色恋沙汰から。

涙墨りぜ

第一話・喪服で電波。

 犬居誠人いぬいまことはその日も一人、会社の外にあるベンチで昼食をとっていた。黒いスーツに黒いネクタイを締め、コンビニで買ったサンドイッチと紅茶をもそもそと口に運ぶ。陰気な表情を貼り付けた、決して整っているとは言えないその顔は病的に白かった。

 ゴミをビニール袋に入れ、ゴミ箱に捨てて帰ろうとしたとき、背後から声がした。

「ペットボトル忘れてる」

 犬居が振り返ると、一人の女性が飲みかけの紅茶のペットボトルを片手に持って差し出すかたちで立っていた。小柄な体格、細い四肢を喪服に包み、犬居を見上げている。

「あ、す、すみません……ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げてペットボトルを受け取る犬居だが、女性は眉間にしわを寄せて不服そうにこう言った。


「ずいぶん他人行儀なんだね、お兄ちゃん」


 寂しいじゃん、と続けるその女性は前髪を長く伸ばして真ん中で分け、後ろはざっくりと首の真ん中あたりの長さで切っている。白い肌、異様に小さな黒目、お世辞にも美しいとは言えない顔立ちは犬居に似ていると言えばそうかもしれない。しかし犬居はそうは思わないのか、首を振って否定した。

「ぼ、僕には妹なんていません。ずっと一人っ子です。両親が離婚したこともないので……ひ、人違いじゃないですかね」

「はーあ……本当にあたしのこと覚えてないんだ。なんかもうショックっていうかやるせない」

 大きく溜息をつく女性を困惑の表情で見下ろす犬居。女性に睨みつけられ、気まずげに目を逸らした。

「あっ、あの、なんか、すみません……えっと、じゃあ、僕はこれで」

「待ってよお兄ちゃん! こんなとこでサラリーマンやってる場合じゃないでしょ!」

 去っていこうとする犬居の手を掴み、女性はキッと眉を吊り上げる。


「お兄ちゃんは一刻も早くこの世界から出て、あたしたちの世界に、お兄ちゃんが元いた世界に帰らなきゃいけないの!」


 まずい、電波なコに捕まってしまった。そう言わんばかりに引きつり笑いを浮かべ頬を人差し指で掻く犬居。だがそれでも言葉は穏やかにこう返した。

「こ、困るな……。僕そういうのよく分からないっていうか、この世界で生まれてるし、両親いるし、元いた世界って言われても……」

「ちょっと、嘘でしょ? なんにも覚えてないの?」

「覚えてないって……さすがに前世の記憶みたいなのはない、かな?」

「ああーっ! もう! ありえない!」

 地団駄を踏む喪服姿に周囲の視線が突き刺さるが、女性はそれを気にする様子もない。

「ねえ、本っ当にあたしのこと忘れたの? 妹の舞衣子まいこだよ! 舞うに衣に子で舞衣子!」

「い、や、だから妹なんて……」

 じりじりと後ずさりをする犬居。舞衣子と名乗る女性は目に薄く涙すら浮かべて犬居に詰め寄った。

「ねえお兄ちゃん思い出して、それで帰ってきて! じゃないと……あのね、カミサマからもらった猶予は三日間だけなの! 思い出して!」

「こ、今度は神様……? な、なんかもう、ごめん、僕ついてけない……」

 追い詰められた表情の犬居が腕時計に目をやると、もう昼休みが終わる時間だ。

「あ、あのね、ごめんね、ホントあの、僕これから仕事だから、ごめん、行くね」

「待ってお兄ちゃん!」

 犬居は舞衣子にすまなそうに頭を下げるも、それ以上は何も言わず足早に会社のビルに入っていく。流石に関係者以外立入禁止のビルまで追いかけていくのはためらわれたのか、舞衣子は入口の前で立ち止まりこう問いかけた。


「お兄ちゃん、ユカリさんのことも忘れちゃったの……?」


 その悲痛とも言えるようなトーンの声で紡がれた女性名に、犬居は一瞬だけ振り返る。だが特に立ち止まるでも歩く速度を落とすでもなく、その背はエレベーターの扉の向こうへと消えていってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る