第47話 脅迫⑩

麻衣子は一般的な家庭よりも少し裕福な家庭で育ってきた。

私立の中学校に通い、そこからエスカレーター式で大学まで大きな不自由もなく過ごすことができた。

そこから就職して、結婚を期に退職し専業主婦になった。

こんな人間の嫌な部分を見たのは初めてのことだ。ましてそんな相手と会話の駆け引きなどしたことがない。


祐一からレイジの様々な情報と作戦を聞いたときは、この方法でレイジは引き下がるしかないと思えた。

しかし実際はそう上手くはいかないようだ。

こんな事だったら祐一に遠くから見ていてほしいと、強がらずにお願いしておけばよかったと後悔した。

「これで最後にしよう」

レイジが畳み掛けるように言葉を発した。口八丁手八丁を駆使してくるレイジに対して勝てるとは思えなくなってきた。

「僕は別にどっちでもいいんだけどさ。面倒臭いことになるくらいだったら、真実を告げられて、麻衣子さんが対応に追われる姿を想像するのも楽しいし。麻衣子さんはどうしたい?」

「私は・・・」

蚊の鳴くような声という表現がふさわしく、うつむいて口を小さく動かした麻衣子はそれだけ言うと言葉を止めた。

まだ考えが決まっていない。

頭の中で祐一とのメールのやりとりを思い出した。


『それでもという言葉って結構すごい言葉だと思うのです。理屈では間違っていないことを言われたとしても、それでも。自分が損すると分かっていても、それでも。麻衣子さんがよく分からなくなったらこの言葉を使って、自分のやりたいことをやってみるのもいいかもしれませんよ』


私が一番望んでいることは子供が不幸にならないこと。

脅しに屈してびくびく過ごすような親が、この先子供を幸せに育てられるわけがない。だから私が本当に望んでいることはあなたの言いなりになりたくないということだ。

麻衣子の中で確固たる決意となった。

そして先程とは対照的な大きな声で目の前の相手に告げた。

「それでも私はあなたと戦います。もし何かしてくるようでしたら、相打ち覚悟で勝負します」

「・・・訴えられることになっても?」

「はい。証拠になるか分かりませんが、こういうものもありますから」

麻衣子はそう言うと、ポケットから小型の長方形をした機械を取り出した。数個のボタンとマイクが付いている。

「前回お会いしたときの会話も全て録音しました。今もです」

一瞬の静寂が訪れた。

カフェ内には他の客の話し声が、店内に流れる音楽のように空間を支配していたが、二人の耳はそれを捉えることはなく無音であると思い込めた。


レイジはテーブルに肘をついていた手で頭を抱えると、視線を麻衣子からはずして斜め上空を見あげた。

「あーあ、くだらない。そこまで犠牲は払えないよ。分かった、もう関わるのは止める」

レイジは自分だけに言うかのような口調でそこまでいうと、裏返しに置かれてあった伝票を取り上げながら席を立った。

その様子を麻衣子は視線だけで追った。このまま終わってくれることを願いながら。

「最後に・・・」

立ち上がった体を少し前のめりにして、レイジは片手をテーブルに付ける。

「麻衣子さんのこと好きになったんだ。だからズルをしてでも欲しくなった。結婚しているし、長い時間をかけて惚れさせる自信が俺になかったんだろうな。同じ状態なのに手にいれることができた不倫相手への嫉妬もあったかもね。一応言っておくよ。ごめんね。これ以上好意を持った女性を困らせることはやめておくよ」

レイジはゆっくりではあったが、言葉をはさむ隙は与えない程度のリズムで話した。そして返事を聞くこともなく麻衣子に背を向けると、そのまま出口に向かって歩き出した。

振り返られるのが怖く感じた麻衣子はずっとうつむいたまま彼の方は見なかった。それでも視界の端にうつるその様子に全神経を集中させていた。


レイジが会計を済ませて自動ドアから外へ出たことを確認すると、麻衣子は大きく息を吐いた。

急に鼓動が速まった気がする。

緊張から開放された体は、先程までは停止していたのではないと思わせるくらい、機能を活発化させたようだ。

しばらく何もせずただ座っていた。

ふと、目の前のグラスにほとんど減っていないアイスティーの存在に気付くと、ストローに口をつけ、一度も口を離すことなく飲みほした。

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