第3話 青いサーカス
私は八歳の時に一度だけサーカスを観たことがある。
ボリショイサーカスというロシアのサーカス団だった。大きなテントの中で両親と一緒に空中ブランコ、綱渡り、猛獣ショーを手に汗を握りながら観たように思う。
サーカスを観た夜、母が消えた。
急に居なくなった母のことを父に訊ねたが、「お母さんは入院した」というだけで、どこに入院しているのかも教えてくれない、病院にも連れて行って貰えなかった。
まるでイリュージョンのように母は忽然と私の目の前から消えてしまった。もしかして魔法の呪文を唱えると……どこからか満面の笑顔で母が現れるのかしら? そんな期待をずっと抱いていたが、結局、母は姿を現さない。
それは『入院』というよりも『失踪』だった。
その内、祖母が同居して私の世話をするようになると、母の話は禁句になってしまって、母の荷物もきれいに片付けられていった。
両親と観たサーカスは私に取って、最後の家族の幸せな時間だった。――その後、ひどく無口になった父と出掛けることもあまりなかった。
その父が亡くなって三ヶ月が過ぎた。
仕事中に脳梗塞で倒れた父はそのまま帰らぬ人となった。祖母も三年前に他界していたので、ついに私は
ああ、この世に血のつながった人がいない――待てよ、母はいったいどこへ行ってしまったのだろう? 二十年たった今も母の消息は分からない。
だが、戸籍上の母は今も家族として記載されていた……父は最後まで何も教えずに
遺品の整理をしていたらタンスの裏から一枚の額が出てきた。綿埃にまみれた額を拭くときれいな青色の絵が現れた。『青いサーカス』というマルク・シャガールの絵だ。それは母が好きな絵で複製だったが、昔、家の居間に飾られていたように思う。
なぜ、こんなところに父は「青いサーカス」を隠していたのだろうか?
父宛てに見知らぬ人物からはがきが届いた。
〔お元気ですか? 最近、お見舞いに来られないので心配しています。 ○○病院内 山口晴枝〕
山口晴枝? いったい誰だろう?
私は気になって、その病院を訪ねることにした。――そこに行けば、何か父の秘密が分かるような気がする。
幾つもの電車を乗り継いで、どんどん都会を離れてゆけば、美しい海岸線の見える古い病院に辿り着いた。サナトリウムのようだが、心療内科・神経科と書いてあるから、たぶん精神科病院のことだろう。
受付で『山口晴枝』という人物のことを訊ねたら、「少々、お待ちください」と言われた。どうやら、ここの職員のようだ。海の見える待合室で待っていると、五十代の看護師がやってきた。
私が父の名前を告げ娘ですと説明すると――。
「あら、お嬢ちゃんも昔、一、二度ここに来たことがあったわね」
「えっ?」
そんな記憶はない、母が消えた前後の私の記憶は曖昧なのだ。
「……そう、お父さん亡くなったんですか。毎月、欠かさずお見舞いに来られてたのに急に来なくなって、心配で……本当はそういうことやってはいけないんだけど、個人的な判断ではがきを送りました」
毎月ここに父が来ていた?
そういえば、釣りだといって早朝から出掛ける日があったが、一度として釣った魚を持って帰ったことはない。それは口実でここに来ていたのか。
「あのう……ここには誰が入院しているのでしょうか?」
核心に迫る質問をした。
「何も聞かされてなかったの?」
驚いた顔で看護師は私の母の名前を告げた。
やはり、そうだったのか。二十年前、忽然と消えた母は精神科病院に入院していたのだ。
封印されていた、幼い私の記憶が鮮明になってきた――。
サーカスを観た日。家に帰ってからも興奮冷め遣らず、あの空中ブランコは衝撃だった。
その頃、私たち家族はマンションに住んでいたが、母の精神状態が不安定で大声で叫んだり、沈み込んだりと危険な状態だった。
空中ブランコに乗りたいと母にいったら――私の足首を掴んで、七階のベランダから宙ぶらりんにした。その時の母の嬉しそうな顔といったら、
七階のベランダから見た逆さまの青い空! 私の悲鳴を聴きつけて父が助けに来てくれた。
――そこから、しばらく私の記憶は曖昧になる。私が怖がるので居間に飾られていた青いサーカスも片付けたのかも知れない。
父は私を母から遠ざけることで守ろうとした。母は遠ざけられることによって守られていた。――この二十年間、私たち家族を父は守っていたのだ。
「お母さんに会いますか?」
看護師のその言葉に静かに頷いた。
病室のドアを開けるとベッドに中年の女性が眠っている。壁にはシャガールの『青いサーカス』が掛けてあった。
「今は落ち着いています」
この人が私の……。
「お母さん」
イリュージョンが解けて、やっと母を見つけることができた。
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