第66話 道に禍が落ちていた

 梅雨明けの空は快晴、のどかな田舎道を愛車で走っていた。

 三日前にディラーから納品されたばかりの新車で、今日は慣らし運転を兼ねたドライブだった。

 初夏の風が心地よい、窓を全開にしてお気に入りのBGM流し、鼻歌まじりにハンドルを握る、俺の気分は上々だった。


 その時、耳元でブーンという羽音が聴こえた。

 でっかい蜂が車内に侵入して、俺の顔の周りをぐるぐる飛んでいるではないか。スズメ蜂だったら、超危険だ!

「ヤ、ヤバイ! 刺される!」

 顔の間近を飛ぶ蜂を追っ払おうと、おもっきり首を振った拍子にハンドル操作を誤った。

 車体がガクンと大きく揺れて、前輪タイヤが側溝そっこうに嵌まり込んでしまった。深さ二十センチほどの溝だが、とても一人では抜け出せない。誰か道を通らないか待っていたが、三十分経っても人っ子一人通らない。

 ここは田舎道だしなぁー。  

 諦めてJAFを呼ぼうかと思ったら、運よく自転車が通りかかった。中学生くらいの二人組男子だった。すぐに車から降りて手伝ってくれるように頼んだら、

「ああ、いいよ。けどタダならお断りさ」

 ニキビ面の生意気そうな奴がそういった。

「一人千円くれるなら手伝ってやるよ」

 もう一人のチビの眼鏡が商売人の顔でいいやがる。

 チェッ! がめついガキ共だ。

 二人に千円ずつ渡して、俺がアクセルを踏み込んだら、おもっきり持ち上げるように頼む。二人に手伝ってもらい首尾よく、車は側溝から抜け出した。

 だが、フロントフェンダーに擦ったような傷が残った。……うっ、新車に傷が付いてショックだ!

「真っ直ぐ道で脱輪なんて、おじさんの運転ヘタクソだなぁ~」

「おじさん、また脱輪したら俺たちが手伝ってやるぜ」

 ゲラゲラ笑いながら中学生の自転車が遠ざかる。クッソー! 俺はまだ二十五だ。おじさんじゃないぞ!

 

 さほど目立たない傷だし、まっいいか、気を取り直して再びハンドルを握る。

 しばらく走ると道に何か落ちていた。近づいてみたら、道の真ん中に女が倒れていたのだ。もし死体だったら……どうしようか、ビビリながら様子を見たら、血は流れてないし、息もしているみたい。

「もしもし、大丈夫ですか?」

 肩を叩いた。

「う~ん……」

 ゴロンと女は仰向けになった。ポッチャリ系で三十代後半かな?

「こんな所で危ないですよ」

 俺は引き摺るようにして道の端に移動させたが、女は肥って重い上に、やたら酒臭いのだ。――見ると、女が倒れていた辺りにワンカップの日本酒が三、四本落ちていた。ただの酔っ払いのようだ。 

 関わるとロクなことがなさそうなので、そそくさと愛車に戻ろうとしたら……動けない! 女が俺の足にしがみ付いていたのだ。

「ちょっと~車に乗せてってよぉ~」

 ロレツも回らないほど酔っ払った女に言われた。

 置き去りにして車に轢かれても後味悪いし、人通りのある場所に行ったら降ろすつもりで、俺の車の後部座席に乗せた。

 しばらくすると女は携帯を取り出し通話を始めた。最初は謝っているようだったが、段々怒り出し喧嘩を始めた。どうやらドライブ中に夫婦喧嘩して、道に放り出されたようで迎えに来いとギャーギャー喚いていた。

『若い男に無理やり車に乗せられたぁ~あんた助けて!』

 通話中の旦那に女が嘘を言った。

「ちょっと! 人聞きの悪いこと言わないでください。もう降りてくれよ!」

 車を路肩に停めて、女を後部座席から引き摺り出そうとしていたら、


 オエェェ―――!!


 いきなり女がゲロを吐いた!

 

 うわぁぁ―――!!


 俺の新車のシートがゲロ塗れになっていく――。

 絶叫しながら女を車から突き出した。


 ちくしょう! あのゲロ女、絶対に許さん! 後部座席からゲロの悪臭が漂う。

 どこかで拭き取らないと臭いがシートに浸みこんでしまう。しばらく行くと小川が流れていた、ここでゲロの処理をすることに……俺は着ていたシャツを脱いで、雑巾代わりに濡らしてシートの上を丁寧に拭いた。

 なんで俺がこんなことをしなくっちゃならないんだ? あんな酔っ払い乗せなきゃよかったと、後悔で泣きたい気分だった。

 やっと拭き終わって、もう散々な気分なのでUターンして帰ろうかと車に乗り込んだら、いきなりガツンと激しい振動を感じた。 

 バックミラーで見たら、俺の車が軽トラにオカマされていた!

 車から飛び出して抗議しようとしたら、その軽トラにはゲロ女と凶暴そうな男が乗っているではないか。


 軽トラから降りるなり、相手が俺の胸ぐらを掴んだ。

「てめぇ! 俺の嫁の身体に触っただろう」

「何もしていません。それより俺の車が……」

「人の女にチョッカイ出してタダで済むと思うなっ!」

 いったい何を吹き込んだのか、男はすごい剣幕で怒っている。ゲロ女は二人のやり取りをカップ酒を煽りながらニヤニヤしながら見ている。

 ゲロ女! おまえから旦那にちゃんと説明してくれよ。 

「だから、奥さんが酔って道に倒れていたので車に乗せて……」

 喋っている途中で殴られた。その後、倒れた俺を二、三度靴で蹴りあげた。体をくの字に曲げて苦痛に耐える、この俺の耳に――女の嗤い声が聴こえる。

 最後にガシャーンという轟音ごうおんがして、フロントガラスが見事に割られた。

 男は汚い罵声を俺に浴びせて、ゲロ女と共に軽トラで走り去った。


「なんで俺がこんな目に……」


 まさかドライブ中に、こんな災難に見舞われるとは思いもしなかった。

 不運? 理不尽? 新車の呪いか? 

 そんな言葉では片付けられない、怒り心頭しんとうに発する。


「バカ野郎!」


 道に大の字に倒れた俺は空を睨んで叫んだ。

 すると、俄かに掻き曇って大粒の雨が降ってきた。ああ、天まで俺を見離したか……。硝子のない車内はあっという間に水浸しになった。

  

 ――俺の新車はもう機能しない鉄屑と化した。


「……どうにでもなれ」


 怒りを凌駕りょうがするのは絶望だけだと、道に打ち突ける激しい雨の中で俺は悟った。

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