第81話 蟻
アンリ・ルソー(1844-1910)は、
有名な絵画コレクターの遺品の中から未発表のアンリ・ルソーの絵が発見されたというニュースが世界中に報じられた。
その絵は1908年にルソーが描いた『静物・異国の果物』という作品と酷似しており、バナナやマンゴー、ライチなど熱帯の果物を描いた48×55の油彩画であった。
多くの鑑定家によって絵画は本物だと太鼓判を押された。世界中の美術館がその絵を欲しがったが、日本の資産家がパリのオークションで競り落とした。
『熱帯の果実』と名付けられたルソーの絵は、日本のある美術館に秘蔵された。
日曜日の午後、美術館は入館者でごったがえしていた。
今世紀最大の発見である、異才アンリ・ルソーの幻の名画が展示されるというので、ひと目みたいと美術愛好家が押しかけてきた。人気のあるその絵の前では数分間しか立ち止まって鑑賞ことが許されない。そんな中、ある老人が人垣をかき分けしゃにむに絵画の真ん前に立った。
絵をじーっと眺め、フンと大きく鼻を鳴らしてから、大声で叫んだ。
「この絵はニセモノだ!」
その言葉に周囲がざわついた。さらにもう一度叫ぶ。
「ルソーの
持っていた杖を振り上げ絵を叩こうとしたので、美術館の警備員と学芸員が飛んできた。すぐさま老人は取り押さえられたが、まだ大声で
「ニセモノだー! そのルソーは贋作だー!」
警備員二人に両腕を掴まれて、老人は館長室に連れてこられた。白髪に髭をたくわえた品の良い館長が、警備員たちに手荒なことはしないようと諫めた。
「わたしは当美術館の館長の
挨拶をしたが、老人は怒ったように口をつぐんでいる。
「あなたは展示品のアンリ・ルソーの絵を贋作だとおっしゃったそうですが、何か根拠でもあるんですか?」
「うむ」
「あの絵は多くの鑑定家に調べてもらい本物だと判定されました」
「そいつらの目は
「鑑定が間違っているというのですか?」
「そうじゃ、あのルソーはニセモノだ」
「そうおっしゃる理由は?」
「あの絵は、このわしが描いた」
「はぁ?」
「1955年頃、わしはパリへ絵の勉強に留学しておった。アカデミーに通って印象派や素朴派の絵の技法などを学んだ。ルソーの絵の模写が得意で描いている時には、まるで画家の魂が宿ったようだった」
うっとりと懐かしむように老人が話す。
「……ですが、あの絵はオリジナルです」
「分かっとる。美術商に頼まれて描いた
「まさか有名な絵画コレクターの秘蔵品が贋作なはずありません」
館長は笑って、老人のいうことを信じなかった。
「描いたわしがいっとるのだから間違いない。あれを描いて大金をもらったが、娘は死んでしまった。贋作を描いた罪悪感から絵を描くことをやめて、わしは日本へ帰った」
「どうも信じられませんね」
世間では、有名な絵を自分が描いたと風潮する素人画家がいたりする。特に高齢者だけに、その話の
「展示されてる絵は、ルソーの『異国の果物』をモチーフして描いたニセモノなのじゃ」
「あなたの証言だけでは贋作とは認められません」
「ルソーの『異国の果物』はライチのところに羽虫が這っているだろう? わしの『熱帯の果実』にはパパイヤの黒い種の中に蟻が一匹紛れこんでおる。いつか自分が描いたニセモノだと証明するため、わざと蟻を描いた」
「蟻ですか?」
「そう蟻じゃ。わしの名字が有田というので蟻だ」
突然、ノックの音がして館長室のドアが開いた。警備員が中年の女性と共に入ってきた。
「館長、この方がご老人のツレだとおっしゃるので……」
「老人ホームやすらぎ園の職員ですが、有田さんが美術館に行きたいというのでお連れしたら、館内で迷子になってしまって……。ご迷惑をおかけしました」
職員はぺこぺこ頭を下げながら、有田老人を引っ張って連れて帰った。
老人が帰った後、館長は『熱帯の果実』の鑑定書にもう一度目を通した。
たしかにマンゴーの種の中に、黒い蟻が一匹描かれているとある。小さな蟻なので肉眼では判別できない、また蟻のことに触れた文献などは一般には出回っていないはずだった。
どうして、あの老人は蟻のことを知っていたのだろうか?
一抹の不安は残るが、あれは老人の
アンリ・ルソー作『熱帯の果実』として、これからも美術館に展示しよう。
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