第94話 春の電車

 ホームの最前列に立って黒い線路を見つめていたが、結局のところ、彼女には死ぬ勇気もなかった。

 電車が入ってきたので、ふらりと乗り込んでしまったが、正午、郊外へ向かう電車には彼女を含めて乗客はたった五人だけ――。

 彼女と同じシートに七十代の老婦人と、端っこの座席にはスキンヘッドにサングラスのヤクザ風の男。向い側のシートには二十くらいの若い娘が化粧中だった。……その隣には、赤ちゃんを連れた若い母親がうたた寝している。

 前抱きおんぶ紐の赤ちゃんはご機嫌みたい、身体を反らしてこちらをじっと見ている。可愛い赤ちゃんだけど……彼女の心の中は嫉妬の炎が燃えていた。


 十五年連れ添った夫が浮気した。

 しかもただの浮気ではない、相手の女性のお腹には子どもがいるのだ。そのせいで夫は家に帰ってこなくなり、彼女は捨てられた。

 今日、義母に「孫が生まれるから、息子と離婚して欲しい」と懇願された。「あなたに落ち度もないけれど……一人息子の孫をこの手で抱きたいんです」泣きながら義母は、彼女に離婚を迫ってきた。

 ――妻として、落ち度はなかった。

 そう、不妊症で子どもが生めないこと以外、良い妻だと自負していたのに……浮気相手の胎内に命が宿った途端に、おはらい箱にされたのだ。

 結婚前、ふたりに子どもが生まれたら、息子だったらサッカー選手にしたいとか、娘だったら小学校まで一緒にお風呂に入りたいとか、他愛のない夢を夫婦で語り合っていた。

 一人息子の彼は家族を望んでいたが、彼女にはその夢を叶えられない。不妊治療もいろいろ受けたが結局ダメだった。

 私に子どもが産めないからと、そんなことを理由に他所よそで子どもを作っても、許されるわけがない! 彼女は激しく怒り、自分自身に絶望していた。 

 子どもの産めない女の惨めさを噛みしめる。


「赤ちゃん可愛いいねぇ~。八ヶ月くらいかしら? ハイハイして目が離せない時期よ」


 いきなり隣の老婦人が話しかけてきたが、子どものいない者に赤ちゃんのことは分からない。

「わたしねぇ、最初の子をあれくらいの時に亡くして……とても悲しかった。授乳しながら寝てしまい……どうやら、窒息させてしまったようなの。毎日泣きながら死んだ赤ん坊にわびていたわ、あくる年に次の子を妊娠したときは嬉しかった。その後にも子どもは二人生まれたけど、それでも死んだ子のことは一生忘れられない」

 訊いてもいないのに、老婦人は一人で喋っている。

「……春になると、死んだ赤ん坊を思い出すのよ」

 白いガーゼのハンカチで老婦人は涙をぬぐった。

 おそらく赤ちゃんを見ていて、昔を思い出したのだろう。彼女は「そうですか」と気のない返事をして、やるせない気持ちで車窓から外を眺めた。

 流れゆく風景の中、線路沿いに桜並木がつづく、薄桃色の桜の花が咲いている。


 ――そうか、今は春なのだ。この電車は春の真っただ中を走っている。


 向いの席の赤ちゃんを見ている内、彼女はこう考えようと思った。

 浮気相手に夫を盗られたんじゃない。育児には両親が必要だから、赤ちゃんにお父さんをあげるだけなんだ……と、そう生まれてくる命に罪はない。

 くよくよしたって仕方ないし、心を広く持とう、大丈夫、きっと独りになっても生きていける。

 赤ちゃんの笑顔が、彼女の心に温かい春の風を吹き込んだ。 


 前抱きおんぶ紐から身体を反らして、赤ちゃんがスキンヘットのおじさんをニコニコしながら見ている。


 サングラス越しに赤ちゃんと目が合ってしまい、柄にもなく男は動揺していた。

 若い頃にグレて、ヤクザの世界に入った男に家族なんかいない。ヤクザの抗争で人を刺した男が服役するとき、一緒に暮らしていた女から妊娠していると告げられたが、親の自覚も責任も持たない男は「勝手にしろ!」と吐き捨てた。

 後ほど、生まれた赤ん坊の写真を送ってきたが興味すらなかった。ただ写真を捨てることもできず、ずっと財布の中にしまい込んであった。

 その内、赤ちゃんの写真は男にとってお守りのような存在に変わっていった――。

 今、財布の中から写真を取り出して眺める。

 あれから十年か……男の名前の一文字を取って名付けられた息子は、小学校五年生になっているはずだ。親として何もやっていないこの俺を恨んでいるだろうか?

 虫のいい話だが、俺は息子に会いたい。いつか堅気になって会いにいこうと男は心に誓った。

 赤ちゃんの笑顔で、男は自分の過去を恥じて後悔していた。


 朝寝坊した若い娘は時間がなくて、ひと目も気にせず、電車の中で化粧中だった。

 実は若い娘のお腹に胎児が宿っている。

 同棲している彼氏の子だが、昨夜、妊娠を告げたら、結婚してふたりで子どもを育てようと言われた。だが若い娘は赤ちゃんを産もうか産むまいか迷っていた。遅くまで話し合ったが結論は出せず、今朝は寝坊して仕事へ遅刻しそうになった。

 ――化粧をしながら、若い娘は考えていた。

 結婚なんかしたくないし、子育てなんて面倒臭い、若いんだから、もっと自由に遊びたい、だから赤ちゃんは要らない。……と、そう自分で結論づけた。

 ふと気づくと、同じシートの赤ちゃんがこっちを見ている。

 ああ、赤ちゃんかぁ~と思って見ていたら、幸せそうな顔でニコニコ笑っている。マシュマロみたいなほっぺ、さくらんぼの唇、赤ちゃんのつぶらな瞳で見られたら、思わず笑みがこぼれる。

 天使のような可愛いらしさに、胸がキャンと鳴った――。ああ、やっぱり小さな命は消せない!

 赤ちゃんの笑顔に、若い娘は母親になろうと決心をした。


 電車が終点に着いた。

 停車と共に赤ちゃんの母親は目を覚まし、みんな赤ちゃんに軽く手を振って春の電車を降りていく――。

 同じ電車に乗り合わせた人たちが、新しい人生の一歩を踏み出そうとしている。

 それぞれの思いを胸に改札口へと向かう、駅を彩る桜の木が、回送になった電車の背に花吹雪を舞い散らす。

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