第51話 邂逅記

 まったく先生のていたらくには愛想が尽きる。

 夏木露山なつき ろざんは、帝国日本を代表する立派な文学者である。代表作の「猫の始末記」「膝枕」「これから」などは素晴らしい文学で深い感銘を受けた。そんな夏木先生に憧れて書生になったのだが、同じ屋根の下で暮らすようになると先生に対する幻想が壊れてしまった。

 駒込千駄木町に居を構え、先生の奥様とお子さんが五人と女中が住んでいる。先生の収入は主に大学で教鞭きょうべんをとることである。いつも「文筆活動は金にならぬ」と嘆いておられる。


 僕の実家は飛騨の大地主、三男坊なので東京の大学へ進学して自由気儘な身分だ。

 父に文士になりたい夢を打ち明けたら、「三十までお前の好きにしてもよい。いずれは国元に戻って分家を継げ」と言われた。父は俳句を詠む人なので、僕の気持ちを分かって援助してくれる。

 僕を書生に雇うため、夏木露山に大枚たいまい払って頼んだという。盆暮れには、米や味噌醤油、酒など飛騨から馬車で届けてくる。貧しい夏木宅の暮らしを裕福な僕の実家がになっているといっても過言ではない。

 先日、先生は奥様と大喧嘩をした。

 その原因は僕の実家から贈ってきた長崎の銘菓カステラを戸棚にしまっていたら誰かに食われた。その犯人が先生だと判って、奥様が憤慨ふんがいして子供たちと女中を連れて実家へ帰ってしまったのだ。

 奥様が出ていって今日で五日目、先生は大学を休んで文士仲間たちと酒盛りだ。書生の僕に酒のさかなを買ってこいというが、もちろん銭は僕の財布から……。しかも「牛鍋ぎゅうなべが食べたい」とか言い出す始末だ。


 牛肉がどこで売られているのか分からぬ。どうしたものかと途方に暮れて、あてどなく馬車道を歩いていると、突然、男の怒号どごうが聴こえた。

「このアマぁ、なめんじゃねぇー」

 人力車の前で若い娘相手に車夫が息巻いている。を見てさざるは、勇無ゆうなきなり。

「もし、君!」

 二人の間に割り入って、車夫を牽制する。

「なんでぃ? 若造」

「今しがた、サーベルを差した巡査じゅんさが通りかかったので、車夫が若い娘をかどわかすそうとしていると告げておいた」

「な、なにぃ!」

「今、交番から手勢てぜいを連れてくるぞ」

 僕は大声で「巡査さーん、ここです!」通りに向って叫んだ。その声に車夫は慌てて逃げ出した。その背中に向って娘が不意に、

「すっとこどっこい、おとといきやがれ!」と罵声ばせいを浴びせた。


 田舎者の僕は威勢いせいのいい江戸っ子の啖呵たんか度肝どぎもを抜かれた。

「あ、あのう。大丈夫ですか?」

「車夫の野郎、釘を踏んだのはお前のせいだから倍払えとぬかしやがった」

 髪は西洋風の束髪、海老茶袴の楚々とした女学生が、乱暴な口を利くのに戸惑った。巡査は嘘だといったら、うふふと愛嬌のある顔になった。

「この近くで、文士の夏木露山のお宅をご存じない?」

「僕は夏木先生宅の書生です」

「まあ、偶然。案内してください」

 娘は江口鶴えぐち つると名乗り、神楽坂から先生の奥様の使いで様子を見にきたという。風変わりな娘だが印象は悪くない。

「先生! お客さんです」

 玄関から声を掛けると、奥から先生が現れた。

「おや、鶴じゃないか」

「お久しぶりです」

「ところで……余の妻子は達者にしておるか?」

「はい。今はお子様を連れて湯河原へ湯治にいっております」

「ふむ、呑気なもんだ」

 そういうと鶴を上がるように促し、僕にお茶を出すように命じる。


 先生から聞いた話によると、鶴は奥様の幼馴染の娘で神楽坂の芸者の娘だ。妾腹だが父親は華族だという。文明開化の流れに女子も学問を身に付けるべく女学校へ通っている。成績は大変優秀らしい。

「先生、文士の皆さんはお帰りになったのですか?」

 酒瓶が転がる客間に鶴は通されていた。

「文学論で口喧嘩になって帰ってしまった」

 文士は熱い人物ばかりである。

「先生、私も文士になりたいの」

「ほお、鶴ちゃんが……」

 風呂敷包みから原稿を出した。さっそく数枚読んだ先生は感嘆の声をあげた。

「なかなか良いじゃないか! 文士仲間に紹介しよう!」

「……先生、女の文士なんて奇妙だ」

「失礼ね! 紫式部も清少納言も女ですわ」

 鶴が口を尖がらせて僕に抗議した、もっともだと自分を恥じる。


 後ほど、鶴の書いた小説を読んだが、女性の感性と表現力、他に類を見ない独創的な作品だった。夏木露山の後ろ楯で文壇に登場した鶴は、たちまち脚光を浴び「たけとんぼ」「墨絵」などの名作を生み出した。

 僕は鶴の才能にすっかり惚れてしまった。千通を超える文通の末、お互いを無二の存在だと知り、勘当覚悟で結婚の許しを乞うた。父は鶴の小説を読み終えて、「一生、この人の傍に居なさい」と理解を示してくれた。晴れて夫婦となり、病弱な鶴を励まし、二人三脚で文学の道を歩むこととなった。 

 あの日、鶴との邂逅かいこうが僕の人生を大きく左右する切欠きっかけとなったのである。

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