第87話 鍵

 先ほどから鍵穴をにらんでいる。

 手に鍵を持ったまま、私は304号室を開けるべきか迷っていた。

 この部屋の中に何があるのか分からない。それを知りたいと思う好奇心と、見るのが怖いという、二つの考えがせめぎ合っている。

 夫の秘密を知ることは、妻の権利だといえるだろうか?


 私たちは銀婚式をとうに過ぎた夫婦だった。

 子供は二人いる、長女は結婚して来年には初孫が生まれる、長男は就職が決まり今年から社会人になる。

 夫は中堅の商事会社に勤めているが、年中出張や海外転勤でほとんど家にいない人だから、専業主婦の私がひとりで家を切り盛りしてきた。

 不仲というわけではないが、たまに夫が家にいても会話すらなかった。

 いつも仕事で疲れている夫の健康を心配していたら、夫の同期の人が急死した。その人の葬儀から帰った夫が、故人は働き過ぎが原因で欝病になって自死したのだという。「俺はあんな死に方はしたくない」そういって、定年になったらキャンピングカーを買って、おまえとふたりで日本中を旅して回るのが夢だと語った。

 夫の言葉に、「狭いキャンピングカーであなたと旅行なんて真っ平です!」私は即座に断った。


 子育てを終えた主婦の楽しみといえば、花を育てること、ペットの世話をすること、たまに手の込んだ料理を作ってみたり、近所の主婦たちとホテルでランチして、カラオケで盛り上がることだった。

 ささやかな主婦の楽しみを夫と時間を共有することで奪われたくないと思っていた。

 自分の夢を妻に拒絶されて、夫はさぞ傷ついたことだろう。――今にして思えば、ずいぶん薄情な態度だったと思う。

 その頃からだった、時々週末に行く先も告げず、旅行鞄に着替えを詰めて出掛けるようになったのは――。たぶん一泊のゴルフコンパだと思って気にもしていなかった。

 いつも仕事で家にいない夫に慣れて、私は彼に対して無関心だった。


 その夫が心筋梗塞で急死した。

 出張先のホテルで倒れて、そのまま帰らぬ人となった。定年まであと八年だったのに……夢を果たせないままで人生を終えた。

 人ひとり亡くなるということは、悲しみにくれる隙を与えないくらい、遺族には用事が多い。葬儀の手配から煩雑はんざつな法的手続きまで終えて……やっと故人の死をいたむことができるのだ。

 少し落ち着いたころ、夫の遺品の整理を始めた。

 服や身の回りの物はすべて処分したが、夫が愛用していた旅行鞄だけは取っておくことにした。この鞄を持って出張に出かけていく夫の後姿を思い出して切なくなった。夫との間に溝をつくったままのお別れだけに辛かった。

 旅行鞄を一度陰干ししようとひっくり反したとき、底敷きの下から鍵が落ちた。

 ごく普通の鍵だったが、『304号室』と書いたプレートが付いていた。


 なぜ鍵を夫は鞄の底に隠していたのか気になってしかたない。

 書類箱を調べたら、夫名義の通帳が出てきた、そこには毎月決まった金額が引き落とされている。家賃の支払いかもしれないと、引き落とし先の会社に事情を話して、鍵の部屋の住所を教えて貰った。

 自宅から電車で一時間ほどで行ける距離に夫の部屋はあった。

 そこは単身者用のワンルームマンションだった。私は部屋の前でしばらく迷っていたが、どうしても知りたいという好奇心に負けて、鍵を開けることにした。

 鍵穴に差し込みゆっくりと回すと、カチャリと鍵のあく感触があった。


 ――ひどく殺風景な部屋だった。


 広さは八畳くらい、小さなキッチンとユニットバス付である。ソファーと小さなテーブルがあるだけ、ベッドは置いてなかった。テレビも冷蔵庫もなく、テーブルの上には読みかけの文庫本と眼鏡、キッチンには電気ポットと紙コップ入りのインスタントコーヒーがあった。

 もし女の痕跡があったらどうしようかと脅えていたが、そういう用途で使われていたはなかった。

 クローゼットを開けてみたら、衣装ケースがひとつ。

 ケースの中にオリーブグリーンのマフラーが入っている。それは結婚前に、私が夫にプレゼントした手編みのマフラーだった。まさか、夫が今でも大事に取っているとは思ってもみなかった。

 他にも新婚旅行で行ったハワイのレイやアロハシャツ、銀婚旅行のオーストラリアのエアーズロックで撮った夫婦の写真、毎年の夫の誕生日プレゼントなどが入っていた。

 これは夫婦の記念品箱ではないか、これらの品物に触れて、私の目頭は熱くなった。

 さらにケースの底には『最愛の妻へ』と記した、きれいな小箱が入っていた。何だろうかと、開けてみたら真珠のネックレスだった。


 ――もしかしたら、これは夫が私に仕掛けたゲームなのかもしれない。


 あの鍵はスタートボタンなのだ。

 少しでも自分に関心があれば、この部屋を見つけ出せるだろうと、この殺風景な部屋の中で私に見つかることを、わくわくしながら心待ちしていたのだろうか。

 自分に対する、妻の愛を確かめるためのトラップとして、この部屋は借りられていた。


「あなたの隠れ家、304号室を見つけましたよ」


 輝く真珠のネックレスは、夫から私へのご褒美だった。

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