第43話 脅迫⑥
お互い食事が終わると予想通りレイジはポケットからこのホテルの鍵を取り出してきた。
「部屋とったから行ってみようか」
正念場にきた。
ここでどういう態度をとるかで家庭は崩壊、息子はいじめのターゲットになるかが決まる。
麻衣子はレイジに分かられない程度に小さく息を吐き出した。
「初めて会った人と行くところではないでしょ」
最初から断ろうと決めて食事に臨んだのだが、声を出すことにすごく勇気がいる。
本当は拒絶をしたかったが、怒らせるのは極力避けた方がいいという思いもあって我慢した。
レイジの表情は少し驚いているように見える。従うしかないという確信が大きくあったのだろう。
一瞬だけ麻衣子はせいせいしたものを感じた。
しかしすぐにそれはなくなり、大きな不安と恐怖が襲ってくる。それでも言えた自分に誇らしさはある。
「そう。ふうん」
レイジは何か言いたげな素振りではあったが、それを表に出すことはなく目線を上空にあげて何か考えている。
どう出るのであろうか。
強引な展開になったら怖いという思いもあったが、そうなれば完全な脅迫として対応もしやすくなるであろう。
「仕方ないね」
言葉ではそう言っても全く諦めた様子は感じ取れない。レイジはわざとらしく思いついたような動きをすると話を続けた。
「そうそう、友達の女性の話なんだけどさ、不倫したのがばれたんだって。相手の家族も巻き込んで大騒ぎになったそうだよ。不倫相手の奥さんは包丁持ち出して暴れ回って刑事事件にまで発展するし、その不倫した女性の子供は学校でいじめられる対象となって転校して、夫は精神がおかしくなって仕事を辞めることになったりしたんだって。こんな酷いことをしていたって自覚が本人にあったのかね。それだけ酷いことをしたんだから本人はどんな罰でも甘んじて受けるべきだと思わない?」
「そんなことするつもりはなかったのよ」
麻衣子の言葉は想定済みとでも言いたげにレイジは言った。
「その軽い気持ちがどれだけの人を傷つけたりするんだろうね。悪気がなければ許されると思っているのかな。もっと認識すべきでしょう」
麻衣子には返す言葉がない。そんな萎縮した様子をレイジは確認するとさらに言葉を続けた。
「子供は不幸にしても、自分の身は守りたいって最低の発想だよね」
この回りくどい発言こそがレイジの本性なのだろうと寒気がした。
ただ刺すような言葉の数々は確実に麻衣子の心に突き刺さった。自分が最低の人間なんだと思えてくる。こんな最低の人間はどうなってもいいから家族だけは守らないといけない。
「・・・私の家族に会わないと誓える?」
麻衣子は絞り出すような声でレイジに告げた。
「誓えるよ」
レイジの約束に何の保証もなかったが、今は一縷の望みにでもすがりつきたかった。
「分かったわ」
麻衣子はうつむいたまま答えた。
レイジは押さえきれない笑顔を浮かべ席をたった。
レストランを出てから一度ロビーの前を横切ってエレベーターに乗り込む。
上がり始めたエレベーターは三階を超えたあたりからガラス張りになり、外の景色を見ることができた。
もたれかかるようにしてエレベーターに乗っている麻衣子は漠然と外の景色を眺めている。
スーツ姿で歩いている人、友達と楽しそうにしゃべりながら歩いている人。みんなどこか自分とは別世界の人のように感じた。
麻衣子は今更ながら自分がすごく汚い存在のように感じた。
何を浮かれてあんなことしたのだろう。どうせ汚いのなら、さらに汚れたところで何も問題はないのではないか。
眼下に見える人々が人形のようにどんどん小さくなっていく姿を眺めながらそんなことを思い始めていた。
エレベーターが二十階に到着するまでは数十秒であった。
扉が開くとそこは客室しかないフロアで部屋番号を案内する看板だけがあった。物静かな雰囲気は先ほどまでのレストランの喧騒とは別世界のように感じる。
エレベーターから降りだそうと一歩踏み込む足がとても重く感じて動かない。このまま扉がしまってエレベーターが下っていけばいいのにと思った。
しかし開ボタンを押したまま降りることを促してくるレイジの前に、それは不可能であることを悟った。
先導するように部屋に向かって歩くレイジの数歩後ろを麻衣子は何も考えず歩いた。床に敷かれたカーペットが足音すら殺しているのでまったくの無音の空間だ。
その時、麻衣子のバッグの中から音が鳴りだした。
携帯電話の振動音である。
普段は気付かない程度の音が、確実に分かる音として廊下に響いた。
条件反射のように携帯電話を取り画面を見た。
『大丈夫。僕に任せて下さい』
ユウというメル友から届いたその一通は、麻衣子の乾いた心に染み込む恵みの雨のように感じられた。
「やっぱり止めます」
大きな声でそう言うと麻衣子は踵を返して先程のエレベーターに向かって力強く歩き出した。
慌てて追いかけてきたレイジが何か言っているが麻衣子の耳には入ってこない。
そのままロビーを通り過ぎ、ホテルを出た。日常の風景、気温、騒音、その全てが暖かく自分を迎え入れてくれた気がした。
レイジは電車に乗り込む所までついてきた。
扉がしまってやっとレイジから離れたとたん、どっと襲ってくる疲れと共と安堵感も重なり、その場に座り込みたい気分にさせた。
しかし麻衣子は最後の力を振り絞る感じでバッグの中に手を入れ、固い感触があることを確かめると、そこについている突起物を手で押した。
そこから先、どうやって家まで帰ってきたのかほとんど麻衣子の記憶には残っていなかった。
夜になって大きな疲労感を残しながら麻衣子は目を覚ました。
そこで初めて自分は寝ていたことを知った。
携帯電話の電源は切れている。電源を切った記憶すらない。
だるい体に鞭を打って携帯電話の電源を入れてみると、しばらくしてメールを受信する画面が表示された。
開くことにためらいがあったが覚悟を決めた。
予想に反してレイジからは来ておらず、ユウから届いていた一通だけである。
安堵感と共に届いたメールを開いた。
『今日はお疲れでしょうからゆっくり休んで下さいね。何か分かったらまた連絡します』
他人のことがこれほどまでに心強く感じた瞬間は初めてのことではないだろうか。
メール画面を閉じた携帯電話を額に当てて、麻衣子は布団の中で涙した。
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