第49話 ビニールプール漂流記

 気が付いたら、半径1メートル程のビニールプール乗って僕は漂流していた。

 見渡す限りの大海原おおうなばら、遥か彼方には水平線が見える。海の蒼と空の青その稜線りょうせんをかもめが飛んでいく。

 なぜ僕はこんなものに乗って海を漂っているのだろうか。

 たしか、あの日、丸テーブルに乗って、天井の電球を替えようとしている時だった。ガクンと足元が崩れるような、激しい衝撃を受けて気を失った。――目覚めたら、こうなっていた。


 独りぼっちで波に揺られていると、時間の概念がいねんすらなくなり、太陽が昇ったり沈んだりしているのを、ただ眺めているだけだった。

 ある日、かもめが一羽、僕の元へやってきた。

「あんた、いつまでそんなものにしがみ付いてるのさ」

「さあ、わからない。だけど海に落ちるのだけは御免だ。それにこのビニールプールの上だと喉も渇かないし、腹も空かないんだ」

「ふぅ~ん。だったら仕方ないね」

 僕の返答に納得したのか、かもめは再び大空に舞い上がった。


 夜は満天の星が降ってきそうなくらいまたたいている。

 まるで宇宙の一部になったような気がして、こうしていると昔のことを思い出して考えてしまう。

 ひとりの女性の名前と顔が浮かび上がってきた。

 森田詩織もりた しおり、色白でくっきりした二重瞼の黒い瞳と長い睫毛の可憐な人、かつて僕の恋人だった。大学時代から社会人になるまで三年以上付き合っていたのに、彼女とはもう別れてしまった。

 理由は僕が会社に勤めるようになってから会う時間がなくなり、詩織も就職先で新しい彼氏ができたからだ。

 呆気ないほど簡単な別れ方だった、『新しい彼氏ができたので、もうあなたとはサヨナラします』そういうメールが詩織から届いて、『了解しました』と僕は返信した。

 もうお互いに相手に興味を失っていたのかもしれないが、三年も付き合っていたのに、そんな別れ方はないだろう。

 何か詩織に言ってやるべきだったかもしれない。『ありがとう』とか『幸せになれよ』とか……だが、僕は素っ気ないメールの後、まったく感傷に耽ることもなく、すぐに仕事に取りかかっていた、明日の会議で発表するプレゼンの原稿を考えていたんだ。

 青春時代を共におくった女性から決別されたというのに……僕は失恋したのに……五分後には、まったく他のことを考えていたなんて……薄情な男だ。


 あの頃、僕は社畜だった。

 上司に気に入られていろいろ任されて、毎日仕事のことばかり考えていたんだ。

 デートの約束も仕事でドタキャンするし、詩織の誕生日も忘れていたし、メールがきてもいつも既読放置だった。その結果、愛想を尽かされて捨てられた。

 全部僕が悪い、それは分かっている。――けれど、ビニールプールに揺られていると、詩織のことばかりが頭の中を駆け巡る。

 彼女が恋しくて堪らない、今さら失恋の痛みが胸をしめつける。


 小さなビニールプールが沈まないのは不思議なくらいだが、そこに珍客が現れた。

「いったいどこからきたのさ」

 一匹の亀がビニールプールの中をうろうろしている。

「俺か? 君の意識の奥から這い出してきたのさ」

 そういって僕を見上げた。

「僕はいつまでこんなもので海を漂ってればいいんだろう」

「君はあっちの世界とこっちの世界の中間にいるんだ。どっちに行くかは君次第きみしだいさ」

「どういう意味?」と問うたが、「ふふん」と鼻で笑って、亀はスッと消えた。

 ああ、僕は寂しい。独りが寂しいんじゃない。詩織がいないのが寂しい。膝を抱えて僕は泣いた。


「ねぇ、この海の深さを知ってる?」

 いきなり海面から声が聴こえた、ビニールプールの周りを白いイルカが泳いでいる。

「この海は涙からできたのさ」

「涙?」

「よーく考えてご覧よ。あんたの彼女に対する仕打ちを……」

 あの頃の僕は、仕事もプライベートも順調、このままいったら同期で一番早い出世コースに乗れそうだった。

 詩織から別れを切り出される前に、僕は上司の娘と付き合っていた。心変わりしたのは僕の方が先だった。

「別れの言葉を女に言わせるなんて最低の奴だ!」

 それを知っていて詩織は、自分からサヨナラを告げたのだ。

 あれから半年後、働き過ぎが原因で僕は鬱病になってしまった。会社は休職中でいつ復帰できるか目途めどもたたない、毎日悶々として暮らしていた。

 あの日は電球を替えようとしたんじゃない。自分に絶望して首を吊ろうとはりに紐をかけたところまでは覚えている。

「死にぞこない!」

 イルカは僕をののしり、海面をくるくると滑るように泳ぐ。白い軌道が残って、それが立体的に浮かび上がって人の顔になった。

 死ぬほど逢いたかった女性の顔だ――。


詩織しおり!」


 意識を取り戻した僕の側には、泣き腫らした詩織の顔があった。

 梁にかけた紐が切れて死なずにすんだが、落っこちて頭を強く打ち意識不明になった。部屋で倒れていた僕を発見したのは詩織だった。どうやら、僕の部屋の鍵をまだ持っていてくれた。

 ずっと心配して僕のことを見守っていたようだ。

 ビニールプールは僕を彼岸ひがんに逝かせまいとする、詩織の祈りが作りあげた『よみがえりの舟』なのだ。

 こっちの世界に戻ってこれたのは、みんな彼女のお陰だった。


 僕のあやまちを許してくれるなら、もう一度、詩織と生きてゆきたい――。

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