第82話 五分間の境界線
五分という時間は待っていると長く感じるが、なにかするには短い時間である。
だが、その五分間が人の運命を握る大事な時間だとしたら――。
「もう!
その日、親友の
「ゴメン! たった五分くらいで怒んないでよ」
「だって、ライブの前にグッズ買いたいのに、早く行かないと売り切れちゃうよ」
千香子はアイドルグループの限定グッズを買うために張り切っていた。
私たちは小学校から中学高校とずっと同じで、せっかちな千香子とのんびり屋の私と二人はいいコンビだった。
「さあ早く、行くわよ!」
信号機が青に変わった途端、千香子は横断歩道へ飛び出していった。
その時、右折してきた車と接触して、千香子の体はボンネットに撥ねあがり道路に叩きつけられた。一瞬のことだった、私の目の前で親友が車に轢かれた。
通行人の誰かが、千香子の体を歩道まで運んでくれた。複数の目撃者たちが警察に通報していた。車から降りた運転手が千香子の容態を看ていた。
そんなの中、私は頭の中が真っ白になって、何が起きたのか把握できない状態だった。かすかに千香子が私の名前を呼んだ気がしたが……救急車が来るまでの約五分間、私は何もしないで、ただ茫然と
その後、千香子は救急隊員によって救命活動がなされたが意識は戻らなかった。
元はといえば私が五分遅刻したために、千香子は焦って横断歩道へ飛び出していったのだ。しかも事故にあってからも、私は何ひとつ役に立たなかった。救急車の後に到着した警察官に千香子の名前と住所を教えるのがやっとで、ただただ泣いているばかりだった。
あの時、せめて千香子の手を握って名前を呼び続けたら……彼女の意識は戻ったかもしれない。病院で千香子の死亡が確認されたと聞いた時、あの五分間が悔やまれて……悔やまれてしかたなかった。
親友を死なせてしまったという後悔が、私の進路を決めさせた。死に逝く命を目の前に何もできなかった無能さを痛感して、私は救急救命士を目指した。
救急救命士科のある大学に入学して、救命士受験資格を得て、年一回の国家試験に合格するために必死で勉強してきた。そして消防採用試験にもパスして、救急救命士として私は救急車に乗務ことになった。
救急救命士とは、救急車の中で、命の危険がある人に対して緊急処置をする仕事である。医療行為として、電話などで医師の指示を受けながら、器具を用いた気道確保、薬剤投与、電気器具による心臓の拍動を正常に戻す処置などさまざま。勤務時間は不規則だが、人の命を預かる責任ある仕事なのだ。
ひとりでも多くの命を救うために働く、これが千香子への罪滅ぼしだった。
子どもが池で溺れたという通報が消防署に入った。
運転手、消防隊員、救急救命士の三人で救急車に乗り込んで出動した。現場に着くと、岸に男の子が引きあげられて、その周りに母親と数人の大人が取り囲んでいた。
患者は五歳の男の子で、ザリガニをとろうとしてため池に転落、近くにいた友だちが大人に連絡して引き上げられた模様である。
さっそく、患者の容態を診るが、呼びかけても反応がない、脈拍はなく、体温は下がっていて、
私は心肺蘇生のため胸骨圧迫(心臓マッサージ)を開始する。
AEDで電気ショックを与えたら、微かに意識を取り戻したので人工呼吸を施しながら、気道閉塞しないように水を吐かせる。一刻も早く病院に搬送しなくては……体温が下がっているので毛布で包んで温めながら、ストレッチャーに乗せて救急車に運ぶ。
その時、子どもの母親も一緒に乗り込んできた。
「どうかこの子の命を助けてください」
心配そうに我が子の手を握っている。
「大丈夫! この子の命は助かります」
私の言葉に母親は大きく頷き、涙を流して喜んでいた。
千香子を助けられなかった、この私の手で助かった命がここにある。
あの五分間が私を大きく変えたのだ。
これからも人命を救い続けることが、救急救命士として私の使命なのだ。
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