第59話 マリッジリング

 港の埠頭ふとうで夜釣りをしていたら、いきなり近くで大きな水音がした。

 何だろうと懐中電灯で照らしてみたら、女が海に飛び込んで溺れていた。もがきながら段々と女は海中へ沈んでいく、これはヤバイと思った瞬間、飛び込んで女を助けようとしていた。

 千葉の南房総みなみぼうそう生れ漁師の子の俺は泳ぎには自信がある、だが海中で必死にもがく女を助けるのはまさに命懸いのちがけだった。何とか岸まで引き上げることができたが、かなり海水を飲んだらしく女はぐったりして、顔を横向けて水を吐かせて人工呼吸をしていたら、しばらくして女の意識が戻った。

「大丈夫ですか?」

「……どうして死なせてくれなかったの」

「目の前で人が溺れているのを放って置けるわけない」

「そうね……」

 見たところ、女は三十歳くらい薬指に指輪をしているので人妻らしい。身なりは紺色のスーツでブランド物のようだ。化粧は水に濡れてとれかけているが濃い目。岸に抱き上げる時に香水に匂いがした。

 どういう素性の人か知らないが水商売か、セレブの奥さんのように見える。埠頭には女の荷物らしいブランドのボストンバッグが置いてあった。

 この近くで祖母が民宿をやっているので、びしょ濡れの女をそこへ連れて行くことにする。寝ていた祖母を叩き起こして「この人、海に落ちたんだ」と説明したら、風呂を沸かして簡単な食事を用意してくれた。


 風呂に入って、着替えた女は意外と楚々そそとした人妻風だった。あんなことがあった後だけに、少し箸を付けただけでほとんど食事は残していた。

 部屋に布団を敷いて貰い、「今夜はここで休んでください。遅いので僕はもう帰ります」と告げて立ち去ろうとしたら、布団の上に茫然と座っていた女がいきなり「待ってください。話を聞いて貰えませんか?」とすがるような目で俺に頼んだ。

 入水自殺をしようとしたくらいだから、相当深い悩みを抱えているのだろうと思うと邪険じゃけんにもできない。人助けのついでだから、女の話を聞いてやることにした。


 ――ここからは彼女の話をつまんで説明していく。

 女の名前は宮田茉里絵みやた まりえ、東京からきた主婦で子どもはいない。仕事は外資系の化粧品メーカーの美容部員で新宿のデパートで働いている。

 半年ほど前から夫が失踪していて、私立探偵などを雇って調査していたら、この近くのアパートに夫らしき人物が居るということが分かったので捜しにきた。

 だが、会いにいった彼女が見たものは他の女性と暮らす夫の姿だった。しかも相手は妊婦で臨月りんげつの大きなお腹を抱えていた。夫に説明を求めたら、自分の子どもを宿している彼女と一緒に暮らしていくつもりだという。黙って家を出たのは出産するまで騒動にならないように秘密にしたかったから、赤ん坊が無事に生まれたら妻とは離婚するつもりだったという。

 女が東京に帰ってもう一度やり直そうと懇願しても、夫は「彼女を愛してる。君とは別れる」と頑として受け入れなかったそうである。

 妊婦から夫を奪い返すこともできず、女は泣きながら帰っていったという。

 

 夫が妻以外の女性との間に子どもを作って家を出る。

 世間では、よくある話だが当事者にとっては納得できない理不尽な出来事だろう。たしかにショックで妻は海に飛び込みたくもなる。

「夫は……指輪をしてなかったんです。私たち夫婦の誓いマリッジリングを外していました。ひどい……」

 か細い声で女は嘆く。

「結婚指輪なんて、外してしまえば既婚者かどうか分からなくなる」

 と俺が答えると、女は薬指の指輪を外した。

「生涯の伴侶を誓った筈のマリッジリングなのに……付ければ既婚者、外せば独身、まるでスイッチみたいに切り替えが利くなんて、オカシイですよね」

便宜上べんぎじょうのものでしかない」

「ええ、結婚の証なのにとても曖昧あいまいなものです」

「たしかに曖昧だ」

 曖昧という言葉を俺は鸚鵡返おうむがえしする。

「夫が薬指に結婚指輪をしてなかったので、既婚者だと知らなかったと相手の女性が私にそう言いました。夫は指輪を外して独身者の振りをしていたの」

「それは確信犯だね」

「夫婦の愛の証マリッジリングは夫の心には嵌められなかった。それが悔しい……悔しい……」

 女の目から関を切ったように涙が溢れて、ぽたぽたと布団の上に零れた。両手をついて、まるで土下座するような格好で泣いている女が憐れに思えて、俺は無意識に肩を抱いていた。女は幼児のようにしゃくりを上げて、いつまでも泣き止まない。

 すべてを吐きだして心が軽くなったのだろうか。やがて、疲れたように俺の胸の中で眠ってしまった。そーっと、身体を離して布団に女を寝かしつけてから、静かに部屋を出ていった。


 翌朝、早くに女は民宿を出て東京へ帰っていったという。

 布団を上げてみたら指輪が落ちていたけど、どうしようかと祖母が困っていた。これは指輪を届けて欲しいという女からメッセージかも知れないと、俺は直感でそう思った。

 東京のデパートに勤める女を見つけることは、きっと容易よういだろう。この指輪は女が振った運命のダイスなのかもしれない。

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