第77話 モルフェウス

 僕の天使の話をしよう。

 君が僕の家にきたのは去年のクリスマス・イヴのことだった。

 いつものように大学に通い、レンタルショップのアルバイトを終えて、自宅であるワンルームマンションに帰って来たら、僕の部屋に君が居たんだ。

 君は男か女かもよく判らないが、僕の掌に乗るサイズで白い裸体を隠す薄物を羽織って、背中には小さな翅が生えている。そう昆虫みたいな透明な薄い翅だった。

 実体としては妖精に近いように思えるのだが、そんな君に取り合えず〔angel〕と名付けて〔僕の天使〕と呼ぶことにした。

 蜂のように僕の周りをブンブン羽音を立てて飛び回る君に、最初はうっとうしくさえ思えたことは事実さ。でもね、君はとても美しい声、いや音かも知れないが……僕に聴かせてくれた。その声を聴く度に、まどろんでいつの間にか眠ってしまう、そう赤ん坊みたいにすやすやと――子守唄みたいに心地好い旋律だった。


 僕らは同じ部屋でずっと暮らしていたが会話すらなかった。

 君はしゃべらないけれど、空気を微かに揺らす、その翅音から君の感情が手に取るように僕の脳に伝わってくるから――言葉なんか必要なかった。

 僕も君もお互いの領域を荒らさないように、尊重し合って小さな部屋で呼吸をしていた。けれど窮屈だなんて思っちゃいない、君が居ると僕は寂しくないし、すごく癒されているんだ。いいようのない幸福感が僕を包み込み、この部屋から出て行きたくなくなる。

 時々、君が僕の肩にとまって、奏でる天使の歌に僕の魂は昂揚してふわふわと空中を漂いたくなってくる。

 だから、君は〔僕の天使〕なんだよ。


 ――輪を描くように繰り返される日々。

 僕は目を覚ますと大学へ通い、レンタルショップのアルバイトを終えて、ワンルームの部屋に帰るという単調な日々の繰り返しだった。

 ただし、それらの行動をした自覚はなく、疲労感も全くない、ただ記憶の海馬がそうだと僕の頭の中に描くから実体験だろう。時々、僕の記憶が途絶えるのは同じ生活を繰り返しているせいかもしれない。

 以前、銀色のスクーターを僕は持っていたように思う。いつからだろう? なくなってしまっている。そういえば、携帯電話の日付と時計もずっと止まったまんまで――2015年12月24日 PM10:18――無限ループのような毎日、一秒として時計の針が進んでいないのは、なぜだろう?

 そして、僕の天使……いや、君はいったい何者なんだ?


 或る朝、僕の頭の中に不思議な声が聴こえてきた。

「さあ、もう目覚めなければいけません」

「――えっ?」

「あなたは目を覚ますのです」

「――君はだれ? 僕なら起きてるよ」

「いいえ、夢の世界ではなく。現実の世界におかえりなさい」

 まるで天上から聴こえてくるような美しいソプラノだった。その声はたぶん女神のような尊い人の声なのだろう。

 あっ! 僕の身体がふわりと浮きあがった。あれっ! 部屋の中に君がいない。いつも部屋の中を飛び回っている君の姿が見当たらない。

「僕の天使はどこなんだー!?」

 大声で叫んだ。その時、知恵の輪が外れるように、僕の目の前がパッと明るくなっていく……。


                   *


「うぅぅーん」

 伸びをするように身体に力をみなぎらせて、僕はゆっくりと瞼を開けた。

 白く無機質な空間である――どうやら、そこは病院のようだった。白衣を着た医師と看護師が二、三人で僕を取り囲むようにして覗きこんでいる。

「○○さん、目が覚めましたか?」

「一年振りに意識が戻った!」

「凄い、これは奇跡だわ」

 そんな会話が矢継ぎ早に交わされている。僕は何のことか分からずに瞼を瞬いていた。その時、病室のドアが開いて、だれかが駆けこんできた。

「○○!!」

 たぶん、名前と思われる固有名詞を発し、僕の手を握ってぽろぽろ涙を流している。どうやら、その女性は僕の“お母さん”のようだ。


 意識が戻った僕は周りから詳しい事情を聞いた。

 去年のクリスマス・イヴの夜、銀色のスクーターがトラックと接触、スクーターは大破して、道路に投げ出された僕は頭部を強打して昏睡状態に――こんこんと眠り続けていたが、一年後のクリスマス・イヴに目覚めたのだ。

 僕の身体は日々回復して、リハビリを始めて歩けるようになった。もう少しで退院して社会復帰できそうだ。

 ただ、ひとつ、僕はまだ自分の名前を取り戻していない。

 周りが僕の名前を呼んでも、いまいちだれのことだか分からない。自分の名前を自覚できずにいる。たぶん、それが戻ったら君との記憶もリセットされて全部消えてしまいそうな気がするんだ。――あの朝、僕に目覚めることを促したのは君だったの? もしかしたら、君は『僕の魂』が黄泉の国の逝かないように、ずっと守ってくれていたのかなあ?

 僕の頭の中に新しい情報や記憶が増えてくる度に、〔僕の天使〕の記憶がだんだんとかすれていく……。

 単調な日々だったが、僕にとっては幸せな時間だった。天使の君と過ごした、夢の中の僕らの世界――。

 

 僕の記憶が消えてしまう前に、僕の天使の話を聞いてくれないか?




 ※ モルフェウスとは夢の神のことです。 

    古代人の間では夜と眠りと夢と死は一つの輪をなしており、モルフェウス自身が眠りの神とされています。

    ちなみにモルフェウスは「モルヒネ」の語源と言われています。

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