


「―――きゃあああああ!」


音と叫びを聞いた何人かの使用人が慌てて、その部屋に飛び込むように入った。


「―――旦那様!どうかなさいましたか!?」


部屋に入った使用人の男は息を呑んだ。


「ゴクリッ………これは……」


部屋は薄暗かった。


蝋燭の炎が一本だけ、酒の置かれたテーブルの上で僅かに揺れながら、その火を絶やすことなく燃やし続けているのみだった。


そして、部屋の隅で怯えるように、この部屋の主人に買われた女が半裸の状態でシーツを握り締めながら震えていた。


使用人の男は、視線をベッドへ向けた。


すると、そこには体の半分が木の根のような姿となった老人が倒れているのが見えた。


その異様な光景を見た男は、すぐに女に尋ねた。


「おい!何があったんだ!?」


女は恐怖のためか、ただ震えているのみだった。


「………ひぃー!……」


(この女は……時間が経たないと無理だ……ちっ!しょうがない……)


男は使用人である自分では、どう判断していいのか分からなかったため、この宿泊施設の責任者の元へ向かうことにした。


そして、この建物の責任者の男へ情報は伝えられた。


男は、使用人と共に、すぐにその部屋へ向かった。


責任者の男の名前は『ビーグル・リーゲン』と言った。


口ひげを生やし、派手な柄の服に身を包んだ中年の男で、裏表のある男でもあった。


彼は、この施設の管理を任された人物で、実際のオーナーは、今、ビーグルの目の前にいる人物がそうだった。


ビーグルは、苦虫を噛み潰したような表情になっていた。


「これは……不味いことになったぞ………バンゲリス様が………」


使用人の男が、遠慮がちに尋ねた。


「ビーグルさん……どうします?」


そう尋ねられたビーグルは、苛立った。


そして、部屋の隅で怯えている女の下へ近づくと、彼女の両肩を揺らしながら質問をした。


「―――おい、女!これはどういうことだ!?」


先ほどより、女は正気を取り戻したのか、少しだけ状況を話し始めた。


女の話によると、ここに横たわっている老人の相手をするために買われた彼女は、共に部屋に入った。


そして、ベッドに入る前に共に酒を飲んだ。


その後、彼は薬を飲み始めたと彼女は怯えながら話した。


「………薬?……どこにある?」


ビーグルに尋ねたれた女は、テーブルを指差した。


ビーグルが顎を動かし、使用人の男に合図すると、男はすぐにテーブルへ向かった。


「―――ありました!」


すぐに、使用人の男はその薬を手に取り、持ち上げ、ビーグルに見せた。


「……ここに持って来い」


そして女は話を続けた。


「………この爺さん、力が付く薬とか言って……そこのワインと一緒に、その薬を飲んだのよ………そしてあたしが服を脱ぎ始めたら……背中から、ふと声がしたの………呻くような声だったわ………それですぐに振り返ったの……」


そこでビーグルと使用人は再び息を呑んだ。


―――ゴクリッ。


「………それで……どうなったんだ?」


緊張した面持ちでビーグルに尋ねられた女は、震えだした。


「声の後………音が……聞こえたの……」


「………音だと?」


「何か………メキメキッって……膨張した木が割れるような……」


「なんだそりゃ……」


「それで……爺さんの口がぱくぱく動いているのが見えたんだけど、何言ってるか全然解んなくて………そして、たくさん泡を吐き出して………そのまま……」


そこで女は無言になり、頭を抱え込んだまま、ずっと震えていた。


自分の理解を超えた話に、ビーグルは混乱した。


(おいおい………俺もそれなりに生きてきたが……こりゃあ……本家の人に、どう説明して良いか、分からんぞ………せっかく、ここまでの地位になれたってのに………)


彼は、夜の世界の使用人から、この宿泊施設の支配人にまで登りつめた叩き上げの人物だった。


だから、それなりに修羅場や、変な死に方をした人物などを見た事があったため、大体のことは対処しきれると思っていた。


しかし、今回のような死に方をした者など、聞いたことも見たこともなかった。


それだけに、遺族にどう説明して良いか分からなかった。


ビーグルは、使用人が持ってきた薬を見た。


(赤い粉状の薬だな………見た事が無い……ベラフォラでもないな……まいったぞ……もし、俺がこの事に関与していると思われたら……)


ビーグルは、しばし考えた。


(うーん………やはり、これは遺体を直接見てもらうしかなさそうだ………だが、どうやって運べば……)


そこでビーグルは、閃くことがあった。


(………そうだ。―――あの人物なら!)


彼は女と使用人に金を与え、この事を誰にも言わないようにさせた。


そして、すぐに部屋を出て、建物からも出た。


外へ出ると、到着したばかりの船から下りる商人や冒険者などが、この島に入って来ているのが見えた。


ビーグルは、群島の町の中を走りながら、ある人物を探していた。


すぐ近くに浜辺があり、南国にしか生えない木や植物が、まばらに茂っているのが見える。


(いない………そう言えば、もうすぐオリディオールに戻るとか言っていたな………くそっ!)


そして、いくつか停泊している船や、これから泊まる宿を探す人々などが行き来している所まで、彼はいつの間にか来ていた。


(普段なら、大体この辺りにいるんだが………そうなると、やはり……)


そしてしばらく、周囲を見渡しながら走っていると、誰かにぶつかってしまった。


―――ドンッ!


「きゃ……」


ビーグルは、慌ててその人物に声をかけた。


「………これは……大変申し訳ございません!」


相手は女だった。


ビーグルは謝りながらも、つい癖で相手を値踏みし始めていた。


彼は、この世界で生きて行く為に、こういったことを欠かすことが無かった。


ビーグルにとっては職業病とも言うべきものだった。


(出で立ちからすると……魔道師だな……ここにいるということは冒険者か?………随分若いな……それに中々、上物の女だ……)


すると、他にも仲間が何人かいたようで、女に向かって声がかけられた。


「―――エルディア、大丈夫か!?」


「エルちゃん!」


男が二人、やって来ていた。


そしてすぐに、男の一人がビーグルの胸ぐらをつかんだ。


「―――おい!」


男は鋭い目つきの人物だった。


瞬きせず、胸ぐらを掴んだまま、睨み付けてきた。


ビーグルは長年の経験から抵抗せずに、すぐに謝った方が良いと思った。


「ひっ!……どうかお許しを!」


手のひらを広げながら両手を軽く上げ、反抗の意思が無いことを示した。


そして謝りながらも、ビーグルは心で舌を打った。


(………ちっ!面倒ごとに、巻き込まれてしまったか!)


夜の世界では、こういった事が良くあったため、彼は一発殴られるのを覚悟した。


大体は、一発殴ることで、怒りを収める者が多いのをビーグルは知っていたのだった。


だが、そのとき、先ほどの女が、目つきの鋭い男の名を呼ぶと、すぐに自分たちのところへ寄ってきて、男に手を放すように言ってきた。


「………クフィン、私は大丈夫。だから、その人を放してあげて」


だが、男は睨んだままだった。


大抵の者は、ここで手を放す。


しかし、目の前の男は、無言で睨み付けて来たまま、微動だにしなかった。


その姿を見たビーグルは、流石に焦りの色を見せ始めた。


「……あ、あの……大変申し訳なく……思っております……ですから……(この野郎、さっさと手を放しやがれ!!)」


そこでようやく、男が言葉を口にした。


「俺の大切な女に傷をつけたなら、それの何倍以上もの傷を覚悟しろ………」


ビーグルは、直感で何かを感じ取った。


(こいつは……やべえ奴だ………本当にやっちまう奴だ……最悪だ……)


ビーグルは、ひたすら謝ることにした。


「本当に申し訳ありません!二度とこのような事がないように致しますので………それからお怪我をされているのでしたら、治療代を……」


すると、二人を見かねたのか、赤いクロークを着た褐色の肌の男が話しかけてきた。


「………クフィン。そのぐらいで、もう十分でしょう……エルちゃんは、無傷ですよ」


その男がそう話すと、更に後方からも声が聞こえた。


「ちょっとー!3人とも、何やってるのー!早く安い宿を見つけないと!」


眼鏡をかけた小柄な女が、3人に向かって手を振りながら叫んでいるのが見えた。


先ほどぶつかった女が歩き出した。


「クフィン、レビアが呼んでいるわ……行こう」


「………わかった」


そこで、ようやくビーグルの体は自由を得た。


男は、ビーグルを突き放すように離した。


そして、歩き出していた他の仲間の後を追っていった。


ビーグルは、相手の背中を眺めながら一息ついた。


「ふぅ………とんだ災難だった……あっ!」


そして、自分の本来の目的を思い出した。


(―――あいつを探さないと!)


ビーグルは、すぐに走り出した。


日中であったため、強い日差しが彼を照らしていた。


今、彼がいるのは島の中心的な場所だった。


ここでは冒険者や商人たちが、酒や食事を楽しみながら、商談などをする所で、今日もそういった人々で賑わっていた。


至る所に、この島の植物の葉を何枚も重ねて作った、風通しの良さそうな屋根の下に、木のテーブルと椅子が置いてあって、そこに人々が座り、がやがやと様々な人の声が聞こえた。


(暑いし……人は多いし………くそっ……どこにいるんだ?)


オリディオールからレムリアへ向かう者、レムリアからオリディオールに帰る者、この群島から船で探索を続ける者など、様々な人々の休息場所でもあったため、最近は特に人が多く、この島を訪れていた。


しばらく辺りをキョロキョロと見ていると、一つのテーブルに目がいった。


(―――あっ!いやがった!)


ビーグルは急いで、その人物に近づいた。


そこにいたのは、全体的に日に焼けていて、頭に白いターバンを巻き、白い服を着て、髭を生やした老人だった。


彼は少し顔を赤らめながら気持ち良さそうに目を閉じ、日陰の風に当たっていた。


どうやら、昼間から酒を飲んで、休んでいるようだった。


ビーグルは老人の肩に手を置き、揺すりながら声をかけた。


「………おい、爺さん。俺だ、ビーグルだ、起きてくれ!」


「………う~ん……」


老人は、眠い目を擦りながら、しぶしぶ起きた。


そして、ビーグルを見た。


「………誰かと思ったら、お前さんか……何やら慌てた様子じゃな……どうかしたのか?」


ビーグルは、真剣な眼差しを老人に向けた。


「爺さん、あんたに頼みがある………」


ビーグルが頼んできた事に、老人は一瞬驚いた。


「………わしに頼みじゃと?………」


しかし、そこで彼は何かに気付いた。


何故か老人は口元に笑みを浮かべる。


「ふふっ………わしに頼むと言う事は、つまり……誰かが死んだと言うことだな?」


ビーグルは周囲を気にしながら、小さな声で老人に話した。


「そうだ………だから、すぐにでも頼みたいんだ。やってくれるか?」


老人は椅子から上半身を起こすと、右手の手のひらを上に向け、人差し指だけを軽く動かした。


ビーグルは顔を老人の近くまで持っていった。


「………なんだ?」


老人は小さな声でビーグルに尋ねてきた。


「………いくつか、聞いておきたいことがある……」


「ああ、いいぞ。何でも聞いてくれ」


「まず一つ………お前さんが殺したのか?……もし、そうなら、わしは手伝わんぞ。そういう事には関わり合いたくないんでな」


ビーグルは慌てて、それを否定した。


「冗談じゃねぇ。俺はやっちゃいねぇよ!」


彼が話す間、老人はじっとビーグルの表情を見ていた。


(………これは……殺しをした者の顔ではないな……)


その答えに納得したのか、老人は他の質問をし始めた。


「……わかった、信用しよう……では、もう一つ、報酬はちゃんと払うんだろうな?」


「ああ、それはちゃんと払う。だから、すぐに来てくれ」


「では、最後に一つ」


「まだあるのか?!」


「とにかく聞くんじゃ。わしの事は、誰にも喋っていないだろうな?」


度重なる質問に、ビーグルは気を揉み始めた。


「……ああ、誰にも喋っていない。とにかく、早くしてくれ!」


ここでようやく老人は、重い腰を上げ、立ち上がった。


そして二人はビーグルのいた建物へと入った。


入るなり老人は「準備のため、荷物を取りに行く」と言った。


彼は、この高級な宿屋に泊まっていた客でもあった。


ビーグルが遺体となった人物の部屋の前で待っていると、先ほどの老人が現れた。


その時、彼の手には奇妙な形をした杖と書物があった。


「ホホッ、待たせたの!」


この老人の名は『ニバル・ハイエ』と言った。


ビーグルと彼は最初、宿屋の支配人と客の間柄だった。


しかし、この老人が金も無いのに泊まっている事に途中で気付いたビーグルは、逃亡寸前の彼を捕まえた。


ビーグルは宿賃を取り返せるだけ取り返そうと思い、老人の荷物の中を調べた。


中に入っていたのは、金にならない物ばかりだった。


「なんだよ……ガラクタばかりじゃないか……」


しかし、一つだけ興味をそそる物があることに気がつく。


(―――んっ……これは………)


手にとって見ると、それは奇妙な文字で書かれた書物だった。


書物を見られた老人は慌てて隠そうとしたが、ビーグルはその本を取り上げた。


彼は、この本が何なのか、老人に尋ねた。


「おい、爺さん!金になりそうなのは、これしかないんだ。だったらこれが何なのか、話してもらうぞ!………これはなんだ!?」


完全に捕らえられたニバルは深く息を吐いた後、諦め顔になり、話し始めた。


「ふうぅぅー………しょうがないのう………これはじゃな……」


ビーグルは、本の詳細について聞いた。


「………そんな物が……」


ニバルは目を細め、小さく笑った。


「ホッホッホ……これは、北東の大陸………レムリアの地で、わしが見つけたんじゃ………」


「そういや、会ったときにレムリアから帰ってきたとか言っていたな………」


ビーグルは、どうするか考えた。


(こいつを、この島にいる自警団に引き渡してもいいが……これがもし、本当だったら……何かに使えるかもな……そんなに強力なものじゃ無いのかもしれんが………人の持っていない道具は、より多く揃えておいた方がいい………なら……)


ビーグルは、謎の書物を老人に突きつけた。


「爺さん、あんた、これをギルドに渡して新発見にするつもりはないのか?」


ニバルは即答した。


「ない」


「じゃあ、どうするつもりなんだ?」


「これは、わしの研究対象なんじゃ……だから、誰にも知られないようにしておったのに………」


「ふんっ!残念だったな。だが、それもあんた自身のせいだろ」


「わしをどうするつもりじゃ?」


「その魔道書を頂いて、自警団に引き渡してもいいが……」


「ま、待ってくれ!それをされると困る!帰ったら、必ず金は払う!だから……」


ニバルが魔道書に手を伸ばしてきたので、ビーグルは腕を動かし、軽くかわしてから、答えた。


「おっとっ………そんなもの、信用できる話ではない。どこにも保障はないしな……」


そしてそこで彼は、さらに何か閃くことがあったようだった。


僅かに笑みを浮かべ、老人に話しかけた。


「だが……そうだな……爺さん……一つ俺から提案がある。それを呑むのなら、今までの金をチャラにしてやって、なおかつ、ここに滞在する間の全ての金を俺が払ってやってもいい。どうだ、悪くない話だろ?」


あまりの好条件に、ニバルは警戒した。


「お前さん……何を考えておる……」


「大したことではない。オリディオールに帰ったら、裏の世界の人物に会ってもらうだけだ」


「良からぬ事に、これを使う気じゃな………」


ビーグルは少しばかり凄みを利かせ、老人に話しかけた。


「拒否は、すでにできんぞ。あんたは、やるしかないんだ」


ニバルは、そこで自らの敗北を悟った。


「………はあぁ……なんて男じゃ……」


「爺さん、そりゃ、お互い様ってもんだ」


「わかったわい……ただし、お前さんにも、これの事を他言しないと言う約束を守ってもらうぞ」


「……ああ、分かってる。それもお互い様だ。ははっ!」


そして二人の関係は、そのまま今に至っていた。


ビーグルとニバルは、この宿屋の真の主人であった者がいる部屋の中へ入った。


そして、すぐにビーグルと老人は準備に取り掛かった。


部屋に置いてある家具などを端へ追いやり、木の床が見える部分を広く取った。


そして、そこに市場で買ってきた鳥の血を使い、魔法陣を描いた。


中に古代の文字と五芒星を描き、各頂点の部分には蝋燭が置かれた。


5本の蝋燭の炎が僅かに揺れながら、部屋を照らす。


魔法陣の中心に、屍となった老人を置くと、ニバルはその遺体を詳しく見ていた。


「暗くて良く分からんかったが………なんじゃ……この死に方は……こんな死に方だけは、したくないのう………」


「俺にも、さっぱりわからないんだ……だからこそ、あんたの魔法が必要なんだ」


「………まだ、解読の途中なんじゃが……しかし……腐らせることなく、運ぶには、これしかあるまい………」


「……ああ、頼むぜ」


そしてニバルは、魔法を唱え始めた。


「冥界に流れる……黒き死の川よ………我が魔力の求めに応じよ………」


魔法の詠唱に入ると、ニバルの持っていた杖から、黒い気体が周囲にゆっくり放出され、それが床にも流れ落ち始めた。


彼の持つ杖は、先端の部分に拳ほどの大きさのドクロがあり、目の部分や口の部分から、細い木の枝が何本も出ていて、その枝の先には、赤茶色の葉っぱがいくつか付いているという杖だった。


この杖もまた、魔道書と共に彼が見つけていた物だった。


魔法を唱えていく中、ニバルの白いターバンや服が黒く染まっていった。


その様子を初めて見たビーグルは、僅かな恐怖心と少しばかりの後悔を感じた。


(俺は、何かとんでもないことに手を出したのかもしれん……)


ニバルは独学で魔道を探求した魔道士だった。


そして、彼が長年捜し求め、研究していた魔法は、かつて世界に存在したと言う、『ネクロマンシー(死霊魔術)』と言われるものだった。


【ネクロマンシー(死霊魔術)】


闇の魔法。


生き物の死体や屍を利用し、様々な効果を生み出すことが出来る。


ゾンビやスケルトンを意のままに操ったり、死体を爆発させ、ガスを発生させたり、骨や死肉の楯を生み出したりと、古代には様々な死霊魔法が存在したという。


アンデッドのリッチが、この魔法に長けていたと言う伝説が残っている。


また、この魔法を行使する者を『ネクロマンサー(死霊魔術師)』と言う。


現在見つかっているものは、ニバル・ハイエが持っている物のみであった。



魔法を唱え終えたニバルの杖には、黒い気体の塊があった。


そして彼は、その塊を死体の上に軽く乗せた。


「我が身から流れ出る魔力よ………黒き死の活水となれ……」


そこでニバルは力を込め、叫んだ。


「―――『ネクロ・エンバーミング』!」



【ネクロ・エンバーミング】


死霊魔法。


魔力の込め方を変えることで、死体を様々な状態にすることができる。


ニバルが使用したのは『死蝋』と言われる状態にすることができる魔法だった。


『死蝋』とは、永久死体の一形態で、体の内部の脂肪の性質が変わり、死亡した肉体が、蝋のような状態になったり、硬いチーズのようになったものである。


また、レジェンドアイテムとして、栄光の手(ハンド・オブ・グローリー)と言われるものが死蝋でできていると言う話があった。


死蝋の戦士を生み出す前段階の魔法。


この魔法を、まずは肉体を持った死体に使用することで、体を死蝋化することができる。


そして、もう一つの死霊魔法を使用することで、死蝋の戦士を生み出すことが可能となる。


ニバルが魔法を放つと死体は一瞬のうちに、黒い気体に包まれた。


気体は死体の中に吸い込まれていく。


「おい、吸い込まれちまったぞ!?」


杖を両手で握り締めたまま、ニバルは答えた。


「見ておれ………もうじき、変化が起こるはずじゃ………」


ニバルの言ったとおり、すぐに死体の表面に変化が起こった。


ボコッ………ボコッ……ボコッ……。


死体の皮膚の部分が沸騰した水のような動きを見せ始めた。


ニバルは喜んで見ていたが、ビーグルは顔をしかめていた。


「―――おお、これは!」


「こいつは………」


しばらくして死体の全身は、テカテカと艶のある真っ白な皮膚へと変化していった。


それはまるで、冷えて固まった蝋のようであった。


魔法を終えたニバルは軽く息を吐いた後、近くの椅子に腰を下ろした。


「初めての使用だったが……上手くいったようじゃの……」


「爺さん、もうこれで終わりなのか?」


「ああ、終わったぞ……」


それを聞いたビーグルは、すぐに死体に近づいた。


「これ……触っても大丈夫なのか?」


「ああ、かまわんよ………」


ビーグルは、恐る恐る死蝋化した死体に触れた。


―――ぴとっ………。


肌はツルツルと滑らかな感触になっていた。


「思ったより……硬いな……よし、これなら……このままオリディオールに持って帰れそうだ……助かったぞ、爺さん!」


ビーグルの喜んだ顔を見たニバルは立ち上がった。


「それじゃ、わしは、もう一度さっきのところへ戻って、酒を飲んで来るかな……」


老人は部屋から出ようとした。


しかし、そこでビーグルから声がかけられた。


「………待ってくれ」


ニバルは振り返った。


「なんじゃ?もうわしの役目は終わったじゃろ」


「爺さん、ここでの暮らしは今をもって終了だ」


「………どういうことじゃ!?わしはもう少しここで、英気を養いたいぞ」


ビーグルは、近くにあった白いシーツで死蝋化した死体を包み込んだ。


そして、ニバルに話しかけた。


「すぐに、この島からオリディオールに帰ることにする……そして、爺さん………あんたにも、一緒に来てもらう」


老人は驚いた。


「なんじゃと!」


ビーグルは、シーツに包まれた死蝋化した遺体を持ち上げた。


「こいつを、ゴレアの人々の所へ運ばないと駄目なんだ……」


ニバルは、まだ行きたくないようだった。


「ここで埋葬すれば良いじゃろ」


「そんな事、勝手に俺がやれば、俺が殺したか関与を疑われるに決まってる!」


ゴレアの人々に嘘は通じないと、ビーグルは思っていた。


(ただでさえ、俺は裏の世界から、こっちにやっと来た人間なんだ……絶対に疑われる……)


ビーグルは、まっとうに暮らしたいと、小さなころから思っていた。


彼の出自は、オリディオールの東にあるバルディバから南に少し行ったところにある貧民街だった。


その中で彼は、汚い仕事をしながらも、まっとうな家庭と言うものに憧れた。


それは年を経るごとにビーグルの中で強くなっていった。


そんなある日、彼はこの宿屋のオーナーでもある、バンゲリス・ゴレアから女の手配を頼まれた。


その時に、女を見る目や手際の良さなどを買われ、彼の経営している店で働かせて貰えることになった。


(光の道を歩く、最初の一歩を俺にくれた人でもあるんだ………だからこそ……遺族の元へ……こんな姿になっちまったが……)


ビーグルは、冷たくなった彼の遺体を力を込め、抱きしめた。


(バンゲリスさん……あんたには、感謝してますぜ……本当に……)


そして、すぐに気を取り直すと、ニバルに話しかけた。


「爺さん、安心しろ。上手くいったら、またこの島で良い思いをさせてやる。だから、すぐに行くぞ」


ビーグルの留まることのない強い意思を感じ取ったニバルは、渋々歩き出した。


「……もう少し休んでから、オリディオールに帰ろうと思っておったのに……しょうがないのう……」


「帰ったら、少し忙しくなるが、まあ、すぐに終わるさ……(久しぶりに、裏の者たちとも、接触しなければならないだろうな……)」


そして、二人はすぐに準備をすると、オリディオール島へ向かう船に乗った。


そして、オリディオールに到着したビーグルによって、ゴレアの人々に、主であるバンゲリスの死が伝えられる事になった。


ゴレア商会の主人、バンゲリス・ゴレアが住む家は、オリディオールの東側のマルティウス地域にあった。


この地域の西側に、金持ち達だけが住む場所があり、そこに彼の本宅はあった。


非常に大きな家で、何人もの使用人が住み込みで働き、広い庭や建物を管理していた。


最初にその事実を知ったのは、長年、バンゲリスの近くで執事をやっていた人物『ロナード・カルセベス』だった。


執事の服装に身を包んだ面長の顔の全体的に体の細い人物だった。


歳はバンゲリスと同じ年齢で、幼き日より、ずっとバンゲリスに彼は仕えてきた。


ロナードは、バンゲリスに屋敷の留守番を頼まれていたため、今回は旅に同行はしていなかった。


長年仕えた主人の変わり果てた姿を見たロナードは、拳を握り締めながら、その亡骸をにらみ付けるように見た。


「くっ!………なんと言うことだ………バンゲリス様……」


そしてすぐに彼は、遺体を運んできたビーグルを見た。


「ビーグル……お前に聞きたいことがある……」


張り詰めた空気を感じ取ったビーグルは、声を僅かに震わせ、答えた。


「―――は、はい!なんでしょう、ロナードさん!」


ロナードは表情は無かったが、冷たい目でビーグルを見つめながら尋ねてきた。


「―――バンゲリス様に何かしたのか………もしくは、お前が何かに関わっているのではないだろうな?」


ビーグルは慌てて、答えた。


「と、とんでもない!俺は、恩のある方にそんなこと……考えたことも!!」


「一応聞いただけだ……こんな大それた事……お前がやるとは到底思えないからな……となると……やはり、この薬か……」


ロナードは、ビーグルが持ってきた赤い粉状の薬を見ていた。


冷や汗を拭きながら、ビーグルはロナードに答えた。


「恐らくは……」


ロナードは、白い手袋を取ると、遺体の前で跪き、自分の主だった者の手に直接触れ、目を閉じた。


(旦那様……後のことは私にお任せください……そして今まで……本当にありがとうございました……)


そして彼は立ち上がった。


「(残念だが……悲しんでいる暇は無い……すぐに家族の方々に……特にあのお二人に、この事をお知らせせねば……)ビーグル、お前はしばらくこの屋敷にいるんだ。状況を直接話してもらうぞ」


「………はい。わかりました」


そしてロナードは、すぐに自室へ戻り、すぐに関係者を呼ぶ手紙を書いた。


「これで良し……」


そして彼が手紙を書き終えたとき、屋敷に入ってくる者がいた。


その人物は、ロナードの名前を叫んでいた。


「―――ロナード!ロナードはどこ!」


(………この声は……もう来られたのか……)


ロナードは、すぐにその声の主の下へ向かった。


その人物は、屋敷の玄関で、声を上げていた。


豪華な宝石を身につけ、大胆に胸元の開いた花柄のドレスを着た、派手な女だった。


そして、そこへたどり着くなり、声をかけてきた。


「ロナード、遅いわよ!どこにいたの!」


「これは申し訳ありません、奥様………」


執事の男に声をかけてきたのは、ロナードが主の死を知らせなければならない2人の内の一人で、バンゲリス・ゴレアの妻である人物だった。


彼女の名前は、『マルベーラ』と言った。


マルベーラは、元々、この家の使用人だった。


しかし、本妻が亡くなったため、その後、愛人となり、最終的には妻になった。


そして彼女には、バンゲリスとの間に産まれた一人息子がいた。


名は『ティゲル』と言う。


まだ二桁に達していない年齢の子供だった。


ティゲルは、母の足元で手を引かれ黙ったまま、不機嫌な表情で立っていた。


そして、その状態にいることに飽きたのか、ロナードに厳しく話している母親に声をかけた。


「お母様……お腹が減りました……」


「あら、ごめんなさい……ティゲル……そうよね、お腹減ったわよね?―――ロナード!」


ロナードは、ゆっくりと落ち着いた足取りで、ティゲルに近づき、腰をかがめ、柔らかな表情で話しかけた。


「ティゲル様……すぐに何か召し上がって頂ける物を用意させます……どうぞ、こちらへ……」


そう言って、別の使用人にティゲルを食事がとれる部屋へ案内させた。


すると、またしても妻のマルベーラが、苛立ちながら話しかけてきた。


「主人に会いたいんだけど、いつ頃、東の島から帰ってくるのかしら?あなたなら知っているでしょ?」


そこで、ロナードの表情が悲痛な面持ちになった。


(不味いことになった……この方に……こんなに早く話さなければならない時が来るとは………)


意を決すると、彼は妻である女に事実を話した。


「実は……奥様……」


話を聞いたマルベーラは、驚いた。


「―――なんですって!?」


ロナードはビーグルも呼び、彼に死に至った経緯について説明させ、夫の遺体を見せた。


その姿を見たマルベーラは泣き叫ぶ事無く、静かにその遺体を見ていた。


「………」


屋敷の地下の部屋に置かれた死蝋の屍となった夫を見ながら、彼女は顎に手を当て考えた。


(こんなに早く亡くなるなんて………どうしようからしら……)


ロナードは、そんな姿のマルベーラを見つめていた。


(………やはり……あまり悲しんではおられんな……分かっていたことだが……)


ロナードは、いつもこの女が主といるときに、つまらなさそうにしていたのを見てきた。


(しかし……涙一つ……感謝の言葉一つ……ありはしませんか……)


執事の男がそんな事を考えている中、マルベーラは突然、何かを思い出した。


(―――そうだ!こんな所にいたってしょうがないんだったわ!)


彼女は、ロナードに話しかけた。


「ロナード、あの子はこの事を知っているのかしら?」


ロナードは、亡き主人に白い布を被せた。


そして、立ち上がるとマルベーラに答えた。


「今日、バンゲリス様が運ばれてきた所でして……先ほど、お二人にこの事をお知らせする手紙を書いていたところです……」


彼の説明を聞いた彼女は、妖しい表情になった。


「……と言うことは……知っているのは私だけって……ことよね?」


ロナードは、少し拳に力を加えながら、答えた。


「(あまり好ましくない状況になりそうだ……しかし、嘘を付くわけには……)……はい……そうです。奥様……」


それを聞いたマルベーラは、この場でするような顔ではない表情になっていた。


「ふふっ……そう……」


彼女は満面の笑みを浮かべ、すぐに地下のこの部屋から出ようとした。


それをロナードが止めた。


「………奥様!」


マルベーラは長い髪と美しい花柄のドレスを翻し、振り返った。


「何かしら?」


振り返ることで、彼女の身に付いている香水の香りが、ふわりと風となって、ロナードの元へ運ばれてきた。


非常に強く甘い香りのする香水だった。


ロナードは、この女の香りがずっと嫌で仕方なかった。


しかし、表情一つ変えることなく、彼は答えた。


「バンゲリス様より、遺言を承っております………」


「そんなもの、あの人……書いていたの?」


「……はい」


「じゃあ、見せて頂戴」


「それは、出来ません……」


そう言われた彼女は、見る見るうちに不機嫌な表情になり、執事を睨み付けた。


「………どういうこと?」


「審議会の印が入った正規の物なので、審議会の方へ預けられております。そして、お二人が揃う日に、この屋敷へ届けられ、双方の前でそれを読むと言う段取りでございます……」


審議会に遺言を預けることで、預けた者が死んだ時、その遺言の内容は、遺族の前で読まれた後、公に開示されることになっていた。


「面倒なことを………」


「ですから、奥様と言えど、規則には従って頂きます」


「ふんっ、わかったわよ!………だけど、何が書いてあったのか、あなた知っているの?」


「一切存ぜぬことで、ございます……」


マルベーラは、ロナードの言葉を信用しなかったようだった。


疑いの眼差しを彼に向け、尋ねた。


「………本当でしょうね?」


そんなマルベーラの態度に、ロナードは正面から堂々と彼女を冷たく睨み付けながら答えた。


「ええ、本当でございます……なんなら、お調べになりますかな?」


「いいわよ、もう!!」


そしてロナードは、手紙を他のゴレアの者に送った。


その日の夜深く、屋敷の中から、誰かが出て行くのをビーグルが見ていた。


(あれは………確か、マルベーラ奥様と一緒に来ていた使用人の男だ………)


男は馬に乗り、屋敷の敷地から周囲を警戒しながら出て行った。


(こんな時間に?どこへ……?)


ビーグルは、何かを感じ取った。


彼もすぐに馬に乗り、使用人の後を追った。


(こいつは、臭うな……)


だが、屋敷を出た所で、すぐに見失ってしまった。


(くそっ!出るのが遅かったか………だが、足跡は残っているな……これは、西の方角だ……どうする……追うか?それとも、ロナードさんに知らせるか……)


そこで、彼は思い出した。


(そうだ……俺は遺族に説明しなきゃだめなんだったな……それに……俺には関係の無いことだ……だが、一応は知らせておくか……)


すぐにビーグルは、この事をロナードに知らせた。


ビーグルの話しを聞いたロナードは、驚いた。


「もう手を打ってきたか……抜け目の無い女だ……」


彼は何かに気付いた。


「西に向かったと言ったな?ビーグル」


「はい、足跡も残っていますよ」


「西か……ビーグル、悪いが、お前に頼みたいことがある」


「なんでしょう?」


「直ちに、お前も西に行き、中央のレイアークへ向かえ」


「レイアークですか?」


「……そうだ……そして、ラドルフィア魔法学院に赴き、直接お迎えに行くのだ」


「じゃあ、もう一人の方は?」


「東のバルディバには信頼できる者を、すでに向かわせてある……だから、心配はないはずだ……」


「分かりました!じゃあ、一っ走り行って来ます!」


「ああ、頼んだぞ!」


すぐにビーグルは、島の中央の町レイアークへ向かうため、部屋を出て行った。


しばらくすると、ゴレアの館を出て行く、ビーグルの姿があった。


その後ろ姿を、遠くからロナードは見つめていた。


(これは良くない事になりそうですぞ……早く来てくだされ……若様……)


そして、数日が経った後、続々とゴレアに関わる人々が集まった。


皆、バンゲリスの遺体に面会し、彼の死を悼んだ。


そして、大半の者が集まったとき、ようやく、ロナードの目的の人物は現れた。


ロナードが屋敷の玄関で、気を揉みながら待っていると、かなりの速度を出した馬車が、彼の目の前に滑り込むように止まった。


馬車から飛び出るように、その者は現れた。


待ちわびていたロナードは、すぐに声をかけた。


「―――若様!!」


「ロナード!」


現れた人物は、バンゲリス・ゴレアの最初の妻との間に産まれた子で、名を『アレク・ゴレア』と言った。


野望と自身に満ちた目を持ち、刺繍の入ったフロックコートを着て、やや長い髪を後ろで一つに束ねた髪型をした青年だった。


彼は、このゴレアの正当なる後継者である人物だった。


東のバルディバで、商業を学ぶため、学生として大学に通っていたところ、今回の訃報を宿泊先の寮で聞いたのだった。


声をかけられたロナードは、悔しそうに、アレクに話しかけた。


「若様………遅うございましたぞ………すでに、あの女めに、西の権益をほとんど持っていかれました……」


「………なんだと!?」


「西側の店のほとんどを、あの女の息のかかった人間で固められております。貿易の航路も何本も………そして、幾人かの親類縁者から、あの女と子供にゴレアを継ぐものとして認めても良いと申しておる者も出ております……どうやら、前から準備をしておったようです……」


「慣習から言えば、私が後継者のはず……それに、まだ父の遺言は誰も見てはいないのだろ?」


「ええ、それに関しては、お二人が到着しだい、目の前で私が封を切り、読み上げることになっております……ですが……すでに、このような事態になっているとは……」


それを聞いたアレクは茫然自失となり、地面を見つめた。


「してやられたのか………」


アレク達が悔しそうに話しをしていると、後ろから声がかけられた。


「あら、やっと到着したのね……ふふっ……あなた……遅いわよ?」


マルベーラが、冷たい微笑を浮かべながら、二人の目の前にいた。


そして彼女の後ろには、息子も隠れるようにいた。


今日も彼女は、大胆に胸元の大きく開いた青紫のドレス姿で現れていた。


アレクは、歯と拳に力を込め、女をにらみ付けた。


(―――この女!よくも抜け抜けと………)


彼の強い怒りを感じ取ったロナードは、すぐに小さい声でアレクに話しかけた。


「………若様……ここは耐えてください……」


執事にそう言われたアレクは怒りをなんとか押し込め、すぐに表情を元に戻した。


彼は平然を装い、マルベーラに話しかけた。


「これは、母上……お元気そうで……我が弟も元気そうで良かったです………ティゲル、また少し大きくなったんじゃないか?」


アレクは、弟の頭に手を伸ばした。


すると、すぐにマルベーラが彼の前に立ちはだかった。


「―――よして頂戴!」


「おや……母上、兄弟の挨拶ですよ?」


「この子は少し体調が悪いの……ティゲル、あなたは部屋に戻っていなさい!」


「そうですか……それは残念です……(私が何かすると思ったのか……そんな狭量なことはしない……)」


ティゲルは、不満げな表情をして、この場から去っていった。


最愛の息子が出て行ったことで、彼女は先ほどの余裕を取り戻していたようだった。


「それより………あなたも、元気そうで良かったわ……きっとお父様のお言葉を聞けば、もっと元気になるんじゃないかしら?」


そう言って、再び不気味な笑みを浮かべた。


若きゴレアの後継者は、そんな彼女の悪意を気にもせず、笑顔で返した。


「ええ、母上、お互いそうなれると良いですね」


二人は、しばし冷たく見つめ合った。


(汚らわしい女め………ただの愛人で終われば良いものを……調子に乗って、この由緒あるゴレアの簒奪をも企むか!………お前には、渡しはしない……―――絶対に!)


(アレク……しばらく見ない間に、随分と大人になったわね……これは、少しだけ厄介になりそう……だけど、もう既に勝敗は決しているわ……残念ね………ふふふっ……)


ここで二人は、真の敵同士となった。


その後、屋敷で盛大な葬儀が執り行われた。


白い建物の中、悲しげな笛の音色が響いていた。


墓の中に埋められていく父親の棺を眺めながら、アレクはバンゲリスの事を思った。


(父よ……あなたは、私たちと母の思い出だけで、生きていくには辛かったのですか?………そうなら……少しは私にも話してくだされば………そうすれば……あのような女に……)


マルベーラは、ティゲルの片手を握りながら、表情のない顔で、夫の棺桶が埋まっていくのを静かに見ていた。


(もう少しだけ……長生きして欲しかったのだけど………まあ、いいわ………あとは自分でやるから………あなたは、そこで見ていて下さいな……私がこの家の富を使って、華麗なる日々を送り、その生を全うするのをね………)


アレクの母が亡くなる前のバンゲリスは、愛妻家だった。


そして豪快さと繊細さを併せ持った人物でもあった。


様々な女に手を付け出したのは、妻が病に倒れてからだった。


アレクは良く父親に連れられて、様々な町へ行っていた。


その度に母への土産を買い、それを渡すと母は喜んでいた。


そんな母の顔を見るのが父は好きだったのを、アレクは覚えていた。


(そんな日々は……遥か遠く……か……)


棺にかけられた土が、全てを包み込んだ。


鳴っていた笛の音は、アレクの心に染み渡たった。


彼は窓の隙間から外の空を見た。


ちょうど太陽が雲に隠れていく瞬間だった。


それをアレクは切なげに見た。


(歴史あるゴレアは、これから岐路に立たされるかもしれません……あなたは何をお望みなんでしょう……私はそれに答えることが出来るでしょうか?………父さん……)



そして、遺言の内容が明かされる日がやってきた。


館の部屋の中に人々が集まっていた。


その部屋へ続く長い廊下にロナード、アレク、そしてマルベーラ、息子のティゲルがいた。


待っていると、マルベーラがアレクに話しかけてきた。


「アレク………どんな内容でも、恨むような事は無しよ、いいわね?」


「母上、それはあたなとて同じ事です」


その答えが気に入らなかったのか、マルベーラは「ふんっ!」と鼻を鳴らし、アレクを睨み付けた。


二人が火花を散らしていると、この家の使用人の男が現れ、ロナードに声をかけた。


「ロナード様……そろそろ……」


「そうか……わかった……」


ロナードは、二人に声をかけた。


「お二人とも、準備が整いましてございます……」


そして、二人は館の中央にある大広間へ移動した。


移動する中、アレクは気になっていた事をロナードに尋ねた。


「ロナード。ミィーの奴は、まだ来れないのか?」


ロナードは表情を曇らせた。


「………そのことですが……ミィーチェ様は……まだ来られておりません……どうやら、マルティウス地域とゾイル地域の境で何かあった様子でして………」


アレクには、妹がいた。


名を『ミィーチェ・ゴレア』と言った。


彼女は、西のレイアークの魔法学院に通っている学生だった。


母親が亡くなった時のショックで、あまり話すことや笑顔を見せることの無い人物だった。


それを気にして彼は、「同年代の友人でも作れば、少しは改善されるかもしれない」と思い、ラドルフィア魔法学院へ、妹を送り出していた。


「そうか……葬儀にも来れなかったんだ……あいつは……しかし、このことは聞かせなくて良いのか?」


「後継者となる可能性のある男子がいれば問題はないそうですので………それに……残念ですが、早めに動きませんと、不味いのでは?」


「………そうだったな……ミィーには私から話しておく」


「申し訳ございません……(ビーグル……何をしておる……)」


ロナードは、準備のため、一人部屋の奥へ足早に去っていった。


アレクとマルベーラとティゲルは、少しの間をおいてから、部屋に入った。


この部屋は、この館で一番大きな部屋で、普段は晩餐会や舞踏会などに使用される部屋でもあった。


人が100人以上入っても、十分余裕が出るほどの大きさだった。


そこに、ゴレアに関わる人々が集まっていた。


アレクは、その人々に軽く挨拶をしながら、部屋の奥で遺言を持って直立している執事の元へ向かった。


(ここにいる全ての人が証人となるのか……さて……これがどう働くことになるのやら……)


アレクとティゲルを伴ったマルベーラは、ロナードの目の前にたどり着いた。


ロナードは、目の前にいる二人のちょうど中間を真っ直ぐ見つめていた。


アレクとマルベーラが背筋を伸ばし、直立不動となると、周囲の人々の話し声が途絶えた。


辺りは一瞬にして厳粛な空間となった。



そんな中、使用人が二人現れ、ロナードの目の前にある木の箱に入った遺言を二人で箱ごと持ち上げた。


木の箱は新しい木で出来ていて、表面にはゴレアの家紋である翼を広げた鷲のマークの焼印が施されていた。


ロナードが一歩その箱に歩み寄り、アレクとティゲル、マルベーラの順に視線を送った。


3人は無言で頷き答える。


「………」


それを確認すると、ロナードは慎重に箱を開けた。


中には真っ赤なリボンで結ばれ、巻物のように丸められた紙があった。


ロナードは、それを取り出した。


(旦那様……)


彼は二人の使用人に、縦にその紙を持たせた。


ロナードは懐から銀のナイフを取り出し、そのリボンを切った。


はらりと、リボンは床に落ちる。


完全に切れ落ちた事を確認したロナードは、遺言を手に取り、両手で紙を広げた。


目に入った文章に、彼は、一瞬目を細めた。


(…………これは………)


だが、それも束の間のことだった。


すぐに執事の男は、朗々たる声で文章を読み上げた。


「―――一つ!ゴレアを継ぐ権利を有する者は、アレク・ゴレア及び、ティゲル・ゴレアとする!」


周囲の人々から、僅かにどよめきが起こった。


「―――オオォォー!」


それを聞いたアレクの顔が厳しいものとなった。


「………くっ!」


逆にマルベーラは喜んでいた。


「………ふふふっ……」


ロナードは、更に読み上げる。


「―――二つ!以下のことを成し遂げた者に、ゴレアを託す!」


それは、単純明快な言葉だった。


「―――ゴレアを継ぐ者よ、『メルティウスの鷲』となれ!」


【メルティウス】


商人と旅人の神。


メルティウスには、6匹のしもべ『メルティス』が存在した。


鳩、鹿、ユニコーン、鷲、獅子、龍である。


商人の間では、上位6位までの商会を敬意を込め、しもべのメルティスに例えた。


ゴレア商会は、黒い霧に覆われる前から存在していた古い商会だった。


そして、この商会は最高3位まで登りつめたことがあった。


その時に、ゴレア商会は『メルティス・イーグル』と呼ばれていた。


彼らは何年もその座に君臨し続けた。



今は亡き父バンゲリス・ゴレアは、「かつて先祖が登りつめた場所まで辿り着け」と、自分にそう言ったのだと、アレクは思った。


(そこは……今いる所から程遠いところにある……そこへ辿り着けと………あなたは言うのですか………群島を発見したあなたでさえ、辿り着けなかった、その場所へ………)


そして遺言には、更に詳しいことが書いてあった。


ゴレア商会が上位3位に入った瞬間に、より多く儲けを出した陣営がこのゴレアを継ぐと言うことだった。


アレクは、聞きたい事があったのでロナードに尋ねた。


「………期間は?」


尋ねられた執事の男は、苦しさと切なさが混ざったような表情で、答えた。


「私の命が……尽きるまでと………書いてあります………」


(ロナードの………)


マルベーラもロナードに聞きたい事があったようだった。


「頑張っても辿り着けない場合は、どうなるのかしら?」


「その場合は……全ての権利を放棄し、商会を解散させるとのことです………」


それを聞いたアレクとマルベーラは、今日一番の険しい表情を見せた。


執事の発した無慈悲な言葉に、周囲の人々が思わず、驚きの声をもらした。


「……なんと!?」


「これはまた……」


アレクは、自身が当然のごとく、後を継げると思っていただけに

、自分がこれからどうして良いのか、分からなくなってしまっていた。


(………父よ……あなたは……私に……)


そんな状態のアレクとは違い、マルベーラは考えを巡らせていた。


(………思った以上に高い壁を用意していたのね……バンゲリス……アレク以外の敵がいたなんて………だけど……そうね……すぐに動いて……あれを……)


そこで彼女は行き着いた答えに満足したのか、僅かに笑みを浮かべた。


「ふふっ……(いいわ……やってやるわよ……なんとしても……)」


肩を落とし、落胆したアレクとやる気を漲らせたマルベーラ。


それぞれが違う反応を見せた、この非情なる儀式は終わりを迎えた。


周囲の人々が3人に声をかけ、去っていく。


マルベーラはアレクに軽く声をかけると、ティゲルと共に足早にこの場を去っていった。


「それじゃ、アレク。お互い頑張りましょう……メルティスを目指して……」


ほとんどのものを、あの女に奪われた状態での始まりを余儀なくされた彼は、頭の中が真っ白になり、その場に立ち尽くしていた。


(………こんな状態で……どうすれば……良いのだ……)


去っていく中、マルベーラは、心の中でアレクの事を考えていた。


(アレク………あなたは飢えたことや絶望に暮れたことなんて一度もないんでしょうね………私は……あるわ……)


マルベーラもまた、ビーグルと同じ貧民の出であった。


(生きるために嫌いな男に身を捧げ、泥をすすり、時に血を流してきた私とあなたでは、富に対する思いの深さが違うわ……ただ、その家に生まれたと言うだけで……その地位を得ようなんて………)


そこで彼女は、先ほどの彼の表情を思い出していた。


(ふふっ……だけど、それも今日で終わりね……まあ、せいぜい頑張りなさいな……)


その身一つで成り上がった女は、かつて一度だけ本気で愛した男が好きだった香りをその場に残し、館を去っていった。


落ち込んだ状態のアレクを見たロナードが、声をかけようと歩み寄った。


(若様………)


その時、彼の肩に手を置き、話しかけてくる者がいた。


「―――アレク!」


アレクは力なく振り向いた。


「……!?………あなたは……」


彼に声をかけたのは、西のラーケルでラプルの果樹園を営んでいるウォード家の当主フィリップ・ウォードと妻のヘルガ・ウォードだった。


ウォード家は、ゴレア家と遠い親戚関係にあった。


この夫婦は、東のバルディバで妻のヘルガが富裕層向けの一点物の服の店を出すために、この町にある別荘に寄ったときに、今回の訃報を聞き、すぐに駆けつけていたのだった。


そして、妻のヘルガは、アレクの母と同級生で仲の良い友人でもあった。


そのため、今回、葬儀と遺言の儀にもきていたのだった。


彼の肩に手を置いていたのは、妻のヘルガだった。


彼女は彼を自分の正面に向かせ、真っ直ぐアレクを見つめ、話しかけた。


「アレク、あの女はすでに動き出したわ。あなたは、ここで何をしているの!?」


現実を突きつけられたアレクは、苦しい表情で答えた。


「………分かっています……ヘルガ様……今日は驚くことが多かったので、少し動揺してしまっていたようです……」


すかさず、夫のフィリップもアレクに近づき、話しかけてきた。


「大丈夫かい?アレク君……(少しばかりの動揺ではないな……これは……)」


ヘルガは亡き友人のためもあったが、愛人と言う存在もまた許せることができなかった。


それは自分自身が、その存在によって苦しめられたからであった。


(あんな女が人の家に突然転がり込んできて……私の友人が愛したこの家に……我が物顔で、のさばるなんて………絶対に許すことなんて出来ないわ!!)


激しい怒りと憤りをヘルガは感じていた。


「アレク、私があなたの商人としての第一歩を歩ませてあげるわ!良いわね、あなた!!」


フィリップは、怒った妻に怯えるように答えた。


「わ、わかっているよ、母さん……私はいつでも母さんの味方だ……だから母さんの思うようにやるといいさ……」


アレクは、彼女の言葉が何を意味するのかわからなかった。


「……それは、どういう……?」


フィリップは、すぐにその言葉の意味を理解したようだった。


「もしかして……母さん、あれを彼に渡すのかい?」


「……ええ。今がその時だと思うの。あなた、いいかしら?」


「ああ、かまわないよ母さん。私も今だと思うよ」


ヘルガは、アレクに話し始めた。


「アレク……実は……」


ヘルガの話の内容は、アレクの母『リーザ』が生前、屋敷の屋根裏部屋を使用人に掃除させた時、大きな木彫りの人形が倒れた。


そして人形にひびが入り、砕け散った。


すると木彫りの人形の中に、魔法で封印された球根が大量に入っていることに気がついた。


彼女は、それを友人でもあるヘルガに見せた。


気になったヘルガは、それを自身の土地にある畑に植えた。


すると、そこから生えたのは、薄い紫色の花びらに長く赤色のめしべを持った花だった。


そしてそれをヘルガは大図書館で調べた。


そこに載っていたのは『サフラン』と言う花であった。



【サフラン】


長く赤いめしべと薄紫色の花びらが特徴的な花。


めしべの部分が染料や香辛料、お茶として使える。


そして使用すると、明るい黄色が現れる。


しかし、一つの花から収穫できるのが僅かであるため、大量の花が必要となる。


そのため、非常に高価な物。


香辛料やお茶として利用する場合、痛みや気持ちを和らげる効果があり、また過剰摂取は体に良くないと言われている。



しかも、そのサフランは使用してみると、魔力の自然回復力がしばらく増すと言う効果もある、特殊な魔法のサフランであった。


アレクは驚いた。


「そんな物があったとは……」


フィリップは、彼の肩に手を置き優しく話しかけた。


「君の母の唯一の遺産だ。いつか君に使ってもらおうと、話していたんだよ………(こんなに早く話す時が来るとは思わなかったがね……)」


「ずっとリーザが大切にしていたものよ………『たくさん花を咲かせれば、あの子達に何かあっても、大丈夫だろう』って………」


アレクは母の思いに感謝した。


(そんな事まで考えていてくださったのか……母よ……心より感謝します……)


「だからあれは、あなたの物よ。数は収穫して儲けがそれなりに出るぐらいはあるはずよ。それからうちのラプルも、あなたと取引することにするわ。あの女には、ただの一つも売りはしないわ!そうよね?あなた!」


突然そう言われたフィリップは、両手のひらを妻に向け、彼女の興奮を抑えようとしながら話した。


「そ、その通りだよ、母さん……アレク君、うちのラプルは、君に優先的に回す事にしよう………母さん、だけど、とりあえず、落ち着いて……」


「そうと決まったら、すぐに魔法のサフランの収穫のために、私たちは帰るわ」


「ヘルガ様……本当にありがとうございます……なんとお礼を言って良いのやら……」


「アレク、これは他愛も無い小さな一歩よ。だけど、そうやって進んで行きなさい。それをいくつも積み重ねるの……誘惑に負けて変な物に手を出しては駄目よ……大変だろうけど最後までやり通しなさい!あたし達に、他に出来ることがあるなら、何でも言って頂戴。いい、遠慮は無しよ?ここを大切に思っているのは、あなただけではないの………」


そう言ってヘルガは周囲を見渡すと、今は亡きリーザのことを思った。


(リーザ……後はまかせて!)


僅かだが希望が見えたアレクは、少しだけ元気を取り戻したようだった。


「はい……やって見せます……ここから……」


そして、ウォード夫妻は、館を去っていった。


あとに残されたのは、アレクとロナードのみとなった。


「若様……少しは、やる気が出たようですな……」


「ああ、あの二人には感謝しても仕切れないほどだ……ロナードは、あのサフランの事は知っていたのか?」


「ええ……奥様がたまに、ウォード家を尋ねられた時に、何度か御一緒いたしました……」


「そうか……」


ロナードは、その時の光景を思い出していた。


「大変美しい場所で御座いました……一面に、サフランの広がる景色があり………そこへ緩やかな風が流れ……青空が広がり……暖かな日差しを受けながら、みなで昼食を共に致しました……それはもう、のどかで平穏な時でした……」


「私ももう少し、家にいれば良かったのかもな……」


父に付いて回る日々だった彼は、家にあまり居ることが無かった。


そしてその後も、バルディバの学校で寮生活を送っていた。


だから、母や妹とはあまり話せていなかった事を思い出した。


二人の事を考えていると、隣に居たロナードから声がかかった。


「若様……」


「どうした?」


「私は、バンゲリス様のお言葉を守るため、この屋敷におります」


遺言には、ロナードは、「どちらの側にも加担してはならない」と、書かれていた。


アレクはそのことを思い出した。


「そうだったな……」


「若様……私は、あの女が嫌いです……そして、このゴレアをあなたに継いで頂きたいと思っております……」


「ロナード……」


「……ですが、旦那様のお言葉は、守らせていただきます……これが私の最後の務めであると思っておりますので………」


「ああ、お前は良くやってくれた……だから十分だ……」


「ですが……あなたお一人では、厳しいと私は判断いたします………そこで、私の代わりに、一人若様にお預けしたい者がおります」


「………私にか?」


「本当は、我が息子があなた様に、付いていくことが出来れば良かったのですが………」


「ロナード……それは言うな……」


彼の息子は、この家で働いていた。


しかし、積荷を積んだ貿易船に乗り込んでいた時、クラーケンに襲われ、行方不明になっていた。


アレクは、その日の事を思い出した。


「ロナード……ロイシュは良くやってくれた……」


息子の名はロイシュと言い、陽気な性格の人物だった。


幼少のころアレクは、良くロイシュと遊んだことがあった。


「人を驚かせたり……壊してしまった物の隠し方だとか……悪いことはみんな、あいつが教えてくれたんだ……ふふっ……」


「ははっ……そうでしたか………」


そして、笑顔を見せたロナードは気持ちを切り替え、表情を元に戻すと扉の向こうへ声をかけた。


「誰か、呼んできてくれ!」


「はい!」


そしてしばらくすると、その者は部屋に現れた。


木の扉の音がすると、しっかりとした足取りで歩いてきた。


アレクは、視線をその者へ向けた。


「………まだ、子供ではないか……ロナード……これは……?」


それは、ロナードと同じ執事の服に身を包んだ少年であった。


ロナードは、その少年に近づいた。


「若様に挨拶を……」


「はい、お爺様!」


少年は、右腕を折ると、胸元へもっていき、ゆったりとした動きで頭を垂れ、名を告げてきた。


「若様、僕の名前は『ロベル・カルセベス』と言います。これから、身の回りのお世話を僕がしますので、よろしくお願いします!」


「カルセベス?………」


「ロイシュの息子で私にとっては孫で御座います……」


「ロイシュの……」


少年の顔をアレクは見た。


明るい茶色い髪で誠実で純真な瞳を持った少年で、ロイシュの面影を僅かに残した顔立ちをしていた。


そして彼は、笑顔でアレクを見ていた。


「ロナード……私のこれからの戦いには、このような子供を連れいくような余裕はないぞ?」


「ご安心ください、若様……彼は、こう見えても、洗濯や掃除、食事や若様の身の回りのお世話、それから戦士としての修練も積んでおります。本来は西のラーケルのファージア冒険者学校へ進ませる予定であったのですが……今回の事がありましたので、急遽取り止めさせたので御座います」


「……ロナード……」


「あなた様に付いて行けない代わりに、我が孫と共に、覇業を成就させて下さいませ」


アレクは、ロナードの孫の名を呼んだ。


「ロベル」


「はい、なんでしょう?」


「お前は、学校に行きたくは無いのか?」


ロベルは、すぐに返事を返してきた。


「若様のお役に立つための学校です……ですから、それが少し早くなっただけのことだと思っています……どうかお気になさらずに!」


嘘偽りの無いものをアレクは、彼の言葉と表情から感じた。


(随分前から、備えていたようだな………何の準備もしてこなかった私とは……大違いだ……)


アレクは最初、ロベルを「学校へ行かそうか」と思った。


しかし、今はどんな手でも借りなければならない時であったのを、すぐに彼は倒すべき相手の顔と共に思い出していた。


(そうだ……今は、そんな余裕など無いのだ……)


アレクは自分の不甲斐無さに気付き、ほんの少しだけ自嘲する笑みを浮かべながら、ロベルに手を差し出した。


「………わかった。よろしく頼む……ロベル」


そんなアレクとは違い、少年はやる気を漲らせて返事をすると、遠慮がちに手を伸ばした。


「はい!」


そんな二人の下へロナードが歩み寄った。


「若様……申し訳ございませんが、私に出来ることはこれだけで御座います……後は、あなた様の実力を持って、あの女を打倒してください……」


「現状を言えば苦しい……だが、お前は十分にやってくれた。礼を言う……」


ロナードは一礼した。


そして顔を上げ、アレクに力を込め、言葉を発した。


「若様………バンゲリス様は常に『ブルー・オーシャン』を目指してきました。あなたはどうなさいますか?……よく考え、よく悩み、苦しみ、そして成長されることを、私は望む者であります………それはきっと亡きご両親も同じはず……」



【ブルー・オーシャン】


競争相手のいない未開拓な市場。


もしくは、自ら価値を見い出し、作り上げた領域。


また、競争の激しい既存の市場を、血の海に例え、【レッド・オーシャン】と言う。



ロナードは、その言葉を残し、部屋から出て行った。



残されたアレクは、しばし目を閉じ考えた。


(青き海か……う~ん……これからどうするか………)


黒い霧が晴れたことで、バンゲリスは東の海に賭けた。


莫大なお金をつぎ込み、東の海域を調べ上げた。


しかし、見つかったのは、あの群島のみだった。


西に進出するのが出遅れてしまった彼は、その後、ようやく西にいくつかの拠点を築き上げた。


だが、それはあの愛人だった女に持っていかれてしまっていた。


(どうにかして、西へ………)


ロベルが話しかけてきた。


「若様、どうしますか?」


「そうだな……とりあえずは、妹の到着を待って………その間に、何が出来るか……調べておくか……」


「じゃあ、僕は何を?」


「しばらくは、この館が拠点となるはずだ……だから持って来た荷物の整理がまだなんだ……それを頼む」


「わかりました!」


ロベルは早速、与えられた初仕事をこなすため、すぐにこの場を去って行った。


「……では……私もやるか……」


そしてアレクは、準備のため、西にいるマルベーラに従う者たちへ、手紙を書いた。


どちらに付くのか?


よりはっきりと、させておきたいと彼は思った。


(ふふっ……脅しの要素も入れ、揺さぶりもかけておくか……まあ、あまり期待はせんが……)


そして、数日が経った。


アレクは、色々調べたが、このままでは、かなり厳しい現状があると言う事だけが分かった日々だった。


アレクは、いらだちから軽く机を叩き、立ち上がった。


「―――駄目だ!……どう考えても……どこも厳しい……ほとんど何も残っていないに等しいな……寝返る者もいないだろうし……これでは、ウォード夫妻にもらった一歩を踏んだところで終りだな……」


彼が弱気になったとき、館の外から音が聞こえた。


アレクは何気に、音がした場所を見た。


「―――ん、誰かやって来たのか?」


それは馬車がやって来る音だった。


そして、すぐに馬車から出てきたのは、見慣れない男だった。


(………誰だ?、あいつは……)


遠くからだったため、中年の男だということしか分からなかった。


しかもその人物は、何やら慌てた様子だった。


(今ごろ、我が館にやってくるとは……一体……)


気になったアレクは、その場所へ向うことにした。


そして彼が部屋から出た時、馬車の中からもう一人の人物が現れていた。



アレクが館の入り口に到着すると、すでにロナードとロベルがいた。


そして、先ほど現れていた男と話している最中だった。


ロナードは、珍しく怒りを表に出しているようだった。


「―――遅いぞ、ビーグル!何をしておった!?」


先ほど、この館に到着していたのは、中央のレイアークに向っていたビーグルだった。


ビーグルは、すぐに釈明をし始めた。


「ま、待って下さい。ロナードさん!これには訳がありまして……」


彼は、説明をし始めた。



レイアークに辿り着いたビーグルは、ロナードから頼まれた役目を果たすため、ラドルフィア魔法学院に向かった。


彼が執事の男から頼まれたのは、アレクの妹のミィーチェを迎えに行くと言う役目だった。


あの夜の日に、マルベーラの使用人が西へ行ったと聞いたとき、ロナードは、「ミィーチェに何かあってはいけない」と思い、すぐに迎えを出すことを決め、ビーグルに行かせたのだった。


その役目を果たすため、ビーグルは町に到着すると、すぐに学院のある敷地へ向かい、そしてそこへ辿り着いていた。


彼は周囲を見渡した。


ちょうど、今日は学院の授業の無い日らしく、学生たちの姿は、まばらだった。


(ここには初めて来たが………良いところのガキばっかりみたいだな……高価そうなものを身に付けてやがるし……顔もどことなく品があるな……俺とは大違いだ……)


「彼らのような生き方もしてみたかった」と、ビーグルは羨ましそうに学生たちを見ながら、目的の場所へ進んだ。


(とりあえず……学生寮に行けばいいんだったな……しかし……広いな……ここは……こりゃ、誰かに聞いたほうがいいのかもしれないな……)


そして彼は、学生や教師に、ミィーチェの事を聞きながら歩くことにした。


聞きながら歩いていると、尋ねた学生の一人が彼女と友人らしく、ミィーチェは先ほど、他の友人と二人で、町の市場へ買出しに出かけたと言うことだった。


(くっそ……入れ違いか……しょうがない、町に戻るか……市場だったか……)


ビーグルは、すぐに引き返した。


そして学院の敷地から町の中へ入った時、横から声がかかった。


「おっ!………珍しいな、ビーグルじゃないか」


(……誰だ?)


ビーグルは、声をかけて来た者を見た。


それは、無精ひげを生やし、軽装をしたビーグルと同じぐらいの年齢の男だった。


男は、にこやかにしていたが、ビーグルはその人物を表情無くみていた。


「………ああ、あんたか……」


ビーグルのあまり良くない反応に、男は不満げな表情になった。


「おいおい、つれない返事だな。お前には、それなりに手を貸してやったってのに……」


この男は、情報屋をやっている男だった。


だが、裏の世界の浅い部分までしか知らないような情報の質だったため、あまりこの男を利用することはなかった。


男は食事を終えたところだったようで、口の周りに油がついていて、テカテカと光っていた。


彼は、その口で語りながらビーグルに近づいてきた。


「確か、お前さん、オリディオールから東にある場所に、島流し同然に連れて行かれたって聞いたが?」


彼の話を聞いたビーグルは困惑した。


「おいおい……どういう話になってんだよ……。俺は、ゴレア家が経営している富裕層相手の宿屋の支配人をやってるんだ。だから、出世したんだ。お前らとは、違うんだよ!」


ビーグルからそう言われた情報屋の男は一瞬驚くと、顎に手を当て、考える仕草をしていた。


「そうだったのか……分かった。俺の情報は、修正しておくことにする……」


ビーグルは、ただ呆れていた。


(これだからな……こいつは……。やはり、お前からの情報は取らない方がいいな……)


ビーグルはこの男と話しても時間の無駄だと思い、すぐにその場を去ろうとした。


「じゃあな……」


すると、男は何かを思い出していた。


「そうだ……ゴレアで思い出したぞ。お前……気をつけた方がいいぞ」


(……何の話だ?)


ビーグルは一瞬気になり、歩みを止めた。


しかし、「この男の言うことだ。気にする必要は無い」と思い、無視して道を進み始めようとした。


男は、そんなビーグルを気にすることなく、話続けていた。


「お前のいる商会……裏の商売にも、手を付け始めたって話だ」


「………!?」


その話を聞いたビーグルは、無視する訳にもいかないと思い、すぐに振り返り、男に近づき尋ねた。


「……おい、何の話だ?そんな話、聞いたこともないぞ?」


ビーグルの表情を見た男は、すぐに商売の臭いを感じ取った。


(ふふ……釣れた……)


そしてニヤリとすると、ビーグルに手を差し出した。


「………これ以上、知りたいのなら……お前さんも分かっているよな?」


(ちっ!こいつの情報は、あまり信用できないが、ゴレアに関する話なら、聞かないわけにはいかないか……)


ビーグルは、仕方なくといった感じで、ズボンのポケットから銀貨を一枚、親指で男の下へ弾いて飛ばした。


情報屋の男は、それを素早く片手で受け取った。


そして手を広げ、銀貨を見た。


「おいおい……ビーグル。これじゃ、俺の情報は売れないぞ?」


「なんだよ、まだ取るのかよ!」


「いいんだぞ?ビーグル。俺だって、これが商売なんだ」


男は、余裕の笑みを浮かべながらビーグルを見つめた。


「(こいつ足元見やがって……)………ああ、もうわかった!」


すぐビーグルは、苦々しく相手を睨み付けながら、もう一枚銀貨を飛ばした。


男は、嬉しそうにその銀貨を受け取った。


「へへっ………どうもビーグルさん……」


「ちゃんと教えろよ……」


情報屋の男は話した。


彼の話では、近頃あったヴィガル商会の解散の後、裏社会はその利権を巡って、争いが起こった。


そして、その争いにマルベーラも裏の人間と手を組み、参戦していた。


そこで彼女は、いくつかの裏の利益を獲得することに成功したと言うことだった。


(あの女……そんなことまでやっていやがったのか……)


ビーグルが呆然としていると、情報屋の男が尋ねてきた。


「ビーグル、風の噂で聞いたんだが……お前のいるゴレアの当主。名はバンゲリスだったか……彼が亡くなったと聞いたがどうなんだ?」


いずれ分かることだと思ったビーグルは、亡くなったと言う事だけを話した。


「やはりそうだったのか……ゴレアに所属する人間から直接聞いた貴重な情報だ。感謝するぞ」


ビーグルは、そこで思い出したことがあった。


「(そうだ……こいつが知っているかどうか分からんが……一応聞いておくか……)……おい、その情報をやった代わりと言っちゃあなんだが……お前に聞きたい事がある」


男は、ビーグルから手に入れた銀貨をポケットにしまってから話した。


「情報を教えてもらったんだ。いいぞ、分かる範囲でなら答えよう」


ビーグルは、気になっていた赤い薬の事を尋ねた。


「……人が木の根のような姿になって、変死するような薬を知らないか?」


そこで男の目つきが鋭くなった。


「………」


彼はそのまま、低い声でビーグルに話しかけた。


「………お前さん……誰か殺したい相手でもいるのか?……」


ビーグルは慌てて否定した。


「そ、そうじゃない!前に、そういうのを目撃したことがあってな……」


男は、そこで何かを感じ取った。


「まさか……ビーグル……バンゲリスの死と何か関係があるのか?」


ビーグルは、彼の鋭い質問にうろたえた。


「(くっ!……少し軽率だったか……)そんな訳ないだろ……」


情報屋の男は鋭い眼差しをビーグルに向けたまま、話した。


「いいぞ、ビーグル……隠したいのなら、そう言う事にしておいてやる……俺たちは裏の人間だ。お互い詮索したくないこともあるだろう。だから、これ以上は聞かないでおく……」


「そうか……それは助かる……」


「気にするな……それで、さっきの薬の話だが……聞いたことはある……」


「―――本当か!?」


「ああ……だが詳しくは知らない……」


「そうか……(やはり、裏で出回っているものなのか……)」


「もし、お前さんが更に詳しく知りたいのなら、調べてやってもいいぞ?」


ビーグルは少しの間、考えた。


(こいつに、できるのか?……だが、俺があの薬について聞き回っているってことになっても、厄介かもしれんな……はあ……しょうがない……)


ビーグルは、この情報屋の男に頼むことにした。


「分かった……お前に頼む……報酬は、お前がその情報を持ってきた時に払う」


「そうか……商談成立だ……まあ、まかせな……」


「(ちょっと不安だが……)ああ、頼む……」


そしてビーグルが本来の目的のために歩き出そうとした時、情報屋の男が再び何かを思い出していた。


「……そうだ……ビーグル」


ビーグルは、面倒臭そうに振り返った。


「なんだ、まだ何かあるのか?」


「いいか、ビーグル……このレイアークの町では、下手なことはするなよ」


「どういうことだ?」


「この町で、最近大きな事件があったのを知っているだろ?」


それは、ヴァルブルギスの日の事件のことだった。


ビーグルは、群島にいたときに、オリディオールから来た商人から、その話を聞いたことをすぐに思い出していた。


「……ああ、確か……悪魔に乗っ取られた学院の学生が、アンデッドを大量に町に呼び出したとか言う、あの物騒な話か?」


「そうだ、それのせいもあって、この町は今、厳重な警備をしいている」


「……なるほど……」


「それに、この町の自警将は、なかなかの切れ者だ……ヴィガル商会のように目をつけられたら終わりだぞ……気をつけたほうがいい……」


「わかった……忠告に感謝する……」


「それじゃあな……」


そして、二人は何事も無かったかのように、レイアークの町の中を普段どおりの足取りで、お互い違う方向へ歩いていった。


(お嬢さんを、探さないと……)


ビーグルは、町の中へと入って行った。


レイアークの町の市場で、二人の人物が他愛も無い会話をしながら歩いていた。


二人とも女の子で背は低く、学院のローブを身に纏っていることから、どうやら学生のようだった。


一人は、病的に白い肌を持ち、長く綺麗で切り揃えられた黒い髪を持っており、その髪にいくつか、赤い小さなリボンを付けた人物だった。


また、ローブの内側には、フリルの着いた服を着ており、腕には小さな人形が抱き抱えられていた。


綺麗な整った顔立ちで、遠くから見ると、人形が人形を持って歩いているようにも見えるほどだった。


そして、もう一人は、浅黒い肌に銀色の髪を持った女の子だった。


二人は、アレクの妹のミィーチェ・ゴレアとシュリン・マーベリックだった。


二人は同い年で、仲の良い友人同士でもあった。


エルディアが去ってから、シュリンは、ミィーチェと共に同じ部屋で過ごしていた。


ミィーチェは、学院で魔道師の勉強をすると共に、古代世界にあったクラス『ドールマスター』と言われるものを独自に調べている人物でもあった。



【ドールマスター】


人形使い。


様々な人形に自らの魔力を込めることで一時的に意思や知性を持たせ、しもべとして操ることができる。


人形によって性格や戦闘の技能など、できる行動が変わる。


また古代には、魔力を込めることなく、半永久的に自立して活動することができる、独立した人形もあると言う記録が残っていた。



部屋で一人で人形遊びをしていたことが多かった彼女は、様々な人形に興味を持った。


そして、本宅の彼女の部屋には、たくさんのコレクションがある。


素材や材質、姿かたちも様々な人形が所狭しと置いてあった。


そんな日々を過ごす中で、彼女は人形と会話をしてみたいと思うようになった。


気になった彼女は、本や資料を読み耽り、古代に人形使いなるクラスが存在した事を突き止める。


そこでミィーチェは、もっと深く調べてみたいと言う欲求に駆られた。


そして彼女がそんな事を考え出した時、そんな妹を心配した兄のアレクから魔法学院への入学を勧められたのだった。


ミィーチェは兄の提案を受け入れ、学院へ行くことを決めた。


そして現在に至っている。


今、彼女の手にある人形は、数ある人形の中でも一番大切にしていて、一番のお気に入りの人形でもあった。


これは彼女の母親リーザから貰った物で、ミィーチェが生まれて初めて手にした人形だった。


彼女は母親が亡くなったショックで、その寂しさから、人形を集めだした。


その事は、兄であるアレクも知っていた。


彼女が持っている人形は、『マジック・アンティーク・ドール』と言われる物で、特殊な素焼きの磁器で出来ていた。


それは古代の錬金術によって産み出された物で、柔軟性のある全身と柔らかい肌触りを実現している。


姿は、アンデッドの吸血鬼、ヴァンパイアに似せて作られており、青みがかった銀色の髪に、美しい顔立ちをした男性で、口を見ると二本の牙が見えており、黒い衣装の上に黒いマントを羽織っていた。


名前があり、名を『ゴードン』と言った。


この町にある大図書館で、調べた本の中にドールマスターの初歩的な本があった。


それを彼女は熱心に読み、必要な物を集め、その技術をゴードンへ使用した。


しかし、上手くはいかなかったが、その時の副産物として、ゴードンの眉毛と口がたまに独りでに動くと言う効果を得ていた。


それを見たミィーチェは笑みを浮かべたが、近くで見ていたシュリンは、不気味に感じていた。


たまにゴードンが謎の動きを見せると、ミィーチェはすぐにシュリンに見せ、彼女が驚くと、その反応を楽しんでいるような素振りを見せていた。


そしてその度に、シュリンは抗議の声を上げていた。


しかし基本的には、二人は毎日、協力し、助け合いながら学院生活を営んでいる仲の良い友人同士だった。


そして今日は久しぶりの休みで、シュリンが新しいレシピを作るため、外の大陸からもたらされた新たな食材がないか、見て回っていたところだった。


ここは、レイアークの入り口から近いところでもあり、人々の出入りが多いところだった。


そして、並べられている商品は様々で、衣料、日用雑貨、果実や野菜、穀物、そして工芸品などもあった。


シュリンは、ミィーチェと一緒になって、食材を手に取り、二人で感想を言い合いながら、見ていた。


「ミィーちゃん。これパンケーキに付けるジャムにどうかな?」


それは濃い赤色で、酸味の強いラプルの実だった。


ミィーチェは、静かに答えた。


「……うん、いいよ……シュリン」


「そう!じゃあ、これ買うね!………おばちゃん、これ頂戴!」


「あいよー!」


お店の老婆が返事を返し、ラプルを何個か、シュリンが持ってきた細い木の枝で編みこまれたバスケットに詰めていく。


シュリンがお金を用意して待っていると、ミィーチェが尋ねてきた。


「シュリン……これってすごい酸っぱい?」


シュリンはそれに答えた。


「大丈夫、煮詰めて蜂蜜と砂糖も入れるから、程よい酸味になるの!美味しいよ!」


「……そう……」


ミィーチェは、食べ物の好き嫌いがやや多い傾向にあったのを、シュリンは心配し、彼女が食べれる物の種類を増やすことを良く考えていた。


そしてラプルを買い終え、一通り、見て回った後、寮に帰る事にした時、突然人混みから、ミィーチェの名を呼ぶ声が聞こえた。


「―――ミィーチェお嬢さん!」


二人は振り返った。


するとそこにいたのは、ビーグルだった。


彼はこの市場に無事に辿り着くと、ミィーチェを探し始めた。


そして、幸いなことに、すぐに彼女を見つけ出すことに、成功していた。


(ふぅ……やっと見つけたぞ……とにかく、無事でよかった……)


ミィーチェは、きょとんとした表情で、ビーグルを見ていた。


隣に居たシュリンが、尋ねた。


「ミィーちゃん。知ってる人?」


ミィーチェは、ゴードンを両腕で抱きしめると、無言で頭を左右に振った。


ビーグルは何度か本宅へ行った時に、ミィーチェの姿を遠くから見た事があったため、知っていたが、彼女は知らないようだった。


そしてミィーチェが首を振ると、彼女の腕の中にいたゴードンが両方の眉毛を寄せていた。


その姿を見たシュリンは驚きながら、突然現れた男に聞いていた。


「(……うわっ、動いた!)……あの、ミィーちゃん、あなたのこと知らないって言ってますけど?」


ビーグルは駆け寄り、説明することにした。


「あの……自分は、ゴレア商会に所属する者でして……名をビーグルと言います……それで、今回ここに来たのは、お嬢さんの家で、問題が少々起こりまして……私がお嬢さんを迎えに行くようにと、申し付かり、ここに参った次第でございます……」


そこでミィーチェは、口を開いた。


「………問題?」


ミィーチェに怪訝な表情で、尋ねられたビーグルは、周囲を気にしながら答えた。


「……えーっとですね……ここで話すような内容ではないので……どこか、人気の無い場所で……」


その言葉を聞いたシュリンは、この男から何かを感じ取った。


(人気の無いって………この人……ミィーちゃんに、何かする気じゃ……彼女の家……とってもお金持ちだし……ミィーちゃん、可愛いし……このおじさん……―――あやっし!!)


どうやらシュリンは、この男を信用ならざるものと思ったようだった。


シュリンは、疑いの眼差しをビーグルに向けながら、尋ねた。


「おじさん………ゴレアの人間であると言う証拠はあるんですか?」


ビーグルは、一瞬固まった。


「(なんだ、このガキは……)こちらは御学友の方ですか……あっはは……証拠って……言われましても……とにかく、来て頂かないと私が叱られますんで……お嬢さん、まずはこちらへ……」


そして、ビーグルはミィーチェに近づき、彼女の肩に手を伸ばそうとした。


(―――!?)


それを見たシュリンは、すぐに二人の間に割って入ると、ビーグルの手を引っかいた。


突然の攻撃にビーグルは驚き、シュリンを睨み付けた。


「―――うお!何をしやがる?!」


ビーグルがうろたえている隙に、シュリンは彼の腕を両手でしっかりと掴んだ。


そして、決意を秘めた表情でゴレアの娘に向かって叫んだ。


「―――ミィーちゃん、逃げて!!」


「何てことを……俺はだな!」


シュリンの突然の行動に驚き、ビーグルは捕まえられた腕を振り解こうとした。


(くそっ、力いっぱい引っ張ってやがる!)


シュリンは口の形を真一文字にし、必死に抵抗した。


(ぐぐっ………絶対に離さないんだから……)


シュリンの思わぬ抵抗に、ビーグルは動くことすら間々ならなかった。


バスケットからラプルの赤い実が零れ落ちた。


(このガキ、見た目より力がありやがるな……)


そして彼が戸惑っている隙に、シュリンの言葉を信じたミィーチェがゴードンを抱きしめながら走り出した。


彼女が走り出すとゴードンの眉は、睨み付ける時に出来る様な、力強い意思を感じさせる形へと変貌していた。


ビーグルは慌てて声を出した。


「―――あっ!ちょっと、お嬢さん!!」


しかし、ミィーチェは彼との距離を離し始めていた。


ビーグルは力を出し、なんとかシュリンの手から逃れた。


そしてすぐに、ミィーチェの後を追った。


(……なんてことだ!)


相手に逃げられてしまったシュリンも、友人を助けるためにビーグルの後を追った。


「………ああっ!………こらー!まてー!」


そして彼女が走っていると、その途中でレイアークの町を巡回している自警団員を見つける。


(―――あっ!)


すぐにシュリンは、その自警団員に駆け寄った。


その自警団員は、西のラーケルから事件があった際に、応援に駆けつけていた若い自警団の男だった。


シュリンは、すぐに走り寄ると声をかけた。


「あの、すいません!」


女の子の緊迫した声を聞いた団員の男は、身構えながら険しい表情になっていた。


「(この感じ……何かあったのか?)どうしたんですか!?」


シュリンはすぐに説明した。


「あそこにいる、おじさん。人さらいみたいなんです!」


団員の男は驚いた。


「―――なんだと!?この白昼に、堂々とそのようなことをするのか!………許さん!」


「とにかく、捕まえてください!」


「わかった!この町の治安は、―――俺が守る!!」


シュリンが声をかけた団員は、どうやら正義感の強い人物のようだった。


彼はシュリンと共に、力強く走り出した。


そして、先頭にミィーチェ、その次にビーグル、その後をシュリンと自警団の団員がレイアークの町の中にある、石畳の道を走った。


すぐに追いつけると思っていたビーグルは、ミィーチェの意外な足の速さに驚いていた。


(………ミィーチェお嬢さんの足……随分と速いじゃないか……おい、―――どうなってる!)


彼女の靴は、真っ赤な色をした短めのブーツだった。


非常に高価な物で、魔法の効果もあるユニークアイテムでもあった。


これは、学院に入ると決まった時に、父親から貰った物だった。


また効果は、大地の地脈の力を使い、移動速度を上げることが出来る効果などであった。


彼女はその力を利用し、移動速度を上げていた。


ビーグルは焦った。


(今の状況………これは……不味いぞ……)


後方にいる二人の声が聞こえた。


「待てー!」


「無駄なことはやめるんだ!」


ビーグルは今の自分を客観視した。


(今の俺は………ただの犯罪者じゃねえか!……なんでこうなった……)


ビーグルは「絶対に捕まりたくない」と思いながら、必死に走った。


(とにかく、止まってもらうか、捕まえないと、言い訳も出来ん……)


彼らの走っている道の両脇に様々な店が並んでいた。


一番買い物客が多い時間は既に過ぎていたため、人通りはまばらだった。


そして、色鮮やかな果実がたくさん台の上に置かれている店の道を真っ直ぐ進むと、今度は十字路が見えてきた。


その十字路の中央には、大魔道師ウィハル・レイアークの石像があった。


ミィーチェは、その石像に向かって走っていた。


ビーグルは、彼女の名前を叫んだ。


「ミィーチェお嬢さん!待ってください!俺は怪しい者じゃありません!」


しかし、ミィーチェは彼の言うことを無視し、そのまま走り続けた。


(………くそっ、駄目か。全く聞いちゃいない……んっ!)


ビーグルは何かに気付いた。


それはミィーチェの走る速度が弱まってきたことだった。


(よし、これならなんとか、なりそうだ!)


そしてビーグルは、後方が気になり、振り返った。


(俺の後ろは、どうなってる?………)


シュリンと団員の男が相変わらず追ってきていた。


良く見ると、シュリンが魔法を唱え始めているのが見えた。


(あのガキ、魔法を使うつもりか!)


隣にいた団員の男がシュリンに話しかけた。


「君!町の中で、魔法を使用するのは、基本的には禁止されているんだ!君も魔法学院の学生なら知っているだろ!」


「緊急時です!それに、これは足止めの魔法です!」


身の危険を感じた時や、緊急の危機が迫った時などは、使用しても良いことになっていた。


シュリンの唱えている魔法はサンドフェッターだった。


それを見たビーグルは、走る速度を上げることにした。


(ここで捕まったら………最悪だぞ!)


弁解の機会を与えられる事の無いまま、牢獄へ入れられ、ゴレアの人々に迷惑をかけるとビーグルは思った。


(完全に首を言い渡されるぞ……そうなりゃ……俺の進む予定だった光に満ちた道が途絶えちまう………冗談じゃない!)


そして必死に走ったビーグルは、ついに彼女の背中へ触れられる事ができるところまで辿り着いた。


(………なんとか、終わりそうだ……)


石像に向かったミィーチェは、走った勢いのまま、ゴードンを足から像に押し付けた。


ヴァンパイアの人形は、ぐにゃりと曲がり、形を変えた。


そしてミィーチェが、石像に衝突するかと思われたとき、彼女は叫んだ。


「―――ゴードン!」


すると、ゴードンは口を開け、一瞬発光した。


そしてその後起こった現象に、他の3人は驚いた。


「なんだありゃ!」


「えええー!?」


「―――これは!?」


ビーグルの頭から体にかけ、ミィーチェとゴードンの影が映し出されていた。


ビーグルはあっけに取られ、ただ呆然とみていた。


(………なんだよ……これは……)


彼らが見た光景は、ミィーチェがゴードンと共に、ビーグルの頭上を飛び上がった姿だった。

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