第三話・質素な朝食を。

 朝。犬居が目を覚ますと、自分のベッドの下が見えた。

「ホコリだらけだな……」

 そう呟き、むくりと身体を起こす。床で寝たせいか腰が痛いが、その原因となる存在は今、犬居のベッドで大音量のアラームを意に介する様子もなくすやすやと寝息を立てていた。

 とりあえずアラームを止め、ベッドで眠る舞衣子が起きないようそろそろと移動し服を着替える。黒いネクタイのスーツ。そして冷蔵庫から昨日のコンビニ弁当を取り出し、電子レンジで温めた。

 ここで難関。気持ちよさそうに眠る舞衣子、多分この子すごく朝に弱い。どう起こしたものか。

「えーと、あ、あの、舞衣子さん……?」

 触れて良いものか一瞬悩むも、あまりもたもたしていては会社に遅刻すると思い直し、犬居は胎児のような姿勢で眠る舞衣子の肩を揺する。

「起きて、あの、ぼ、僕会社行かないといけないから」

 そうやって揺すり声をかけ続けるていると、舞衣子は太い眉を寄せて目を開けた。しばらくぼんやりと犬居の顔を見ていたが、突然犬居に抱きついてきた。

「ま、ま、舞衣子さんあの、あの、ちょっと何やめ」

「お兄ちゃん」

「え」

 犬居の腹のあたりに顔を埋めた舞衣子は、もう一度「お兄ちゃん」と繰り返すと、ゆっくりと身体を離す。そして、少し上ずった声でこう言った。

「ごめん、お兄ちゃんに起こしてもらうの、すっごく久しぶりだから……なんか、うん」

 目尻の涙を拭う舞衣子。犬居は「そ、そう」としか言えないままそれを見ていた。


「と、とりあえずこれ、コンビニのやつだけど食べて」

 犬居は座卓にレンジから出した弁当と割り箸を置き、それを舞衣子に勧めた。

「いいの? ありがとう、昨日から何も食べてなくてすっごいお腹空いてたの!」

 舞衣子は遠慮なく、温かいハンバーグ弁当に箸をつける。

 コンビニ弁当を貪る舞衣子の横で、もそもそと食パンにマーガリンを塗ったものを食べる犬居。

 しばらく無言の時間が流れ、やがて弁当と、追加で犬居が差し出した食パン一枚を平らげた舞衣子は、満足気にぴょこんと頭を下げた。

「ごちそうさまでしたっ!」

「う、うん、どういたしまして。……ホントにお腹すいてたんだ。よかった夕飯にこれ食べなくて」

 そう言って犬居が舞衣子に目をやると、舞衣子は小さい黒目をさらに小さくする勢いで目を剥いていた。

「えっ! これお兄ちゃんの晩ご飯だったの? ご、ごめん……」

「いや、いい、いいんだよ。お腹すいてたんなら、よ、良かったっていうか」

 だから満足して出て行ってくれ、と言おうとしたところで、時計を見ればそろそろ家を出る時間だ。

「まずい」

 ばたばたと家を出ようとする犬居に、舞衣子がついてくる。

「じゃ、じゃあ、僕はこれで……家には帰れる?」

「帰れるわけないじゃん! っていうかお兄ちゃんこの状況で会社行くの?」

「そりゃ……って、ちょ、ちょちょちょちょっと待って、その格好でついてこないで!」

 一旦開けたアパートの玄関のドアを閉め、黒いエナメルの下着のような格好の舞衣子を中に押し戻す。

「ふ、服、……とりあえず着ようか」

「あっそうだね! そうだ、もしよかったらお言葉に甘えてシャワー借りたいんだけど、いいかな?」

「ま、まだ何も言ってないんだけど……ん、まあ、いいよ」

 ありがとうお兄ちゃん。そう言って浴室に入っていく舞衣子を目で追ったのち、犬居は大きく溜息をつく。

 そしてスマートフォンを取り出し会社の番号を呼び出すと、少し逡巡してから通話ボタンを押した。

「あの、も、もしもし、犬居です。……あ、あの、えっと、きょ、今日、体調が悪くて……あ、ね、熱が、熱がありまして」

 電話口からの声が何やら言って、犬居はスマートフォンを片手に、ぺこぺこと虚空に向かって頭を下げる。

「も、もも申し訳ないです、すみません、あ、はい、すみません、では、今日は、はい、はい」

 やがて電話を切った犬居は、頭を抱えて座り込むと先程より一段階大きな溜息をついた。

「何やってんだろ、僕……」


 やがてシャワーを終えた舞衣子と正座で向き合い、犬居は口を開く。

「あ、あの、僕の元の世界って……僕の、記憶って、い、いったい何なのか、教えてくれるかな」

 喪服に身を包んだ舞衣子は、真面目な表情で頷いた。

「やっと聞く気になってくれたんだねお兄ちゃん。いいよ、そのために来たんだから」

「いや、あの、あ、別に信じるってわけじゃないんだよ。た、ただ話して、少し君が納得するなら、その方が、ね」

 わたわたと補足を付け加える犬居だが、舞衣子の目にまたうっすらと涙が浮かんでいるのを見て、佇まいを正す。


「じゃあ、話すね。何も覚えてないんならきっとビックリする……っていうか全然信じられないことばかりだと思うけど、でも、聞いて」

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