第86話 箱の中の呟き

 大きな木の箱から、何やら呟きが聴こえてくる。


「あぁー、もうそろそろ春になったのかしら?」

 ため息交じりの女の声は、どこか気だるく寝むそうだ。


 年に一度、このカビ臭い箱から、わたくしはやっと出してもらえる。

 真っ暗な箱の中ではずっと眠っている。いいえ、寝たふりをしているだけで、時々、薄目を開けて周りを見回しているけど……ただ真っ暗闇で何も見えない。「こんなの退屈過ぎて気が変になりそう!」だから、また寝たふりをする。――そうすると、その内、冬眠状態に入るから。


 何のために存在しているのか分からないけれど、一年に一度の行事のために……。その日を美しく彩るために、わたくしたちは作られた。


 それ以外の日は外にも出してもらえない。

 ずっと箱の中に軟禁状態で、おまけに虫よけの薬の臭いが強烈で息苦しい。でも、それが薄まってきたら、今度はカビの臭いが鼻を突く。大事な着物にカビが生えたらどうしよう! 除湿剤も一緒に入れといてよね。

『○○は顔が命』とかいって、汚れないようにと顔にテッシュを巻かれているから、「ああ~息苦しいよぉ……」去年、片付ける時に扇子をどこかに失くしちゃった。

 あれがないとポーズがきまらないのよ。

 困ったわ! たぶん、この箱のどこかに落ちているんだと思うんだけど……。


 いつもわたくしの右側にいる彼氏が去年、仕舞う時に離ればなれにされちゃった。

 毎年片付ける度に、やり方が違うから困ってしまうわ。

 どうやら三人娘の誰かとカップリングされたみたいね。時々クスクス……と女の忍び笑いがするもの。

 あの娘たちときたら身のほど知らずにも程があるわ!

 ……と言っても、私と右側の彼氏とは今ではですの。愛情なんてとっくの昔に冷めているけど、世間体だけで仲良し夫婦の振りをしているのよ。

 だって、私たちが仲よく並んでいないと絵にならないでしょう?

 ホントは私……最近は右側の彼氏より白いお髭の渋いご老人に萌えていますの。

 あっ! これは絶対に内緒ですわ。シィー……。


 昔は箱から出されると、七段飾りの緋毛氈ひもうせんの上に丁寧に並べられていった。

 わたくしたち夫婦を最初に飾って、三人娘や五人の楽士たち、おじさんが二人と段々と並んでいきました。

 飾り終わったわたくしたちを見て、女の子の瞳はキラキラ輝いていたわ。この日だけは、どこの家の女の子も“お嬢さま”で、きれいな着物をきて誇らし気な笑顔だった。

 ――だって女の子のお祭りですもの。

 近所の女の子たちを集めてミニパーティ! 桃の花を飾り、ちらし寿司や蛤のお吸い物、白酒、菱餅、あられでお祝をしたのよ。

 楽しそうな女の子たちの様子ったら――上段から見ていて、こっちまで嬉しくなっちゃうわ。

 その場を盛り上げる雰囲気作りに欠かせないのは、もちろんわたくしたちの存在よ!


 ああ、もうこんな退屈な箱の中から出たい!


                    *


『ねぇ、お雛さまどうするの?』

『もう、明日でしょう?』

『おまえが手伝ってくれないから、お母さんひとりじゃあお雛さま飾れないよ』

『もう、いいんじゃないの。子どもじゃないんだし、女子大生になってまでお雛祭りはやんないよ』

『――そうかい』

『どうせ、すぐに片付けないといけないし、面倒だから、もう出すの止めようよ』

『おまえがそれでいいなら……』

『止めよう、止めよう! それより雛祭りケーキ買ってきてよね』

『お雛さまより、食い気の娘なんて……あははっ』


                     *


 早く、早く! この箱から出してくださいなっ!

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