第55話 夢幻回廊

 ――夢の世界へ迷い込んだ。

 気がつくと、そこは見渡す限り砂の海であった。

 地平線の向こう、遥か彼方まで砂におおい尽くされた世界。天上にはナイフのような新月とスワロフスキーの星々が煌めいている。

 自分は駱駝らくだの背に揺られていた。アラビンナイトの踊り子の衣装で、東郷青児とうごう せいじの描く女のように深い憂いの睫毛をしばたかせて……。ここは砂漠なのかしら?

 駱駝の手綱を見知らぬ男を引いている。白いターバンを巻いた異国の若い男だ。

「眼を覚ましたのか」気配に気づいて声を掛けてきた。

 異国の言葉だが、何故か意味は理解できた。ここは何処ですかと訊ねようとしたら、男がくぐもった声で、

「おまえと今日で百日、砂漠を旅している」と云った。

 こんな灼熱の砂漠を百日も旅ができる筈がない。

「昼間のおまえは小さな木彫りの人形で、日が暮れて月が昇ると人の姿に変わる。きっと、これはシバ神の呪いなのだ」男は哀しげに溜息をついた。

 自分は悪夢をみているのだろうか?

「シバ神の踊り子に恋をして、おまえを神殿から連れ去った。だが、昼間のおまえは人形で、月が昇って人の姿に戻っても、俺が触れようとすれば、忽ち人形の姿に変る。どんなに愛していても契ることもできない」

 異国の男は肩を震わせ泣いていた。

 ああ、なんて酷い呪いなの……。

蜃気楼しんきろうのオアシスに、呪いをく泉があると訊いた。そこで沐浴すれば人の姿のままでいられる。今日で百日探しているが何処にも見つからない」

 疲れ果てた男は駱駝の手綱を放しガクリと膝を折って、そのまま砂にうつ伏して砂を掴んで地面に叩きつけている。

 男の絶望感がひしひしと伝わって、自分も胸が切なくなってきた――。

   

 やがて東の空が白んで、ああ、もう夜が明けてしまう。

 木彫りの人形に変る前に男に何か云って置かなければ……だけど、いったい何を云えばいい?

 れるばかりで言葉が出てこない。男は砂漠の砂にうつ伏したままで微動びどうだにしない。自分は駱駝の背から降りると男の肩に手を掛けた。瞬間、男の姿はスッと消えて、砂の上に木彫りの人形がコトリと落ちた。

 人形に変ったのは自分ではなく男の方だった。

 砂に落ちていた人形の男を拾って、そっと胸に抱く、駱駝の手綱を引いて歩き始める。永遠に見つかりそうもない泉を探して――。

 東の空には真っ赤な太陽が昇って、今日で百と一日、自分は人形の男と砂漠を旅していた。


 ――夢幻回廊むげんかいろうは続く。

 夢だと知りながら、そこから逃れられない。夢が現実を侵蝕しんしょくしていく――。

 果てしない砂の海をただよっていた。白い砂の波がずぼずぼと足を引きずり込むから、遅々ちちとして進まず、方角すら判らない。

 今宵も月が昇ると、木彫りの人形は人の姿に変る。

 白いターバンの男は恋人だと云った。触れられないが、傍でいろんな話を聴かせてくれた。自分は呪いをかけられる前の記憶がない――だから、男の話すことを黙って聴いているしかない。

「おまえは俺と旅をしていて哀しくないのか?」ふいに、そんなことを云う。

 哀しいと思っても……これは夢なのだから、心の中で思ったが何も云わず黙っていると、

「おまえに触れることもできず、ただ砂漠を彷徨さまよっているのが苦しいのだ」

 男は顔を歪めて吐き出すようにそう云う。

「いっそ人形のおまえを壊して、俺も砂漠でち果てる。こんな旅は終わりにしたい」

 この堂々巡どうどうめぐりの夢を終わらせるには、人形を壊すより他に方法がないのだろう……か。自分には他に術もなく、男の意見に従うしかないと思い、こっくりと頷いた。

 陽が沈む前にお互いの人形を壊そうと誓い合って、二人は最後の時を過ごした。

 やがて朝日が昇り、砂の上にコトリと人形が落ちた。自分は人形の男を拾い上げ胸に抱くと、駱駝の手綱を取って再び歩き始める。


 狂気のような熱風ねっぷうがこの身を焼く、生きながらにして自分は焼かれていく。陽が昇った瞬間、ひたすら陽が沈むことだけをただ願う――そんな苦しい夢についに終わりがくる。

 自分は木彫りの人形の男を壊す覚悟なのだ。

 もうすぐ、砂の地平線に陽が沈む。揺らぎながら陽炎かげろうのように、ゆらゆらと……。太陽が隠れかけた時、石の礫で人形を叩き壊そうと腕を振り上げた。

 その瞬間、太陽の色が緑に変った。

「みどりの太陽だ!」

 緑の閃光せんこう、太陽が緑色に変る現象を『グリーンフラッシュ』という。緑色の太陽を見た者は幸せに成れるという幸運のいい伝えがある。

 これに願いをかけたら叶うのかしら? どうか、私たちを人の姿のままでいさせてくださいと、自分は何度々も強く願っていたら……男の人形は、いつしか人の姿に変り自分を抱きしめていた。

 やっと呪いが解けた! 

 二人は抱き合ったまま砂漠の砂の上を転がっていた。異国の言葉で「愛している」と男が何度々も云うから、自分は嬉しくて男の身体をなおも強く抱いた。


                    ∞


 気がつくと、そこは見渡す限り砂の海であった――。

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