ヒューリーの教科書

古宮まこと

第1話 森の獣


 森には新緑が生い茂り、木々の間からゆっくりと光が差し込む。木の葉の揺れに応じて揺蕩うその影を追いかける様に少女は目線を送った。

 どこからか小鳥の声が響き、生き物の蠢く音がする。虫であれ、動物であれ、この森に棲む者達の気配を少女は感じることができた。

 目線がゆっくりと下がっていく。何かの匂いをかぎ取る様に、獣が地面へと顔を寄せている。その背に乗りながら片腕に抱えた本を落さない様に再度力を込めた。

 片腕に抱き締めた本からも様々な気配がする。その気配を温める様な気持ちで腹に抱え込む。

 古びた青い表紙が特徴のその本は、少女のその行動に喜んでいるかの様に暖かな気配を送り返してきた。


 この本は生きている。

 

 そう教えてくれたのはこの大きな獣だった。何時からその獣と一緒に居たかは思い出せなかった。

 

 獣は常に少女と共にあった。朝目が覚めて、夜眠りに落ちるまで、少なくとも少女の意識がある間、片時もその獣が少女を離れる事は無かった。


 

 「ヒューリー……、 ねぇヒューリー。 ちょっと休憩です。 ナギは疲れたよ」

 そう言って小さな少女が大きな毛むくじゃらの塊に語りかける。土を固めるように平手で数回パシパシと打った。

「うわぁ! 」

「ナギ、 まだ休憩はしない。 もう一度だ」

 人語を会す獣はため息まじりにそう言うと、その図体をのそり、と起きあがらせた。

 大きく揺らぐその身体、周りの茂みを追い越すほどの高さである。バランスを崩し背に乗ったものの落ちそうになる少女を下から調和を取ることで支えた

 その所為で獣の背に乗っている少女が殊更小さく見えるのだった。

 「ヒューリーは厳しいっ! ナギは午後、 湖で遊びたい遊びたい遊びたい遊びたい遊びたい!!!! 」

 ヒューリーと呼ばれたその獣は虎のような風貌をしていた。全身に毛並みのいい紺色の体毛を携え、長めの尾を不規則に揺らしながら少女を叱責する様に身を揺らした。

 「わっ!? 」

 長い尾で少女の身体をクルリと巻くと、草木生い茂る地へとまるで宝物を置くかのようにそっと、そっと降ろしたのだった。

 「ナギ、 我が儘を言うな。 泣き言も言うな。 強くならなければいけないのだから。 父君と母君のように、 そして私がいなくなっても生きていけるように」

 そう言うと身を屈め、ナギと名乗る少女に鼻先を向ける。さらさらとした気持ちのいい毛並みが頬を掠めると、ナギは堪らず獣の首にしがみ付き顔を隠した。

 「ねえ、 ヒューリー。 消えたりなんかしないよね? 嘘だよね? ナギとずっとここにいて。 ずっとずっと一緒にいて」

 動物特有の匂いを感じる。しかしそれが紛れもない、生きている者と接している匂いなのだった。

 「ナギ、 お前はいずれこの森を出ていかなければならない。 父君と母君が私に残してくれた力はもうほとんど残っていない。 だからその前に、 私が消えるその前に、 どうか私を安心させて欲しい」

 冷たい感触が首筋に伝わるのを獣は感じていた。泣いているのだ。愛しい愛しいこの子が泣いているのだ。そう思うと、姿形全てが魔法でできているこの身が引き裂かれるような気分だった。

 「お前の一族はもうお前以外残っていない。 だから何としても役目を果たさなければならない。 ナギ、 必要な事は全て私が教えるから、 だからどうか泣かないでくれないか 」

 しがみ付いた小さな腕に力が入った。締め付けるように獣に抱き着く少女の肩は小刻みに震えている。

 一族の役目など、知った事ではない。そんな事よりも彼を失いひとりぼっちになることの方がナギには耐えられなかった。

 「教えなんていらない。 ナギには、 ヒューリーがいてくれたらそれでいい」

 聞き分けのない子供をあやす様に前足で抱き寄せると、少女は大人しく獣の行動に従った。

 彼女がどれだけ駄々を捏ねても、その時は来てしまうのだ。そして、ナギ自身その事を分かっているからこういった行動をとるのだ。

 今日はもうここまでにして、塒に帰った方がよさそうだ。愚図る少女をどうにかして慰めてやらなくてはどうしようもない。

 ナギを再び背に乗せるため、屈んで見せればその行動に何の疑問を抱く事無くしゃくりあげた少女が背に跨ってくる。相変わらず大きな瞳からは涙がたれ流れ、鼻水まで出ている始末だった。

 その様子にまだまだ手がかかるとため息をついた。しかし落胆からではない。親が子を思う様な気概がそこには存在するからだった。

 獣が歩き出す。泣きながらその背に乗る少女を心配するように、森からはいくつもの気配が顔を覗かせていた。

 

 




 その頃の私にとって世界は一つの大きな怪物でした。

 森の外に出ることはけして冒険なんてウキウキするような事柄ではなかったのです。ただ恐ろしいとしか思えず、私は想像するといつも震えて泣くばかり

でした。


 その獣はいつでも側にいました。


 お腹が空いたとまだ赤ん坊の、泣き喚く私にどうしたらいいのか分からず、必死に舐めたり小突いたり。おぼろげな記憶の中、思い出したら笑ってしまう様な狼狽振りでした。

 言葉を教えてくれたのも彼でした。草は草ということ。花は花ということ。

 私は全てを彼から教わりました。それはもう、私にとっては[親]と呼べる分類だったのです。


 その内、私は一つ彼によって傷を負いました。


 外傷ではありません。彼は絶対に私をそのような意味で傷つける事は無かった。


 とても厄介なそれは[心の傷]と呼ばれるものでした。

 しかしその傷を負わせた彼は、何処か平然としていました。彼にとって、それも教育の一つだったのです。


 私と彼とは種族も、そしてその生きる性質すら違い、そもそも世界が違うのだと……。

 物心は付いた頃でしたが幼い私は泣きました。それはそれは長いこと長いこと、その大きな獣にしがみついて泣きじゃくりました。

 その間も、彼は私の全てを受け止めるように、静かに目を瞑り、身体全部で包んでくれていました。


 五つになると、彼は私に一冊の本をくれました。

 彼はその本を[命の塊]と言いました。


 真っ青な、とてもとても美しい本でした。

 パラパラとめくると、そこには沢山の絵が描かれていました。その、彼の言うところの命の塊は、一つの絵を輝かせると、読んでみなさいと文字を浮き上がらせまいした。

 素直に従いその文字を読み上げると、眼前に眩い光のが差し込み、魔法陣が浮かびあがると、その中心から小さな鼠の様な動物が出てきました。

 

 私が初めて召喚した事となったその生き物は、当時の私に合わせて本が選出してくれた何ともひ弱な動物でした。できる事と言えば物を探す事、それから美味しいキノコを選べる事です。

 自信ありげにそういったその小さな生き物が可愛くて可愛くて、私はすぐにその本に魅了されました。


 こうして魔本、召喚獣大全第2巻は私の手元にやって来たのでした。


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