第43話 えのぐ 

 男は暗い顔でパリの街を彷徨っていた。

 売れない画家の彼は、いつもセーヌ川の畔で観光客相手に似顔絵などを描いては、細々と生計を立てていた。

 恋人は踊り子で、いつも彼の絵のモデルだった。

 小さなアパートメントで二人は暮らしていたが、貧乏暮らしに愛想あいそうかしたのか、ある日、突然、恋人が居なくなった。男はパリ中を捜し回ったが見つからなかった。

 その上、彼女には金貸しから借金があった。

 残された彼の部屋には、連日借金取りが押しかけ、アパートメントも追い出された。

 金に困った男は、踊り子の恋人を描いたキャンパス画を処分しようと、画商に売りにいったが、まったく相手にされず、そのまま店に置いて帰ってきてしまった。

 恋人に逃げられ、絵も売れず、住む家もない。――もう男には絶望しかなかった。

 よれよれのコートのポケットには、なけなしの金で買った高価なえのぐが一本入っている。この色で全てを終わらせるために……。

 歩き疲れた男は、古い教会の前で立ち止まった。

 廃墟のような教会だが中へ入っていく、ステンドグラスから差し込む光だけで、内部は 薄暗く陰鬱いんうつだった。教会の椅子に腰かけたが、別に祈る気もなく、懺悔ざんげすることもない――ただ、疲れ果てて楽になりたいと願っていただけだ。

 男は静かに瞑目めいもくする。――と、急に声が聴こえた。


「ねえ、なぜネロは死んだと思う?」


 その声に、ゆっくりと男は目を開けた。

 知らない少年がいつの間にか隣に座っている。八歳くらいの小さな男の子で紺色の半ズボンと白いカッターシャツ姿だった。真冬なのに寒くないかと驚いたが、その子は平然としている。

 その質問に答えないで黙っていると、

「おじさんはネロのことを知らないの? フランダースの犬に出てくる男の子さ、大聖教のルーベンスの絵を見ながら死んだ子だよ」

 ……そんな話をされても、今の男にはなんの興味もない。その少年が、早くどこかへいってくれと願うばかりだった。

「僕ね、ネロは弱虫だと思う。自分から生きることを止めたんだもの」

 男が無視しても、少年は気にせず喋り続ける。

「きっと……疲れていたんだ」

 ポツリと男が呟いた。まるでネロの気持ちを代弁するかのように――。

「今のおじさんみたいに?」

「何をやっても上手くいかないと、生きる希望さえ失われる」

「そう。じゃあ、これをみてよ」


 ――すると、ステンドグラスから差し込む光が、映画のスクリーンみたいに白くなって映像を映し出した。

 病院のような場所で、女性がベッドで眠っている。

 それを見た瞬間、男は恋人の名前を叫んだ。

「この人ね。車の事故にあって入院してるんだ。大丈夫、彼女は死なないよ。もうすぐ目を覚ますから、そしてお腹には赤ちゃんがいる」

「……赤ん坊って? 俺の子か?」

「もちろんそうさ。二人は愛し合っていたんだろう?」

 まさか、恋人が事故にあって入院していたなんて……しかも自分の子を身ごもっているというのだから驚きだ。

「借金はえのぐを買うためにしたのさ。彼女が利息を払っていたが、入院で払えなくなって借金取りが押し寄せたんだ」

 貧乏な画家がえのぐを買えなくて困っていたら、どこからか金の工面してくれてたのは、実は恋人が借金していたから。――今にして男は気が付いた。

 恋人に感謝の気持ちと新しい命に感激していた。


「おじさんにも、待っていたら幸運が訪れたのに……」


 スクリーンの画面が切り替わって、画商の店になった。

 店の片隅に男のキャンパス画が置かれていた。そこへ立派な身なりの紳士が訪れて、男の絵を見るなり大絶賛、この画家の絵がもっと欲しいと画商に注文している。

「この紳士はアメリカの大金持ちで絵画のコレクターだよ。もう一日待っていたら画商が大金を持っておじさんの絵を買いにくるんだから」

「本当か? この俺の絵が売れるなんて……」

 喜びで涙ぐむ男。

「うん。おじさんは有名な画家になれるよ」

「絶望して全てを終わらせたいと思っていたのに、まさか幸運が訪れるなんて……」

「苦しい時でも諦めなければ、きっとチャンスがある」

「そうだな、もっと絵を描くぞ!」

「絵が売れて、家族もできて幸せになれたのに――」

「生きる希望が湧いてきた!」

「もうちょっとの我慢だったのに……」

「これから人生をやり直すさ」

「……でも、手遅れだよ」

「えっ?」

「絞ったチューブは元に戻せない。コバルトバイオレットのえのぐは猛毒砒素もうどくひそが含まれている。チューブ一本で致死量なのだ!」

 少年が目配せした場所には、口の中をコバルトバイオレットに染めてた男が、手にえのぐを握りしめて死んでいる。

「自ら死を選んだ者に、もし死ななければどうなったか。それをお観せするのが、死神の義務です。フォフォフォ……」

 不気味な声と共に、少年はカマを持った怖ろしい死神に変わっていた。


「さあ、行きましょう」


 うぎゃあぁ―――男は絶望の叫び声を上げてうずくまった。


 画家の死体から魂を抜き取ると死神は冥界めいかいへと消えていった。

 ステンドグラスから漏れる光が教会をコバルトバイオレットに染めてゆく――冬の午後の物話だった。

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