第二話・妹が侵入者。

 犬居は会社のデスクに頬杖をつき、ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。就業時間を過ぎ残業も終わり、電源を落とされたパソコンの画面には何も映っていない。

「あの子、なんだったんだろう」

 やはり、昼休みに出会った若い女性のことが気になっていた。妹を名乗るには不自然でない年齢に見えたが、そんな存在がいた記憶は本当にない。

「……馬鹿馬鹿しいな。元いた世界がどうとか、神様とか。きっとちょっと電波な感じの、赤の他人だよ」

 そう独り言を漏らすと、犬居は立ち上がり帰り支度を始めた。


 帰りの電車内、吊り革を掴んで揺られている犬居が、はあ、と大きな溜息をついた。目の前に座る女性に怪訝な顔で見上げられ、気まずげにそっと目を逸らす。

 その頭の中では、舞衣子と名乗る彼女が最後に言った言葉が繰り返し響いていた。

『ユカリさんのことも忘れちゃったの……?』

 犬居は眉間にしわを寄せた。自分の人生のどこにも、ユカリという人物が重要な立ち位置にいた時期はない。今までに恋人どころか女性の友人すらいたためしがない犬居には、まったく心当たりのない名前だった。

 ただ妙にその名が気になるのは、それを口にした舞衣子の悲しげな声のせいだけではないような気がしていたのだ。


 アパートに帰り着いた犬居は、自室のドアの前に何者かが座り込んでいるのに気づく。まさかと思い恐る恐る近寄ると、案の定とでも言うべきか、喪服姿の舞衣子だった。

「えっと……」

「あ、おかえりお兄ちゃん」

 舞衣子は眠そうに目をこすりながら立ち上がり、へらりと微笑む。

「い、いや、お兄ちゃんじゃないんだけど……って言うか、何でここが」

「そりゃー、カミサマに場所教えてもらって……ああもう、そんなことはどうでもいいの!」

 犬居がドアを開けようと取り出していたその鍵を引ったくり、舞衣子は勝手にドアを開けて中に入っていく。犬居は慌てて後を追いかけた。

「ちょ、ちょ、ちょっと、何勝手に、待って」

「うわ、狭いね……いかにも独身男の部屋だなぁ……」

「で、出てって! あの、け、警察呼ぶよ!」

 舞衣子は一通り部屋の中を見渡したのち、満足したのか犬居のベッドに腰掛ける。そして、表情を真剣なものにしてこう言った。

「お兄ちゃん。……あたし、お兄ちゃんには前世の、元いた世界の記憶を取り戻してもらうしかないと思う」

「うん……僕は君にはいいお医者さんが必要だと思う」

「ふざけないで!」

 げっそりとした表情の犬居を睨みつけ、舞衣子はベッドのマットレスをぼすんと叩く。しばらく不服げに犬居を見ていたが、ゆるゆると首を振ってあくびをひとつした。

「もういいや、今日は疲れた。世界を行き来するのもね、普通に体力使うから」

 そして舞衣子はおもむろに立ち上がり、着ていた喪服を脱ぎだした。

「えっ、ちょ、ちょっと待って、ホントあの、困る、やめ……」

 慌てて制止しようとする犬居だが、女性の体に触れるという行為がためらわれるのか押さえつけたりはしない。その間に舞衣子は上着を脱ぎワンピースも脱ぎ、その下のサイハイストッキングも脱いでしまった。

「何よお兄ちゃん、別に妹には欲情しないでしょ?」

「妹って……」

 舞衣子は喪服の下に黒いエナメルのビスチェとショーツを身に着けていた。痩せ型の、言い様によっては貧相な身体とその黒光りする上下のギャップに、犬居は複雑そうな表情をする。

「ホラ、なんともないじゃん」

「あ、い、いや、まあそうだけど、でもそれは妹だからとかそういう話かなぁ……」

 首を傾げる犬居をじろりと横目で睨むと、舞衣子は真面目な口調でこう宣言した。

「とにかく、あたしはお兄ちゃんに記憶を取り戻させるから。時間がないの、明後日の正午までにお兄ちゃんがこの世界から出てってくれないと……」

「くれないと……?」

 興味本位で思わず聞き返した犬居に、真顔で返す舞衣子。

「カミサマたちにお兄ちゃんの存在が消去されちゃう」

「…………そっか」

「危機感ないなぁ!」

 舞衣子は苛立った様子でドンと床を踏み鳴らすが、やがてがくりと頭を垂れる。そして脱力したように犬居のベッドに横になった。

「あたし寝る。おやすみ」

「……はい?」

 常に伏し目がちだったその目を一瞬見開く犬居だが、舞衣子はすでにとろんとした声で伸びをしている。

「流石に宿の確保とかしてないし。お世話になりまーす」

「ま、待って待って、あの、な、何。どういうこと?」

「いいじゃん兄妹だし。あ、お兄ちゃん横で寝たかったらどうぞ」

「え、えええ遠慮します……」

「そう。おやすみ」

 舞衣子はそのまますやすやと寝息を立ててしまった。犬居は額に手をやりしばらく声にならない声で呻いていたが、ベッドの下に脱ぎっぱなしの喪服が投げてあるのに気づくとそれをハンガーにかけ始めた。

「まあ……お引き取り願うのは明日でもいいか」

 気持ちよさそうに眠っている女の子を起こすのはよくない、と自分に言い聞かせ、犬居は帰りに買ったコンビニ弁当を袋から取り出した。蓋を開けようとして、やめる。そのまま冷蔵庫に入れた。

「明日の朝この子……舞衣子さんだっけ、に食べてもらって、そんで帰ってもらおう……」

 はーあ、と声の混じった溜息を漏らし、犬居はシャワーを浴びようと浴室へ向かった。


 頭を洗いながら犬居は何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、ユカリって誰か聞くの忘れたな……。まあいいか、明日聞いてみよう」

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