第3話 蟻地獄



俺の名前は平塚八月。花の警視庁捜査一課に籍を置く中年刑事だ。中肉中背、柔道2段、最近足技を鍛えたくてカポエラを始めた。家族は妻と娘1人。去年から娘の服と俺のパンツは別で洗われている。別に悲しくなんかない。

そんな俺がカポエラで鍛えた下半身を使って階段を駆け上がっているのには理由がある。この雑居ビルにはエレベーターがないからだ。日本の首都東京にあって、5階建ての鉄筋コンクリート製であって、しかしエレベーターが無い。古い建物ならともかく、この建物は割と新しい。とりあえず、まあ、そんなこんなで俺は階段を上っている。目指すは3階のKiichi OATなる事務所。中年男と言えど、最近腹が少し出てきたと言っても、これくらいの運動で息を切らす俺ではない。変わり者2人が営む何でも屋で精神攻撃を受けても、俺は決してへこたれない。なにせ、俺は刑事だからな。


「おう!鬼一!いるか?」


曇りガラスがはめ込まれた扉を勢いよく開けると、コーヒーカップを片手に書類とにらめっこをしている男の仏頂面と目が合った。


「……平塚八月か。相変わらず無作法な訪問だな」


その黄色い眼をした長身の男は嫌味ったらしく言うとソファーに腰を下ろした。


「眼々は今日大学に行っている。あ奴と会いたいならば、まずはその低能な脳みそにアポ取りという概念を組み込むことだ」


こちらを見もせずに言う。真神狼と名乗るこの男の、こんな嫌味にももう慣れた。俺は傷ついたりしない。


「おお!相変わらずの仏頂面だなあ、真神!そんなんじゃあモテねえぞ!」

「生憎と、この造形は女受けが良い」

「だが、鬼一には効かないんだろう?」

「……す巻きにして海に流してやろうか?小童」


中年の俺を小童などと呼ぶのはこの男くらいだ。真神の外見年齢は30代前半くらいだ。そいつが俺を子ども扱いするのだから、事情を知らない奴が見たら小首を傾げるだろう。まあ、かく言う俺も、こいつらが話す“事情”の全てを受け入れているわけではないが。


「で、何の用だ?」


手にしていた書類をテーブルに放り、コーヒーを啜ってカップを置くと真神は脚を組んでふんぞり返った。向かいのソファーを指さして座れと命じる。こいつのこんな姿は、鬼一眼々が居る時には決して拝めない。鬼一の前ではまるで献身的なボディーガードのような振る舞いをする、この男の本質は恐らくこちらなのだろう。


「とある事件について、意見をもらいたい」


俺は命じられるままにソファーに座る。以前、鬼一のいないところでこいつの指示に反することをして、なんとも言えない不気味なことになったのを覚えているからだ。仕事のできる男は同じ失敗を繰り返さない。


「『自分にはできないから解決してほしい』の間違いだろう?」

「……ああ。まあ、そんなとこだ」

「フン。で、どんな事件だ?」


俺はカバンから写真を十数枚取り出す。


「一般人の連続失踪事件だ」


その中から被害者の顔写真を選び出し、失踪した順番にテーブルに並べていく。


「今月に入って13人が失踪している」

「過労社会で死にたくなっただけだろう」

「最初はそんなとこだろうと思ったんだがな」

「何かあったのか?」

「この13人全員、最後に目撃された場所が同じなんだ」


13人の顔写真の下に、目撃場所の写真を置く。


「『bar ANTLION』」

「どこにでもある普通のバーだ。で、このバーに入っていったこの13人だが、誰もここから出ていくのを目撃されていないんだ」

「なら、このバーのどこかに隠されているんだろう」

「と思って調べたんだが何もなかった」

「……」

「おかしなくらい、何もなかった」


神妙な声で、俺は言う。真神はと言うと、最初はどうでもよさそうな顔をしていたが、バーの写真を出すと少し興味を示したようにその写真だけを見た。こいつにとって、その上に並んでいる行方不明者は海辺の砂粒1つのような存在なのだろう。たとえ目の前でこいつらが惨殺されても、恐らくこいつは顔色一つ変えない。こいつの世界では、ニンゲンは鬼一眼々のみが必要で、唯一無二で、それ以外は羽虫以下の存在なのだろう。


「で、お前は何をして欲しいんだ?」

「このバーの秘密を探って欲しい」

「なぜこのバーを?」

「絶対に、被害者はこのバーに居るからだ」

「なぜそう思う?」

「刑事のカンだ」


俺が得意げに言うと、真神は目一杯のあきれ顔になった。


「……相変わらず馬鹿だな、お前」

「うるせえ!俺は俺自身を信じてるんだよ!」

「勝手に信じて勝手に死ね」


言って、真神はふと、鉄面皮に薄っすらと笑みを浮かべた。


「だが、今回はそのカン、正解だ」

「何かわかったのか?!」

「わかったも何も、写真に答えが写っているではないか」

「は?」

「まあ、馬鹿には見えないものだがな」


真神はバーの写真を手に取ると、至近距離で穴が開くほど見つめる。


「行くぞ」


そしてそれをこちらへ指ではじいて真神は立ちあがると、鬼一の机の上にある何かのキャラクターのぬいぐるみキーホルダーがついたカギを手に取った。


「行くって、どこに」

「そのバーだ」

「鬼一は?」

「大学に行っていると言ったはずだが?」

「いや、だから、鬼一抜きで行くのか?」

「……あ奴にこれは見せられん」


「さっさとしろ」と言って真神は扉へと歩を進める。俺は慌てて写真をしまい、嫌味な長身の男の後を追った。


****


――――8年前。

男の叫び声がしたという通報を受け、とある警察署勤務だった俺が現場へ駆けつけると、そこには返り血まみれになって路地裏に座り込む少女が居た。


「……いつになったら状況は動くんだい?」


その少女の辺りに文字通り“挽き肉”になって散らばっていた死体を集めると、奈良県出身の3人の男になった。俺は少女を連行してシャワーを浴びさせ、取調室に連れて行った。そこで少女は「うちがやった」と言って、それっきり口を噤んでいた。

少女がこの細腕で大の男3人を挽き肉にしたとは思えない。だが、現場に凶器らしい物は何一つなかった。目撃証言から考えて、別の場所で殺害したとも、少女がその返り血まみれの状態で移動したとも考えられない。

その日は晴天だった。犯人が他に居たとして、あの挽き肉の飛び散り具合から痕跡を残さずに逃走することは不可能に思えた。状況は彼女が殺人犯であることを示していて、彼女自身もそれを認めていて、しかし常識がその結論を否定する。

そうして数日が経った頃、ぼそぼそとした口調で18歳の少女は俺に問うた。


「今、捜査中だ」

「うちが殺したと言っているだろう」

「じゃあ、何で殺したのか教えてくれよ」

「……言ったところで、君たちはそれを受け入れない」


それから数日後、捜査は別の犯人が居るという仮定のもとに進みはじめ、少女は釈放されることになった。


「警察って、無能だね」


それだけを言い残して、少女は警察署を後にした。じりじりと蝉の鳴く8月のことだった。少女に家族はなく、署まで迎えに来たのは黄色い眼をした不気味な男だった。


それから暫くして、俺は警視庁に移動になった。東京の凶悪犯罪に関わる、忙しない日々。とある雑居ビルにある、若い女と大柄な男が営む何でも屋の噂を耳にするようになったのは、その夏から2年が経った頃だった。


****


初めてあの雑居ビルを訪れてから6年が経った。何があったわけでもないが、何もないとは言えない日々。連続失踪事件の現場に向かう途中、感慨深く思い出したのは、きっと俺が歳を取ったからだろう。


「着いたぞ。ここだ」


看板には『bar ANTLION』の文字。Antlionとは、確かカゲロウの英名だっただろうか。どこかで、あの透ける翅の儚い昆虫は幼虫の頃に砂の中で蟻の内臓を吸って育つと聞いたような、聞かなかったような……


「お前はここで待て」


言って、真神は店のドアに進んでいく。ちなみに、待てと言われて待つ刑事は居ない。当然、俺は真神の後を追った。


「……晩飯が食えなくなっても知らんぞ」


真神はそっとドアを押した。

カラカラとチャイムが鳴る。足を踏み入れると、背後で静かにドアが閉まった。薄暗い店内に客の影はなく、一人のバーテンらしい女がカウンターに立っているだけだ。


「いらっしゃい」


しっとりした声で、女が言う。空調の設定ミスだろうか。店内は肌寒さを超えて寒い。まあ、鍛えている俺にとってはこの程度の寒さ、屁でもないが。


「13人のニンゲンで一番美味かったのはどいつだ?」


入店し、開口一番に真神が言った。


「おい、真神。一体何を」

「馬鹿刑事は黙って居ろ」


天井からぶら下がるペンダントライトが、風もないのにゆらゆらと揺れる。ちらちらと動く仄暗い光が、不気味な男の横顔を照らした。

この不気味さには見覚えがある。あの日、あの夏の日に、こいつが鬼一を迎えに来たときの記憶だ。


「……お客様、一体何の話をされて」

「御託はいい。お前、わかっているだろう?私が何なのか」


長い前髪で目元が隠された女の薄い口元が、妖艶な笑みを浮かべた。


「……きっと、“14人目”が一番美味い」

「お前も馬鹿か」

「馬鹿はお客様の方では?なぜニンゲン風情の味方をする。気が狂ったのか?」


女の造形が、沸騰していくようにブクブクと変化する。肥大化していく。その影がバーカウンターを埋める程になったとき、ふと、姿が消えた。


「え?!」


俺は何が起きたかわからず、横に立つ男を見やる。男は、真神は、何やら少し不機嫌そうな顔をしていた。


「私はニンゲンの味方などではない」


「眼々の味方だ」それを聞いた後、とうとう現実に認識が追い付かなくなった俺の五感から聴覚がログアウトした。無音の中、一瞬、真神の顔が獣のそれになったように見えて、そして消えた。


「は?!おい、真神!どこだ!」


誰も“見えない”その場所で、テーブルがひっくり返り、椅子が粉砕し、酒瓶が割れて中の液体が飛び散る。何かが動く空気の流れを感じるが、そこには何も在るように見えない。


「真神……おい……」


数十秒の出来事だった。1分も経過しないほどの短い時間。「おい」と声がして、店の奥を見やると床を見下ろして立つ真神の姿があった。


「真神?」

「この下だ」

「……何が?」

「13人」


床を指さす真神の手の甲には、女に引っかかれたような傷ができていた。


****


本部に連絡をして、バーの床板をこじ開けた。


「うっ……」


そこには2メートル四方くらいの穴があって、“13人”だったものが詰め込まれていた。

Antlionの幼虫、蟻地獄は、砂の穴に潜み、獲物を捕まえるとその体内に内臓を溶かす体液を注入する。そしてすっかり溶けた内臓を、ちゅーちゅー吸って食事をするそうだ。そうして中身を失った外皮は黒く変色し、蟻地獄はそれを巣の外に捨てる。

このこととバーの名前とが、どう関係しているかはわからない。俺が見たバーテンらしい女は、その後捜索したが見つからずに終わった。それからしばらく、俺はまともに肉を食うことができなくなった。


****


勤務時間などとうに過ぎていたので、職場に戻ることはしなかった。けれど、13人の成れの果てを目撃したこのテンションで帰宅したところで、待っているのは娘の「ウザイ」という言葉。さすがの俺でも、それを耐えきる自信は今現在まったくない。従って、苦肉の策として俺は雑居ビルの事務所に行くことを決めた。


「ただいま」


そしてソファーに座って休んでいると、ありきたりな言葉と共に鬼一眼々が入室してきた。


「平塚?」


常人離れしたこの女の普通染みた言葉ほど面白いものはないけれど、今の俺にそれをからかう余力はない。


「おお、鬼一。邪魔してるぜ」


普通の大学生に扮した鬼一は本当に大学生で、こんな仕事をしていながら某難関大学を首席で卒業した後に院に進み、今は博士課程の2年だか3年だからしい。こんなやつが高学歴を背負っていずれ一般社会に出ていくのかと思うと世も末だ。


「狼、何かあった?」

「おかえり、眼々。特に何もない」

「……そう?」


真神はさっきまでとは180度角度が変化して、献身的なボディーガードの顔をしている。


「まあいい。これ」


鬼一は問うておきながら俺に興味がないようで、早々に話を切ると、一枚の紙切れを真神に渡した。


「帰りに花形の手下と会った。依頼だ。明日行くよ」


日常のように、友達の1人を話すように鬼一が出したその名前は、この近辺を仕切っている暴力団幹部の名だ。今日は警察が持ってきた仕事をして、明日は暴力団が持ってくる仕事をする、こいつらは警察も暴力団も手を出せない領域で商売をしているのだろう。絶対的中立であり、絶対的不可侵領域。こいつらが何なのか、俺は経験をもって知っているけれど、理解を常識が拒絶する。


「なあ、お前らってさ、」


問おうとしてやめた。あの夏の日の少女の真実さえ、俺はまだ知らないから。


「……なんだい、平塚」

「いや、やっぱ何でもねえ」

「恥ずかしくて聞けないなら、うちが問いの内容当てようか?」


疑問形で話しておきながら返答を待たずに観察による情報収集を始める鬼一を見て、俺は勢いよくソファーから飛び起きた。たった今考えていた、少しポエムじみた思考を当てられたら未来永劫真神にいびられる。


「おい、そんなことにとんでも推理使うんじゃねえ!」


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