第21話 バスツアー
母ちゃんと二人で旅に出る。
鞄に歯ブラシ、着替え、旅行の日程表と、最後にわくわくを詰めて、チャックを閉める。
「母ちゃん、出掛けるよ」
いつも、先に起きてるくせに、いざ出掛けるとなると、あれがない、これがないと慌てる困った母ちゃん。
バスツアーの集合場所に出発ギリギリに駆け込んだ。
先に乗り込んでいた乗客の皆さんに「ゴメンなさい」と謝りながら、私たちは座席に着いた。
添乗員さんが全員揃ったのを確認してバスの出発を告げる。
窓際の席が母ちゃんの指定席、外を眺めて、海が見えた、山が見えた、はしゃぐ子供みたい母ちゃん。
母娘でバスツアーに行くのは、これで何度目?
私が社会人になってからは年に二、三度は一緒に行ってるよね。
私が小学校三年生の時に父ちゃんが家を出ていった。
若い愛人ができて、会社も辞め、家族を捨てていった酷い父親だった。
離婚しないまま、愛人と行方をくらまし、親戚の少ない母ちゃんは誰にも頼れなくて……パートを二つ掛け持ちしながら朝から晩まで働いた。 なのに、母ちゃんは私の前で父ちゃんの悪口を一度も言ったことがない。
《あたしとは別れたら他人だけど、お前とは血が繋がってるから憎んでも他人になれない。だから父親のことを責めたら、お前が一番傷つくから……》
捨てられても恨まないなんて、バカ!
《乗り物酔いの薬あるよ》
《切符は持ったかい?》
《酢昆布食べる?》
バスの中でウトウトしはじめると、そんなことを言ってくる。
いちいち、うるさいけど……仕方ないか。
機嫌の良い母ちゃんは古い唄を口ずさんでいる。
私の知らない、ずっとずっと昔の唄だね。
私が五年生の頃、近所の人の口利きで後妻に入らないかという話があった。
相手は裕福な家で先妻が亡くなって、三人の子持ちだと聞いた。
旦那待つより再婚したら、もう朝から晩まで働かなくてもいいからと勧められた。
けれど、家政婦代わりに義理の子の世話みるより、貧乏しても実の娘と二人暮らしが気楽でいい。
母ちゃんはキッパリ断わった。
ひょっとして、父ちゃんが戻って来るのを待っていたの?
バスが最初のコースに着いた。
大きな
お賽銭を投げて、鈴を鳴らし、柏手を打って願い事をしよう。
どうか、私の願いが天に届きますように!
高校三年の時の家出していた父親が死んだ。
警察から知らせがきて遠い町の病院まで母ちゃんが行った。
すでに愛人と別れて独りぼっちだったけど、妻子に合わせる顔がなく……家には戻れなかったそうだ。
母ちゃんの顔を見たら「スマン……」それだけを言い残して息をひきとった。
父ちゃんの遺骨を持って帰った母ちゃんに私は腹を立てた。
「そんな奴は父親じゃない! 赤の他人だよ」
遺骨を捨ててしまえと怒鳴った。
《病気で苦しんで死んだのだから、もう許してあげなよ》
悲しそうな顔で母ちゃんが言う。
そんな、お人よしだから苦労を掛けられるんだ。
三十過ぎても結婚しようとしない私に一度だけ訊いたよね。
《お前は結婚しないつもりかい?》
「母ちゃんみたいな不幸な結婚で人生台無しにしたくない!」
《そうかい。けど、母ちゃんはお前を産めたから満足だよ》
本当は好きな人がいたけれど、母ちゃんを一人置いて……。
お嫁になんかいけない。
「どうして、もっと早く医者に診て貰わなかったのよ!」
私は泣きながら叫んだ。
夏過ぎから、よく疲れたと横になることが多かった。
母ちゃんの顔色が黄色くなってきた。
みかんの食べ過ぎだと本人は呑気なことを言っていた。
医者嫌いの母ちゃんを無理やり病院に連れて行ったら……。
検査の結果『
もう手術もできず、放射線療法することになったが、どんどん衰弱していく。
《お前を残して死にたくない。独りぼっちになってしまう》
病院のベッドに横たわる病人の目からはらりと涙が零れた。
母ちゃんの手を強く握って、私は止めどなく涙を流した。
私たち母娘は二人で支え合って、今まで生きてきたのだから……。
『お一人ですか?』
隣の席の老婦人が声をかけて来た。
「いいえ。母と一緒です」
「えっ?」
「ここに居ます」
そう言って、胸に手を当てた。
「私は母の思い出と一緒に旅をしています」
「……そうですか。私も連れ合いを亡くしてからは、一人でバスツアーに参加してるんですよ」
老婦人は優しく微笑んだ。
母ちゃんが亡くなって、一年が経った。
独りぼっちになって、泣いてばかりいた私を支えてくれる人ができたよ。
新しく家族になる人と今度は一緒にバスツアーに参加しようかな。
昔、一緒に訪れた町を独りで歩く。
母ちゃんの思い出を辿りながら、心の中の母ちゃんとお喋りしながら、切なくて涙ぐむ私。
――旅先に涙を捨てていくよ。
この旅から帰ったら、私、きっと元気になるから……母ちゃん、もう心配しないで!
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