第4話 一部の代償
俺が鬼一眼々と出会ったのは、8年前の夏の日だった。いや、出会ったというと少し語弊があるかもしれない。厳密に言えば“目撃した”だ。
東京のとある路地裏で、まだ少女の面影を残す彼女はチンピラ風の男3人と相対していた。男たちは明らかな敵意を見せていて、今まさに彼女に害をなそうとしているのがわかった。当時、20歳そこそこで既に裏社会でデビューしていた俺には、それがわかった。
そこは俺の兄貴分が管轄するエリアだった。ヤクザなどということをしながら正義感が強く、曲がったことが嫌いな兄貴分に倣って、俺には彼に似た正義感が既に培われていたから、大の男3人が少女1人をいたぶろうとしているその現場に、俺は分け入っていこうと一歩踏み出した。
瞬間、血肉が飛び散り、断末魔の叫びを残して男たちは“挽き肉”になった。
「……は?」
少し離れたところに居た俺は、その瞬間、何が起こったのか理解できなかった。今でもそれはよくわからない。ただ、その様子を見ていた彼女が、鬼一眼々が、その仄暗い眼に笑みを浮かべていた景色を今も鮮明に思い出せる。狂気というには劇的で、恐らくどんな言葉でも表現できない、ヒトの深淵の感情を見たような気がした。
「 」
そして彼女は俺の存在に気付いて、こちらを向いて何かを言った。それが何だったのか、俺はもう思い出せないけれど、きっとそれは狂気と憎悪と絶望を混ぜたような色をしていたと思う。
****
「花形敬暉」
夏でもないのにこんな過去を思い出したのは、恐らく今日、このとき、鬼一眼々と会う約束をしていたからだろう。交差点のスタバ前で立っていると、いつの間にかやって来ていた眼々が傍らでこちらを見上げていた。
「……なぜいつもフルネームで呼ぶんだ」
「“花形サン”が往来を歩いていたらコトだからね」
「相変わらず、変な気遣いをするんだな、眼々」
「“変”の定義がうちには理解不能だ」
俺から見るととても小柄な、日本人女性の平均よりやや低い身長の彼女は小首を傾げた。俺は彼女の周囲にいつもお目付け役のように付いて離れない男の影を探したが、あの黄色い瞳は見つけられなかった。
「狼なら、ここに来る途中にはぐれたよ」
俺の意図を察してか、眼々は言う。いつだって彼女は気味が悪いほどに察しが良い。
「はぐれた?」
「ああ。まあ、正確には人ごみの中で私が狼からはぐれて、仕方がないからそのままここに来たわけだが」
「連絡しなくていいのか?」
「スマホを事務所に忘れた」
彼女は完璧な頭脳と人知を超えるものへの理解を兼ね備えている。それだけの人間ならば、恐らく俺たちは彼女に対して恐れを成していただろう。しかし、そうならずにこうして交流をもっているのは、きっと彼女の抜けている部分を知っているからだ。
「時間だ。行こう。今日はどんな要件だ?」
「……真神を待たなくていいのか?」
「どのみち、彼はこの待ち合わせ場所を知らない」
「……じゃあどうやって合流する気なんだ?」
「さあ?」
真神と彼女がなぜ一緒に居るのかは知らないが、彼らと出会ってから8年、真神が彼女に対して抱いている感情には何となく見当がついている。俺でも見当がつくその感情を、しかし眼々本人は知らないようだ。他人に対しては察しが良いのに、いざ自分のことになると常人以上に鈍感だ。こうやって気にされない真神を見るたびに、さすがの俺も彼に対して同情する。可哀想な気がする。
「……今日は俺の兄貴分の用件だ」
「兄貴分?」
「中田勇作。前に会った筈だぞ」
「興味のない相手はすぐ忘れるから知らない」
「……そうか」
彼女の中で、人類は恐らく2つに分類されている。面白いものと、そうでないもの。前者は興味の対象として彼女に記憶されるが、後者はきっと短期記憶にすら留めてもらえないのだろう。きっと後者である大多数の人間を思うと、辛うじてでも前者に分類されている真神や俺は幸運なのだろう。それはつまり、俺にも可能性があるということだろうか?いつも共に過ごしている真神と同じ土俵に居るということだろうか?
「じゃあ、行くか」
俺は路駐していた車のカギを開け、いつも真神がしているように助手席の扉を開いた。
「乗ってくれ」
そして彼女が乗ったのを確認して、いつも真神がしているように静かに助手席の扉を閉め、反対側に回って運転席に乗り込む。少しの優越感を感じながら、俺は車のエンジンをかけた。
****
中田勇作、40歳、身長はそんなに高くないが、鍛え抜かれた身体は実際のサイズより大きく見える。ゆえに、眼々が近くに行くと2人はまるで親子のようだ。
「うちの家系は代々、18になると身体のどこか一部を失くすんだ」
中田勇作の事務所に着くと、武装した彼の部下に迎え入れられた。壁際で1列に並んでいる彼らを前にすると、普通の人間だったら恐れおののき、表情がそれなりに変化するだろう。しかし、そこはさすが眼々と言ったところ。その圧巻に全く動じる様子はなく、眼々は中田勇作と握手をした。
「まあ、座ってくれ」
「ああ」
……敬意を払うつもりも彼女にはないらしい。
「で、一部を失くすとは具体的にどのように?」
脚を組みながら眼々が言うと、中田勇作は左肩にぶら下がる義手を外した。
「こんな風に」
「いや、結果を問うているわけではない。過程を説明願いたい」
「突然消えるんだよ。俺の父は大腸、弟は耳、祖父は眼球だった」
「歴代の失われた箇所に規則性や共通性は?」
「ない」
「そう」
ぼそぼそと呟くように眼々は会話をすると、出された紅茶に何の躊躇いもなく口をつけた。いつもだったら、過保護なお目付け役が毒見をしてから渡しているところだ。俺は毒見の時を見計らって彼女の背後に控えていたというのに、とんだ肩透かしを食らった気分になった。
「で、君は私に何をして欲しいんだ?」
カップをテーブルに戻し、彼女が問う。
「俺の息子が今日、18になる。あいつは18年前の16時23分に生まれた」
眼々が腕時計を見る。中田勇作が言う時間まで、あと6時間。
「身体は時間まで正確に、その瞬間に奪われる。それを守ってほしい」
中田勇作が言う。正義感が強く、曲がったことが嫌いな彼は、眼々に対して頭を下げて見せた。
「頼む」
少しの瞬間、その後。俺は見た。
眼々が中田勇作を見て、その向こうの誰もいない空間を見て、そしてかすかに口角を動かす様を。その表情は、あの夏の日の彼女に似ていた。
****
「原因を排除する様を見たいなどと、君の兄貴分はまた面倒なことを言うね」
中田勇作の事務所の一室。準備をすると言って人払いをした眼々は、床に油性ペンで何やら模様を描き始めた。中田勇作はその怪奇現象を目に見えない何か、要するに幽霊や妖怪の類の仕業だと思っているようだったが、しかしそれが見えないままにことが解決することを拒んだ。自分の目で見て解決を見届けたいと、彼は言った。
「目に見えない何かの存在を肯定しておきながら、見なければ納得できないとでも言うのか」
「まあ、普通だったらそうだろう」
「“普通”の定義がうちにはわからない」
眼々が描く、その模様は部屋の半分に至った。ドアの対角線にある窓。その下から半分の床を、奇妙な模様が覆っている。眼々は油性ペンに蓋をして立ち上がると、ポケットから小さな紙切れを取り出した。
「これに書かれているものを買ってきて」
そういってこちらに差し出された紙切れには『岩塩、水(鉱水)、筆ペン』と書かれていた。
「時間が無い。30分で戻れ」
眼々は腕時計を見て呟く。俺はとりあえず近所のショッピングモールに向かって走り出した。
****
「眼々、」
メモにあった物を購入し、彼女が謎の模様を描いた部屋に戻る。戻ったぞと言いながら扉を開けようとして、中から声がするのに気付いた。
「おいおい、そこに入ると見られてしまうよ?」
「……たら呪ってやればよい。所詮ニンゲンなど、羽虫ほどの力も持たぬ弱きモノよ」
「随分な言いようだな。じゃあうちと勝負してみる?本当に人間が弱いかどうか確かめてみるといい」
そっと扉を開けてみると、そこでは眼々がパイプ椅子に座って、模様の描かれた床の方を向いていた。その床、模様が描かれた床には、これまでに見たことのない姿のものがいた。
「な、何だお前は!」
思わず怒鳴っていた。一見すると、着物を纏う小柄な老人。しかしよく見ると、3つの眼球は抜け落ち、腕は原始的なサルのようで、肉食獣のような牙をもち、剥き出しの足は骨だった。そんな、醜い造形のものが、眼々が描いた模様の上に立っていた。
「見タナ、ニンゲンの子供……」
俺の声に気づくと、それは誰かの叫びを纏って巨大化していく。こちらを向き、ひたひたと歩き出す。
「うわっ!」
憎悪のような、悲しみのようなものを、それは纏っていた。俺は咄嗟にナイフを取り出した。こんなものが役に立つかはわからなかったが、初めて見る異形の存在に、俺はすっかり思考を失っていた。
「見てないよ」
瞬間、誰かの手によって視界が閉ざされた。窓際のパイプ椅子に座っていたはずの彼女の声が近くにあった。これはきっと、彼女の手だ。
「見タ、見タ」
「見てない。でも、そこに居たら見られてしまうかもしれないから、早くどこかへ行きな」
「ミラレル、ヤダ、ミラレルハヤダ」
視覚を失った中で、俺を恐怖させた感覚が霧散するように消えていくのを感じた。少しして、俺の目を覆っていた手は離れていった。
「危なかったね」
傍らには眼々がいて、そういうと俺の手にある袋を取り、何もなかったかのように椅子の方へ戻っていった。
「眼々、今のは……なんだ?」
「さあ?」
「さあ、って」
「うちも知らない」
「知らない?」
「そう。知らない」
眼々は袋を椅子に置き、中身を確認すると、握りこぶし大の岩塩を手に取った。瞬間、それは彼女の手の上で1センチ程度の欠片に割れた。彼女はそのひとかけらをペットボトルの水の中に居れ、蓋を閉めるとがしがしと振り始めた。
「そろそろ始める。あの男と息子を呼んできて」
彼女の足元では、床の模様の上に菌糸のような植物が生え、小さな顔がいくつもこちらを向いていた。時計を見ると、針は16時13分を示していた。いつの間にか時は経ち、窓からは夕焼けが射し込んでいた。
****
「ここに立って」
眼々が示したのは模様の描かれた床の中心だった。中田勇作の息子、中田雄二は明らかに怯えた様子で、きょろきょろと辺りを見回しながら彼女の指示に従った。
「あと4分だ」
デンマークのデザイナーが作ったという、文字盤の色の配分で時刻を示す腕時計を見て眼々が言う。彼女は時刻を確認するとその時計を右腕から外し、そこに筆ペンでなにやら文字のようなものを書き始めた。
「大丈夫なのか?」
「問題ない。すぐに終わる」
文字は彼女の腕を一周して、手の甲に尻尾を置いて終わった。
「ひとつ、確認しておきたい」
眼々は筆ペンを俺に渡すと、中田勇作の方に向いた。
「依頼は、君の息子の一部を奪われることを阻止する、ということで間違いないか?」
そして彼女が発したその問いに、俺は前にもこんなことがあったのを思い出す。
彼女が今回のような怪奇現象を解決する場には何度か立ち会ったことがある。彼女は“依頼を”必ず完遂する。だがそれは、必ずしも依頼人を助けるものではなかった。結果として依頼人に不幸が生じるとき、彼女は決まって、直前に依頼内容を確認する。
「ああ。間違いない」
今までの、俺とは無関係な人間とは違う。今回の依頼人は、俺が慕ってやまない俺の兄貴分だ。彼に俺は、何かが起こると伝えるべきだ。そうする、べきだ。
「……そう。わかった」
しかし俺は何も言わなかった。それについて複雑な理由はない。ただ、俺の精神が“普通”の行いを拒絶した、それだけの話だ。『“普通”の定義がうちにはわからない』彼女の言葉が、脳内にこだました。
「来た」
ぼそりと呟くと、眼々は岩塩を溶かした水を右手にかけた。腕の文字が滲んで、黒い水滴が床に散らばった。彼女がその手を中田雄二に伸ばすのと、彼に近づく魔物が床の模様の上に入り、可視化するのとはほぼ同時だった。
「……ミタ、ナ」
それは、俺がさっき見た着物を纏う老人のようなものだった。さっきよりは大きく、四つん這いになって動くその高さは成人男性の平均身長と同じくらいの高さだった。それは口からどす黒い息を吐き、外向きに生えた牙からは死体のにおいがするような気がした。
「メ、ホシイ、メ、アイツニ、アゲル」
四つん這いの前脚が、雄二の顔に伸ばされる。
「うわあ!」
雄二が悲鳴を上げる。逃げようとして尻餅をついた雄二に対し、眼々はしゃがみ込むと彼の眼球にそっと触れた。黒い水滴を垂らす右手の指で、そっと。
「これはあげられない」
不思議だったのは、息子を助けてくれと頭を下げた中田勇作が、その息子の悲鳴を聞いても動じなかったこと。
「アア、メ、ドコ」
「もうないよ。だから帰りなさい」
「アアアア」
恐らく、清めやらなにやらの一種だろう。眼々が触れた雄二の目は、もうその化け物に認識されないらしく、目的を失った化け物は少しの間あたりをきょろきょろと見回したあと、すっとどこかに消えていった。
「もう大丈夫だよ」
眼々は立ち上がると、尻餅をついたままの雄二を見下ろして言った。
「良かっ」
「おい!」
全てが終わったと思った瞬間、声を上げたのは中田勇作だった。
「早くあの化け物を殺せ!」
「なぜ?」
「あの化け物が犯人なんだろう?だから殺せ!」
息子の危機にも動じなかった男が、錯乱気味に言う。
「依頼は、君の息子の一部を奪われることを阻止する、ということだけだった。手段の指定はなかった。これでもう彼の目が盗まれることはない。依頼は完遂された」
彼女が淡々と述べるあいだ、男は「殺せ、殺せ」と何度も繰り返していた。
やがて、何らかの異変に気付いた様子の男は、自身の両目を手で覆ってふらふらと歩き出した。
「やめろ、嫌だ、これは俺の目だ、俺の……」
瞬間、模様のない床の上に血が散らばり落ちた。男は、中田勇作は、両目から血を流して倒れて、それっきり起き上がることはなかった。
****
「未来の中田勇作が、あれに過去から身体を持ってくるように命じたんだよ」
エレベーターの無い5階建ての雑居ビル。その3階にある事務所で、眼々は真神狼が淹れた少し薄いコーヒーを飲みながら言った。
「ずっと前の親族から順番に、一つずつ。彼の目算では、自分たちに至る前に揃うはずだったんだろうね」
ソファーに座る彼女の横には、恨めしそうにこちらを睨み付ける黄色い眼がある。
「自分が奪われたのは誤算だったんだろう。だからあれを消そうとして私に依頼した。未来は予定調和の姿をしていたから、あれを消せばその姿が確定されるとでも思ったんだろう」
難解な言い回しをする彼女の言いたいことはつまり、こういうことだろう。生まれながらに多大な肉体的欠損を抱えていた中田勇作は、現実と虚ろとをさ迷う中であの化け物と出会った。彼は古い自分の血筋から順に一つずつ奪い、自身の身体としていくことを願った。そしてあの化け物は次元をさ迷い、それを実行した。
それが成された未来に位置する、俺たちの知る中田勇作は、その契約の瞬間、五体満足な姿になったのだろう。他でもない、その身体が過去の自身や息子から奪われたものだとも知らずに。そしてそれは、彼の息子から両目を奪うことで完成する筈だった。しかしそれは成されなかった。結果、完成された身体から両目が失われるという結果に至った。と、いうことだ。
「それにしても、狼、君はどうやってあの場所を嗅ぎ付けた?」
眼々にとって中田勇作は誰でもないただの通り過ぎてしまう存在でしかない。そしてそれは終わった。だからだろう。彼女は完全にそのことに対する興味を失ったようで、代わりに少しの疑問を自身の隣に投げかけた。問われた真神狼は少しだけ誇ったような顔をして、しかし、彼女が問う瞬間を思い出したのだろう彼はすぐさま不機嫌そうな表情をした。俺は彼が思い出したものを回想する。
**
あの時、両目を失った中田勇作を前にして、彼の部下達は狼狽し、恐怖し、そして眼々に対して憤怒した。
「てめえ!勇作さんになにをした?!」
一瞬だけ静寂に包まれたその部屋は、状況を理解した彼の部下たちの怒号にあふれた。当然、その全ては彼女に向けられていて、ナイフやら鉄パイプやらを取り出した男たちは、小さく華奢な彼女ににじり寄った。
「別に。うちは何もしていない」
一般的な人間であったら恐怖するだろうその状況においても、彼女は極めて冷静だった。冷静に、無感動に、無情に。彼女が佇む床の模様には透き通った奇妙な植物がたくさん生えていて、その蔓は彼女の足に絡みつき、奇怪な姿をした獣が彼女の背後から男たちを空虚に見つめていた。
「この男が愚かだっただけだ。自身の置かれる境遇を知りもせず、その身に余る望みを抱いた」
彼女は一体“どちら側の”ニンゲンなのだろう?そんなことを、俺は思った。
「ふざけんなあ!」
ひとりの男の叫びを皮切りに、男たちは各々手にした武器を振りかぶった。俺にはその情景がスローに見えた。歩みだす男たち。彼女は、眉一つ動かさずに、何かをしようと右手を持ち上げる。不吉なことが、なにか人知を超えた無慈悲なことがなされる。そんな気がした。
「お前ら!やめろ!」
彼らが死ぬ前に、彼女が人殺しになるまえに止めなければならない。そう直感した。その瞬間、
「貴様ら」
低い唸り声のような囁きが聞こえて、眼々の背後に目を向けると、そこには、どこからともなく現れた巨大なオオカミが鎮座していた。黄色い眼をした、土色の体毛を生やしたオオカミ。それは彼女を守るように寄り添い、武器を持つ者を威嚇した。
「これに一体、貴様らは何をしようとしている?」
人語を話すオオカミに、彼女の足元にあった不思議な植物は踏みつぶされていた。床の模様の上に、奇怪なものはもう見えない。そのオオカミを除いては。
「狼」
右手を上げかけた状態で止まっていた眼々は、そっと囁くように呼ぶとそのオオカミの顎の毛を撫でた。
「過保護だぞ、君」
「眼々」
「問題ない」
諭すような声色で彼女が言うと、オオカミは少し躊躇って、しかし受け入れた様子で模様の上から去った。オオカミの姿は、頭から順に消えていった。
「な、なんだ、あれ」
本能的な恐怖にさらされた中田勇作の部下たちは、一瞬ののちに腰を抜かして座り込んだ。
「ああ、あれはね」
眼々が、あの夏の日のような笑みを浮かべる。
「あれは私の半身だよ」
彼女が、上げかけた右手を持ち上げていく。季節はまだ、夏じゃない。
「眼々」
その右手は上りきる前に止まった。彼女を呼ぶ声が聞こえて、振り返ると真神狼が扉の横に立っていた。
「ああ、狼」
「何を一人でやっている」
「……別に」
眼々はいたずらが大人に見つかった子供のような顔をして、右手を下ろすと彼のもとに歩いていく。
「報酬はいつものところに。あと、説明が必要なようなら事務所においで」
それだけ言って、彼女はあの雑居ビルへと帰っていった。
**
彼女が発した「君はどうやってあの場所を嗅ぎ付けた?」という問いに対して、真神は少し考えたあとに得意げな顔になり、
「鼻を使った」
と答えた。
「狼、君……」
ドン引きという言葉がしっくりくる顔をして、眼々は真神から少し距離を置く。
「眼々?」
「寄るな。オヤジがうつる」
まるで小学生のような言葉。そんなものを発する彼女が口にした、「あれは私の半身だよ」という言葉を俺は脳内で反芻する。その意味を、彼女がもつ闇を、彼らの過去を、あの夏の日の言葉を考えて、しかし俺には何の答えも見いだせないことを思い知り、彼らに対して少しだけ畏怖した。
不可能図形の住人 塵芥 @chiriakuta
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