第46話 雨の音

 俺は激しい雨の音で目が覚めた。

 今日の天気が雨だと布団の中で分かった瞬間、思わずチッと舌打ちをした。こんな日の通勤は憂鬱な気分になる。

 渋々布団から抜けだし、家族を起こさないように、冷蔵庫に買って置いた缶コーヒーを飲んでから職場へ向かう。

 自宅から自転車で三十分ほどの場所に俺の働く鍍金めっき工場がある。

 小さな町工場で高校を中退してから、ずっとそこで働いている。かれこれ十年になるが、給料は十年前とさほど変わっていない。それでも残業があればマシなのだが、不景気で残業もなくて、低賃金の俺の生活はかなり苦しい。

 ワーキングプアっていうのか、働いているのに貧乏でどうしようもない。


 俺は物心ついてからずっと貧乏だった。

 親父は小学校の時に病気で亡くなり、母子家庭で俺の下には妹と弟がいる。

 ビルの清掃会社で働く母親、三歳の子どもを連れて出戻ってきた妹、鬱病で働けない弟と俺の五人家族が三間しかない古い平屋で暮らしているのだ。

 ――息が詰まりそうな暮らしだった。

 生きるために働いているだけで、もう結婚とか、そういう世間並みの幸せはとっくの昔に諦めている。


 激しい雨が歩道に打ち付ける。

 合羽かっぱを着てたって、この雨では水が浸みこんでくる。頭から被ったフードのせいで視界が悪い。こんな天気だから早く職場に着きたい、近道に横断歩道ではない道路を突っ切ろうと思った。

 丁度、車が途切れたので自転車で飛び出したら、すり減ったタイヤが雨のせいでスリップして転倒した、俺は慌てて起き上がって自転車に跨った。

 トラックのライトがまぶしいと思った瞬間、自転車ごと撥ね飛ばされて、俺の身体はちゅうを飛んだ。

 ガツンという音が頭蓋骨に響いて意識を失った――。



 どれほど意識を失っていたのだろうか? 

 あの事故で俺は死なずに済んだようだが、ここはどこだ?

 包帯でも巻かれているのか目が見えない。声が出ないし、手足の感覚が全くない。

 ――ただ耳だけが聴こえている。

 空調の音、医療器具の音、廊下を歩く靴音、そしてかすかに雨の音がする。


 ボソボソと人の話し声が聴こえてきた。


「……二週間になるが意識は戻りません」

「脳死状態だ。このままでは植物人間だろう」


 この声は医者だろうか、俺の容態のことを話しているみたいだが……脳死? ちょっと待て! 耳も聴こえてるし、意識もあるんだ。


「……弁護士さん、彼の家族はなんと返答を?」

「かなり貧乏な家族でね。このまま医療費がかかったら困ると言ってます。彼が脳死で蘇生そせいしないのなら、医学に貢献したいと……」

「そうか。現金は払ったのかね?」

「はあ、札束をチラつかせて、鬱病の弟さんを無償で入院させると言ったら感謝されましたよ」


 なんの話をしてるんだ? 医学に貢献って……俺をどうするつもりだ。


「二十代半ばで特に病歴もなく健康体です」

「この病院の大株主で政治家のお孫さんなんだ。早く心臓移植の手術をしないと助からないかも知れないと思ってた矢先に、いいドナーが見つかったよ」


 心臓移植だって!? 俺の心臓を移植するつもりなのか?


「家族の許諾きょだくを得てるから、先生、できるだけ早く移植手術の準備にかかってください」


 おいっ、待ってくれ! 俺は生きてる!!


「政治家の先生に恩を売っておけば、うちの病院も何かと便宜を図って貰える」

「財閥出の政治家の孫だし、貧乏な男の心臓が役に立って良かったですね」

「理事長、明後日あさってには執刀しっとうできます」


 理事長、弁護士、外科医の三人の男は部屋から出て行ったようだ。


 どうやら俺の心臓を家族に売られてしまった。

 この身体は解体されてパーツになって誰かの身体に使われるんだ。

 クソ! どんなに足掻いても身体が動かない。


 ……俺はもう死ぬしかないのか。


 こんな状態で生きていても、家族の負担になるだけだし、医学的には俺は脳死だそうだ。どうせ希望のない人生だったし……もういいや――俺の心臓はくれてやるよ!

 政治家の孫とかいってたなあー、ひと言だけいわせてくれ、



『こんなはイヤだ――――!!』



 

「おじいちゃん……」

「目を覚ましたのかい?」

「僕ね、ヘンな夢をみたんだ」

「どんな?」

「知らない男が夢に現れて、自分のこと話してたけど……起きたら忘れちゃった」

 利発な目をした少年がベッドに横たわっている。

 心臓移植の手術後一ヶ月経つが経過は順調なようだ。

「移植手術のお陰で元気になって良かった。お前は大事な跡取りだから、いずれ政治家になって、この国のに立つのだよ」

「僕の心臓は誰かに貰ったものだから、その人の分まで頑張るよ。さっき、夢の中で大事なメッセージを聴いた気がする」

「そうか」

「おじいちゃん、外は雨降ってる?」

「さっきから降りだした」

「僕、雨の音は嫌いだなあ……」



 人の感覚の中で、死の直前まで耳は音を聴いているという――。

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