第38話 幸福荘奇譚

『隣に居ます。一度訪ねてください』


 俺の部屋のドアポストにそんなメモが挟まれていた。

 白い便箋に黒いマジックで丁寧に書いてあった。一度訪ねて……って、ずいぶん押し付けがましいと思った。

 半年前に引っ越ししてきたが、近所付き合いなどまったくない、たしか隣室は空部屋あきべやだった筈だ。

 俺の住むアパートは駅から徒歩40分、築30年以上、日当たり悪く、壁はシミだらけ、擦れ切れた畳、1K四帖半の部屋、家賃は破格の一万円、貧乏な俺が少しでも家賃の安い部屋を求めて辿り着いたのが、この『幸福荘こうふくそう』だった。……てか、幸福な人間がこんなボロボロのアパートに住んでねぇーよ、と思わず突っ込みたくなる。

 こんな激貧げきひん生活を余儀よぎなくされたのは、ぜんぶ親父のせいなんだ。


 三年前に母さんが病死してから、俺と親父の二人暮らしになった。

 酒も煙草もやらないクソ真面目な親父だったが、妻を亡くした寂しさを紛らわせるためか。毎晩、帰りが遅いと思ったらパチンコを打っていた。

 休日は朝からパチンコ店に入り浸りで家にも帰らない。ギャンブル依存症の親父は、負けると不機嫌になり八つ当たりするようになった。

 パチンコに狂った親父に、嫌気がさした俺は親父とは口も利かなくなった。

 その内、借金取りが家に押しかけるようになった。

 親父は会社を辞めて退職金で借金の穴埋めをしたが……焼け石に水だった。しかも無職なのに朝から晩までパチンコ三昧では借金は増えるばかりだ。

 俺も大学を休んで働かないと日々の食費にも事欠く有り様になった。

「クソ親父! いい加減にしろよ!」

 ついに俺は殴った。

 パチンカーで青白い顔した親父は、芥子粒けしつぶのように吹っ飛んだ。

「そんなことで死んだ母さんに顔向けできるのか?」

 親父の顔に遺影を押し当てて、俺は泣きながら抗議した。

 うなだれた親父は、すまない、すまない……と何度も謝った。――が、翌日、古い旅行鞄とともに失踪してしまった。

 そして親父の借金を俺が被った。

 一度は返済したが、その後、膨れ上がった借金の額が五百万円を超える。勝手に俺の名義を使って借金したので、俺の所に取り立て屋がきたのだ。

 弁護士に相談したら『自己破産じこはさん』を勧められたが、親父の借金のせいで、俺の人生まで詰んでしまうのは絶対に嫌だ。

 母方の親戚で資産家の伯父に、借金の肩代わりを頼んだら、『毎月、返済します』の誓約書と自宅を担保に取られた。


 超ハードな俺の借金返済生活しゃっきんへんさいせいかつが始まった。

 昼間は自動車部品の工場で派遣社員として働き、深夜にかけて居酒屋でバイトをして、休日は朝からビル清掃の仕事だ。暇があればチラシ配りも……。

 寝ている暇もない、ロクなものも食べていない、ストレスは溜まるばかり……。

 こんな生活が半年も続いたら、疲労困憊ひろうこんばいして生きる気力もなくなる。自分でこさえた借金でもないのと、逃げた親父を心底恨んだ。


『隣に居ます。一度訪ねてください』


 なんだよ? ウザイなあー。深夜バイトから帰ったら、またメモが挟んであった。

 俺はムカッ腹を立てて隣室のドアを乱暴に叩いた。

 返事はなく、何気なくノブを回したら開いた。玄関から丸見えの四帖半、中央に女性が座っている。

「母さん……?」

 三年前に亡くなった母が隣室にいた。

「どうして? ここに居たの」

 何も答えず微笑んでいる。

 今日まで苦労の連続だった、大好きな母さんの顔をみたら、子供のように泣きじゃくってしまった。

「母さん、俺も連れていってくれ」

 しゃくりを上げながら懇願した。

『マダ、アナタハ、ダメヨ』

 この世の人でないことは分かっている。

「だったら、せめて親父を……元の親父に戻してくれ」

『ソウネ……』

 俺の頭を優しく撫でて、ぼんやりと母さんは消えた。


 泣き腫らした目で隣室から出てきたら、なんと親父がすぐそこ立っていた。

 その姿を見た瞬間、怒りが込み上げて、こぶしを握りしめ殴りかかった。

 すると、いきなり親父が土下座して謝った。

「すまない。どうか償いをさせてくれ……」

「バカヤロー! 借金はどうするんだ」

 俺の怒号に、親父は古い鞄を開けて見せた。中には札束が入っていた。

「強盗やったのか?」

「違う! 真っ当な金だ」

 親父の話によると、失踪した後、死に場所を探して東北の町を彷徨っていたが、死にきれず、温泉街のパチンコホールで働いていた。

 出もしない台で躍起やっきになってる、お客の姿を見ている内に、だんだんとパチンコ熱も冷めていった――。

 ある晩、死んだ妻が夢枕に立ち、『鞄の底をみて』と言った。翌朝、鞄の底敷きを外してみたら妻の生命保険の証書が出てきたのだ。

 死亡保障が一千万円、借金を完済しても少し残る金額だった。


 平穏へいおんな生活が再び戻った。俺はまた大学に通い、親父は再就職した。

 心の弱い親父が二度とギャンブルに手を出さないように、休日は親子で釣りやカラオケを楽しんでいる。

 あの夜『幸福荘』の隣室で起きた出来事は何だったんだろう。

 もう隣室のドアを叩くことはしない。だって僕らの母さんは、今も心の中に住んでいるから――。

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